上告趣意補充書(1)

平成3年(あ)第704号

           上告趣意書補充書(一)

                             被告人   折山敏夫

 右の者に対する有印私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載、同行使、詐欺、殺人被告事件についての上告趣意の補充は左記の通りである。

    平成5年1月20日

                           主任弁護人  湯川二朗

最高裁判所第小法廷 御中

 

第一 憲法違反の補充 

、別件逮捕勾留中の被告人の供述を有罪認定の証拠とした違憲違法の補充

 ―――昭和52日第二小法廷決定(刑集31821頁)違反 

 弁護人は、上告趣意書の中で佐藤殺害について被告人が取調官に対してした自白及び被告人が作成した現場面・供述書は、すべて違法な別件逮捕勾留中に採取されたものであるら、これらを証拠として判断に供することは憲法違反である旨主張した。

 仮に本件における第一次第三次逮捕勾留が違憲違法な別件逮捕勾留ではないとしても、被告人が昭和6021日に佐藤殺害の容疑で逮捕されるまでのの佐藤殺害容疑の取調は「余罪の取調」にあたる。

 ところで、余罪の取調に関して、狭山事件に関する昭和52日第二小法廷決定(刑集31821頁)は、 

甲事実について逮捕・勾留の必要があり、甲事実と乙事実とが社会的事実として一連の密接な関連がある場合、甲事実について逮捕勾留中の被疑者を、同事実について取り調べるとともに、これに付随して乙事実について取り調べても、違法とは言えない

旨判示したが、本件の佐藤殺害容疑の調は右判例にも違反する 

 即ち本件については、第一次逮捕被疑事実(佐藤の住所異動届出等の私文書偽造等、宇田川町の物件についての私文書偽造等)第二次逮捕被事実(佐藤の宅の仮登記についての私文書偽造等、佐藤の自宅代金名下の山根からの詐欺)及び第三次逮捕被事実(佐藤の銀行預金引出しについての私文書偽造等)各事実と佐藤殺害事実とは、狭山事件におけるうに別件である恐喝未遂事件の発展ないし成り行きとして本件たる強盗姦殺人事件が後発すると通常考えられるような関係にあるものではなく、佐藤を殺害した者でなくても佐藤の身近にいたであれば誰でも遂行可能な、別個独立の、個々の各事実毎に完結する犯罪であるばかりか、とりわけ第一次逮捕事実については佐藤殺害から約三年後に生起したものであるから、これらの各事実と佐藤殺害の事実とが「社会的事実として一連の密接な関連がある」とは到底いえない。 

 また、原判決は、

「被告人が果たして佐藤から授権されていたかどうかが別件の捜査の上で重要なポイントとなっていたことが認められるから、授権行為があったとすればその時期や場所等を具体的、客観的にあきらかにするため、捜査官がまずもって佐藤の所在を確認することに焦点を置くのは当然であって、捜査官が被告人に佐藤の所在について質すことは、(略)まさしく逮捕、勾留の基礎となっている別件の犯罪事実にする捜査環であるというべきである」

判示したが、 

上告趣意書にも述ベた通り第一次逮捕勾留(昭和6016日)から第四次逮捕勾留(同年21日)に至るまで捜査官は「佐藤の所在を質す」程度の取調をしたのではなく(そのようなことは記録のどこを探しても出てこない。佐々木検事も白石刑事も、佐藤殺害容の取調であることを当然のこととして一審において証言している)、まさしく本件である佐藤の殺害方法・死体遺棄方法といった佐藤殺書に関する取調を縦続していたのであるし、原判決の言葉を借りるなら、捜査官は佐藤殺害に関する捜査の一環として」財産犯の捜査を行ったのである。

