上告趣意補充書(3)

 

平成三年(あ)第七〇四号

       上告趣意補充書(三) 

                 被 告 人  折    山    敏   夫 

  右の者に対する有印私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載、同行使、詐欺、殺人被告事件についての上告趣意の補充は左記の通りである。 

    平成七年二月二八