 これがどうして第一次から第三次逮捕勾留事実についての取調に「付随してなされたものであると言えようか。

 本件における佐藤殺害容の取調は、罪の取調として許容される範囲を越えた違法なものであることは明らかである。 

二、自白の任意性についての補充

 ―――平成元年7日第三小法廷決定(刑集43581違反 

 本件における佐藤殺害容疑の取調は「余罪」の取調として許容されないばかりでなく、任意捜査として行われる取調としての許容範囲も逸脱するものである。

 任意捜査としての取調の許容限度関して、平成元年日第三小法廷決(刑集43581頁)は、 

 「午後11時過ぎに任意同行の上翌日午後25分ころまで続けられた被疑者に対する取調につき、取調が本人の積極的な承諾を得て参考人からの事情聴取として開始されていること、一応の自白のあった後も取調べが続けられたのは重大事犯の枢要部分に関する供述に虚偽が含まれていると判断されたためであること、その本人が帰宅や休息の申し出をした形跡はないことなどの特殊な事情のある本件においては、任意捜査として許容される限度を逸脱したものとまでは言えない

旨判示したが、本件の佐藤殺害容の取調は右判例にも違反する。 

 平成元年決定は、

 「(右に見るような)長時間の被者の取調は、特段の事情のない限り、そのこと自体で違法とされるとの厳しい見解を示した趣旨と理解すべきもの」(最高裁判所判例解説刑事成元年度208頁)であるところ、原判決にはまずかかる基本的認識自体が欠如している 

 本件における捜査段階の取調は、昭和6016日の第一次逮捕以来同年1013日の起訴まで、10日の日を除いて連日の取調がなされ1あたりの平均取調時間は10時間を軽く越えており、取調終了時刻が午前時に及ぶことも7にわたり、午後11時を過ぎることは38回に及び、ほとんどが午後10時を越えて取調が縦続されていた。

 このような調方法自体が違法であると考えられるべきであるのに、原判決にはそのような人権感覚が全く欠如している。 

 平成元年決定は、

 「取調の冒頭、同棲していたので知っていることは何でも申します何とか早く犯人捕まるように私もお願いしますと述べて取調に積極的に応じる態度を示し、この態度が基本的には翌朝まで続いていたという特殊な事情があり、法廷意見は、これを本件取調の特殊な事情として重視したものと考えられる」(前掲判例解説212頁)

ところ、原判決はそれを意識してか、

 「被告人は、夜の商売をしていたから夜は強い。心配しないでください。と言って特にそれ(取調がしばしば深夜にまで及んだこと)を苦にする様子がなく、(略)被告人は、佐藤殺害事実に関する捜査官の取調べの際、捜査官が把握している事実関係の範囲程度に強い関心を寄せ、それを慎重に探りながら冷静かつ意図的に、周到に計算したうえで供述していることが認められるから、そのようにしてされた供述に任意性がないなど到底いえない。」

旨判示して、被告人がその自由な意思決定に基づいて取調べを受忍し供述していたものであるかのように述べる。 

 しかしながら、被告人が加藤刑事対して、

 「夜の商売をしていたから夜は強い。心ないでください」

と言ったことがあるとしても、それが取調の際に毎確認されているのであればともかく、これを被告人の自由意思の証拠であるなどと真面目に受け止めること自体が非常識である。

 また、被告人としては身に覚えのない佐藤殺害の容を押し付けられようとしていたのであるから、そのような立場に置かれた被疑者として、捜査官がどのような事実に基づいてどのような犯行ストを構成しようとしているのかを探ろうとするのは当然のことであって、そのことをとらえて被告人が自由意思に基づいて佐藤殺害容取調べを受忍し自由な供述をしていたと解することは到底できない。 

 仮に被疑者の意思に基づくものであるように見える場合であっても、自由な意思決定を困難にするような状況にあるときは、これを否定すべきであることは、成元年決定に付された坂上裁判官の反対意見 

(同裁判官は、

 「それが被告人の意思に反して強制されたものであったとまでは認め難いとしても、被告人が積極的に取調に応じたものではなく、いったん自己の犯行であることを認めたことから、次には強盗の意思はなかったとの主張を受け入れてもらう必要もあって、やむをえず取調に応ぜざるをえない状態に置かれていたものとみるべきである。」

と述べている)に見る通りである。

 即ち、それ自体違法と目されるような取調を合法なものとする「被者の自由意思」とは、被者がかかる取調を積極的に希望しているなどの場合に限られると言うべきである 

 それでは、被告人が自由に意思決定のできる状況にあったのか。被告人の平成2年6月4日付上申書(原審弁41)から被告人の心理状態を抜き出してみる。被告人は、昭和60年8月20日頃には、 

 「死ぬしかないかな、と考え始めたのも、心身ともに疲労の極に達しいて、思考が散漫になっていたためだったろう。

 このころの私は、取調官の言う通りにどんな内容の調書であっても、どんどんと署名でも何でもしてしまいたいという誘惑に駆られていた。そしてこの密室から解放されたらどんなにいいだろうか、とそればかり考えていた。刑事の圧力にこれ以上抵抗し続けることは無理だと自覚していたのだ。

 しかし、その一方で、私が万が一にも殺人を認めさせられたなら、苦しさに負けて嘘の自白をしたことに恥じて、自殺するしかないな、とも思い込んだのだった。

 警察は私の真実の主張など聞く気はなく、どうやっても当局の描いた犯行シナリオを私に認めさせる気だし、場合によっては薬を使って私の洗脳まで企んでいるらしいこれに対して私には、警察に抵抗するのに有効な手段は何もないのだから、時間が経つほど私が押し込まれてますます苦しくなることは分かっている。

 せめて、嘘の自白をすることの責任をとると同時に、捜査当局に対する抗議の意思表示として、自ら命を断つことしか残された方法は思いつかなかった。」(原審弁41号証321〜322頁 

と言うほどであった。これも冷静かつ意図的に、周到に計算した態度であると言うのであろうか。連日の苛酷な取調の結果、これほどまでに、精神的に追い詰められた、極限状態ある被告人が「冷静に」「捜査当局を誘導」したと述べても、到底自由な意思決定に基づくものとは言えないことは明らかである。 

 昭和6029日の取調に至ると、

 「早朝からの調べで散々に精神的なショックを受け続けてきた私は、すでに疲労も極限に達していたし、正常な判断能力も失われていた。白石主任の言葉は、芯から私のためを思って助言してくれているように思えてくる。

 とにかく明朝の新聞に三人連続猟奇殺人というおどろしい見出しが並ぶのを避けるには、白石の助言に従うことが最善の方法だとしか思えない。白石に促されて、まるで夢遊病者でもあるかのようにフラフラと私はこの調書に署名してしまったのである。」(同439頁) 

と述べている。れも、消極的ではあれ、被告人の意思に基づいて署名したのであるから、任意であると言うのであろうか。

 これを肯定するのであれば、白の任意性など全く無意味な概念となってしまう。任意性がないとされるのは、強制力をもって署名を強要された場合に限られるということになろう。 

 その後、

 「山中の小川で佐藤を石で殴り殺した、という調書に署名するとすぐにこの夜の取調は終わり、私は留置場に帰された。いつものように深夜の12時近くのことである。になって眼を閉じて、錯乱した気持ちを落ち着かせながら今朝からのできごとを思い返している内に、私は白調書に署名してしまったことの重大性に気づいた。

 (略)やってもいない殺人を認めるような白調書に署名して、無実の罪を背負わされることが決定的になったときには、それが取調官のトリックに騙されたものであれ、麻酔をかけられた結果であれ、拷問に屈したものであれ、理由を問わず自殺して抗議の意思表示をすると決ていたのだ。こんな意思の弱い人間であったら生きている価値がない、せめて誰にも迷惑をかけぬように分で始末をつけねばならない。

 の面会時に弁護士に対して不本意な調書に署名した事情を説明して真実を訴え、家族への最後のメッセージを託してから決行することを決心した。昨夜も眠れなかったのだから、心身ともに疲れ切っているはずなのに、死ぬと決めたとたんに過去のいろいろな思い出が去来して、とても眠るどころではない。この夜も一晩中泣き続けていた。」(同440〜442頁) 

 翌々である31日

 「運よくこのには松原弁士が離婚届の用紙を持って面会にきてくれた。(略)私は離婚書類に署名しながら、これでこの事件についての私の弁解も妻や子供に伝えられぬままに縁が切れちゃうのかと思うと無に悲しかった。

 また明から新学期が始まるというこのに夜逃げするように姿を隠さざるを得なかった二人の息子のことを考えれば、あまりにも哀れで胸が張り裂けそうになる。それでもこれから獄死しようとしている自分にとっては、家族に及ぶ迷惑を少しでも軽くできたろうかと少しはほっとするのだ。

 弁護士との面会を終えて取調室に戻った私は、すっかりしょげてしまってメソメソ泣いてばかりいるので、とても取り調べにならなくなってしまった。」(同452〜453頁 

 日の第三次勾留のための検察送致の際、

 「公園の豊かなの樹木の上に大きく広がった澄んだ青空が眼に映った。 遠景になった高層ビルの空高くに、いくつもの真白な雲の塊が風に流されていくのも印象的だった。(略)こういった窓の外の景色が輝いているのに圧倒されてしまって、検事の言葉も上の空で、私は眼を外の景色に釘付にしたままで涙を溢れさせていた。

 (略)ましてやこのの私は、すでに自殺することを決意していたから、見聞きするものすべて、これが最後だという気になっていて、感受性も鋭敏になっている。検事の問いに対して適当な生返事をしながら、は窓の外に向けたきり、いつまでも涙を滴らせていた。」(同456〜457頁 

 「検察庁から戻ってくると、私の覚悟はいっそう確固としたものになっていて、かえって清々しい気分になっていた。もはや佐藤殺害の容疑に関しても、捜査当局を誘導したり、調官と対決してみたりする必要などない。自殺を覚悟した以上は、小細工を弄した作り話をして言い逃れたり、無理して真相解明のた捜査官を説得する努力も無駄なのだ。」(同458頁 

 被告人は、16日一次逮捕されて以来、一か月もの間、連日の長時間にわたる佐藤殺害の取調を受けてきて、しかもに反して佐藤殺害を自白する調書まで作成された結果、自殺を覚悟して「清々しい気分になっていた」というのであって、明らかに異常な心理状態に追い込まれていた。

 果たしてこのような状況において、自由な意思決定に基づく供述ができると言えるのであろうか。答えは自ずと明らかである。 

 

第二 佐藤殺害関係についての重大な事実誤認の補充 

一、昭和5513日に大宰府山中で発見された変死体と佐藤との同一性 

 弁護人は、その上告趣意書において佐藤と右変死体の同一性を前提としても数多くの重大な事実誤認があることを指摘したが、ここでは佐藤と変死体の同一性について補充をする。 

 一審判決及び原判決の同一性判断の主たる根拠は、法歯学鑑定にある。

 すなわち、「伊波医師から提出された昭和52年6月頃に撮影されたと認められる左右が逆に表示されている佐藤の歯牙及び歯槽骨のパノラマエックス線写真」(一審甲297)が佐藤のものであることを前提にして、このエックス線写真と変死体のそれとが同一であることを主たる根拠としている。

 しかし、 一審甲297号証は、それほど証拠価値の高いものなのだろうか。むしろその証拠価値は次に述べるように疑問とすべき点が多々存するのである。 

 第一に、現在、証拠物として保管されている 一審甲297号証(原審昭和63年押229号の20)と伊波医師の提出したエックス線写真とは異なっている可能性がある。

 即ち、伊波医師の提出したエックス線写真は、フィルムの裏側とされる側(写真上の「さとうまつ」の文字が正しく読める側)に赤のマジックで「右」「左」と記入されたはずであるのに(一審伊波証言調書)、現在の証拠物には、その痕跡はまるでなく、エックス線写真の表側とされる側に黒のマジックインクで「L」「R」と記入されているに過ぎない。エックス線写真がいつの間にかすり替えられている疑いがある。 

 第二に、伊波医師提出のエックス線写真は一枚ではなく、複数枚存在する可能性がある。

 即ち、伊波医師はエックス線写真を昭和60年7月20日に警察に任意提出する(一審甲295)が、その後加藤栄三刑事はエックス線写真を持って同年8月25日に福岡へ裏付捜査に出張し、東京に戻ってきたのは同午後7時であった。そして、8月27日には、福岡市において右写真を示して河原雄の供述調書(一審甲126)を作成している。

 ところが、同日には東京渋谷の伊波医師のもとにも警察官が派遣され、エックス線写真の「右」「左」の表示が逆であることを確認し、供述調書が作成されたというのである。

 その時間帯は、日中の診察時間中であり、午前中に来て昼位までであった(末尾添付資料9)。

 つまり、8月27日の時点でエックス線写真は一枚ではなく、他にもコピーの偽者が存在していたのである。 

 第三に、エックス線写真の押収経過が不自然である。

 即ち、エックス線写真は、昭和60年7月20日の任意提出の前にも、一度伊波医師から昭和60年1月25,6日頃にカルテ等とともに任意提出がなされているのであり(一審高橋弘昭和61年2月18日付速記7丁裏)(但し、このときに正式な任意提出・領置手続がとられたかどうかは不明)、その後3月頃に一旦返還されているのである(同10丁表)。

 歯のエックス線写真といえば、佐藤の同一性判断の決め手となる重要証拠となるはずのものであり、その取り扱いには慎重の上にも慎重をきたさなければならないものであるのに、その押収経過は極めて不自然であるといわねばならない。

 以上、要するに、一審判決も原判決も、佐藤と変死体の同一性の判断根拠としたエックス線写真は、昭和60年1月から3月の間の警察保管中に変造がくわえられ、コピーが作成された疑いがあるのである。

 変死体と佐藤との同一性という最も重要な争点について、このような証拠価値の低い証拠によって判断がなされるのは極めて危険であり、他の見地から再度慎重に変死体と佐藤との同一性判断が行われる必要がある。 

二、佐藤の死体遺棄場所は「秘密」の暴露かについての補充

 ―――被告人が描いた現場図面は佐藤の死体遺棄場所と同一か 

  1.佐藤の死体遺棄場所について秘密の暴露があったと言えるためには、被告人の供述内容が現実に確認されていなければならないことは言うまでもない。

 原判決は、 

 「(被告人の昭和60日付現場面)に描かれている場所と佐藤の死体が遺棄されていた場所とが、一して同一場所であることが明らかなほど良く似ているうえ、この図面に描かれている石ころ河原で当時長谷がブルドーザを入れ採石事業をしていた事実も確認された」(原判決36丁裏) 

と判示し、同図面こそが秘密の暴露たる所以であるかのごとき判断をしているのであって、被告人の昭和60日付現場図面(資料)が佐藤の死体遺棄場所と同一であることが大前提となる。

 そこで、原判決が何をもって「一見して同一場所であることが明らかなほど良く似ている」と判断したかを見ると、原判決は右面の特徴として 

「①面の下方に太宰府に至る舗装された広い道が描かれ、

 ②そこから上方(太宰府方面からて左方)に分岐する砂利道があり、

 ③砂利道の左右は杉で、

 ④右分岐点から100メートル登った地点の

 ⑤左方に自動車が駐車できる確度の平坦な空地があり、

 ⑥右空き地の反対側は石ころ河原になっていてそこにブルドーザが置いてある状況が描かれ、

 ⑦河原の向こうは杉で、

 ⑧杉と石ころ河原のに幅メートル位の小川が流れている様子が描かれている。更に、

 ⑨右小川付近で休憩した旨の説明書きや、

 ⑩砂利道をさらに登ると道の右側に関係者以外立入禁止と書かれた立て札が立っている様子も記載されている。」(原判決36丁表) 

旨判示しているので、右10点が実際の佐藤の死体遺棄場所と符合していると判断した根拠である。 

  .ところで、弁人は、佐藤死体遺棄場所(以下「本件現場」という)について昭和5423日に撮影された航空写真(資料1と、昭和561218日に撮影された航空写真(資料を入手した。

 不幸にして昭和55年には航空写真は撮影されていない。 

 資料によると、昭和54月当時の本件現場(赤◎印)の特徴としては、道路をはさんだ空地と本件現場の二本の取付道路小川の向こうに広がる採石場ということができる。

 そして、昭和5612月になると、本件現場の二本の取付道路はなくなり、それに合わせて採石場が小川の向こうに広がるばかりでなく、小川の手前にも広がるようになっている(資料)。 

  一審甲113号証添付現場見取り図第(資料)及び甲117(長谷積供述調書)添付面(資料)と対比すると、本件変死体が発見された昭和55月当時の本件現場の状況は、資料に近い状態にあったと推測される。

 本件現場で庭石採石事業をしていた長積の供述調書(一審甲117)を見ると、 

 「この現場は、県道から三郡山に登る道の右側に10数メートル入ったところで、そこに中島川と呼ばれている川幅が約メートル位の沢に近い小川が流れていたのです。この川まで行くのには、道路右側の杉林を通らなければなりませんが、この杉の所有者は(当時)久留米市の肥川胃外科病院で、私はこの肥川先生に採石した運搬用道路として一部利用せてもらい、中島川にヒユーム管を埋めてその上に土をかけて橋のようにして採石場に通ずる道路を造って採石を始めました。」 

と供述されている。要するに、本件現場は、航空写真によるも、係者の供述・面によるも、柚須林道と小川の向こうの採石にあるの中の取付道路>の脇なのであって、河原とはおよそ異なる場所なのである。 

 ところが、被告人の描いた昭和60日付現場図面(一審弁号証・資料)も、同月24日付現場(一審乙41号証・資料)も、いずれも本件現場は、林道と小川のに石ころ河原が広がる状況が描かれており、本件現場の最も特徴的であるの二本の取付道路小川の向こうの庭石採石場も描かれていない。

 また、被告人の昭和6024日付供述書(一審乙43)には、 

 「道路左側に巾5m位の砂利道を見つけ、『この辺に入ってみよう』と云って左折する。両側は、杉木立のゆるやかな上りであった。100m位進んだ所で杉木立が切れ、右側は石の河原に続く小川で、左側は車台位駐車できる位の平坦な造成地であった。車を左側に止めて二人で河原から小川のほとりに行く。

 ・・・佐藤さんを引きずってきた川辺は、私が靴を脱いで水に入っていた石ころだらけの河原から1m位の段差のある小さな崖状の下の位置で、私は佐藤さんを抱き上げて上に乗せようとしたが、70kg以上の体重のある佐藤さんを持ち上げることがどうしてもできず、やむを得ず、川辺から2,3m離れた平らな草地に横たえた」 

と説明されているのであって、これによれば本件現場は杉木立の切れ間から直接石ころだらけの河原が広がり、m位の段差のある小さな崖があって小川に連なり、小川のには平らな草地があるという情況である。

 被告人は、道からトル下がって石ころ河原が広がっていて(一審第23回公判・記録2091)、小石がごろごろした河原でパワーシャベルが砂利を取っていた(一審第31回公判・記録3168丁表~3170丁裏)とも説明している。即ち、そこは河原なのである。 

 そうすると、航空写真で見る本件現場と被告人の説明する本件現場面とは全く異なっており、原判決の言ううに

「一見して同一場所であることが明らかなほど良く似ている」

などとはおよそ言えないのである 

 逆に、原判決が本件現場の同一性判断基準として現場図面から抽した前記10点の特徴のうち、本件現場に該当するのは、

 太宰府に至る舗装された広い道があり、

 そこから上方(太宰府方面から来る左方)に分岐する道(但し、砂利道ではない)があり、

 その左右は杉で(但し、現場付近で左側の杉は途切れがちである)、

 右分岐点から登った(但し、100メートルではなく400メートル程)地点の左方に動車が駐車できる程度の平坦な空地があり、

 右空き地の反対側には幅メートル位の小川が流れていて(但し、その付近で休憩をしたくなるような場所ではない)、

 そのには(但し、石ころ河原ではなく、庭石採石場)ブルドーザが置いてあり、

 そこからさらに登ると道の右側に関係者以外立入禁止と書かれた立て札が立っている

というものに過ぎない。この程度の特の場所であれば本件現場付近に何箇所もあり、「秘密」の暴露などというほどの価値は何もない。

 また、ブルドーザにしても、本件現場図面には林道と小川のに存する石ころ河原に置かれているように記載されているのに、実際には小川の向こうの庭石採石場に置かれていた。

 ブルドーザーが存するということは、近くに「人」がいるということであって、そのような場所に死体を遺棄するならば容易に発見されるおそれが高く、それだけに犯人とすればブルドーザーの位置関係は正確に記憶しているはずであるのに、その位置がずれているということは、むしろ同一性を希釈する方向に働くと言うべきである。

 そもそも素朴に考えて、資料や、資料3・4に見られるような杉林の中の二本の取付道路によって導かれる小川の向こうの庭石採石場に行った者が前記現場面のような図面を描くであろうか。全く異なる情景であり、答えは否と言わざるを得ない。 

 3.ところで、太宰府周辺に、太宰府に至る道から山に入り、左右に杉林があり、自動車の駐車できる程度の空地が左方にあり、かつ右方に小川が流れているような場所が存しないかどうかを航空写真で探してみた。そうすると、本当に多数類の場所が存することが分かる。

 それと同時に、地を見ずに、本件現場に一度しか行ったことのない者が地図の上でその場所を特定することも不可能に近いということもお分かりいただけるのではないだろうか。 

 本件現場に一番近い類場所では、本件現場の約200メートル南方(資料の下の赤○印)や南西約750メートルに類の場所がある。前者は、県道からの距離も近く、そこに至る道は砂利であり、道と小川とのに空地が広がっていることに照らすと本件現場よりもよほど本件現場面に類していると言うことができよう。

 右に述べた条件の場所を航空写真から判明できる限りのものを5000分のの地に赤○印でプロットしたのが資料である。

 その他にも、航空写真の上では見落とされている場所もあろうし、航空写真の範囲からはずれたところにも類場所は多数存すると考えられる。 

 資料8中、四角の枠取は航空写真の写っている範囲であり、「C19B-23等の記号が航空写真の番号である。航空写真の番号を右記号の位置に合わせると、地図と当該写真が照合できる。

 資料5は「C17B-4」、資料6は「C17B-12」、資料7は「C20-45」の各航空写真のコピーであり、赤○印の付してあるのが類似場所である。資料5の場所などは本件現場とは異なるイメージの場所であるが、被告人の供述書や現場図面の河原のイメージにはよほど類似していると言えよう。

 右に述べたように、二本の取付道路>小川の向こうの庭石採石という特徴を抜きにすると、本件現場と類以する場所は、航空写真の上でも多数に存するのであって、本件現場と本件現場面が原判決の言うように

 「一見して同一場所であることが明らかなほど良くている」

などとおよそ言えないことは一層明らかである。

 

第三 佐藤の財産処分関係の重大な事実誤認の補充 

 原判決は、共同事業契約に基づく財産処分である旨の弁護人の主張に対して、 

 「関係者の供述によれば、株式会社宗建に対する貸付は株式会社佐藤企画が行ったものであり、天神町の一戸建家屋の購入は被告人の不動産事業の一環として佐藤と無係になされ、北陸行の定期預金は佐藤個人のものであることが明らかであ(り)」、

 に、所論のいうように、被告人と佐藤との間に共同して事業を行うという契約があったとしても、それは、前記のような両者の関係からみて、佐藤は資金を提供する事実上のオーナであり、被告人が佐藤のために会社の経営面を担当するという複合的な委任契約と解され、かかる契約は佐藤の死亡により法律上当然に終了するものであ(る)」(原判決70丁)

 旨判示した。しかしながら、被告人と佐藤とのの共同事業は、法的には「複合的な委任契約」ではなく、民法上の組合契約と解されるべきである。

 民法上の組合と解すれば、民法上の組合には法人格はないから、その業務執行を被告人個人の名義で行ったり、株式会社佐藤企画名義で行うことは何ら共同事業性に反するものではなく、また佐藤が死亡したとしても組合は当然には終了しない(組合員が一人になった場合を解散事由であると解しても、清算組合として存続する)。

 原判決は、被告人と佐藤とのの共同事業の法的評価を誤り、その結果、審理不尽ないしは事実誤認にったものである。

                              以 上

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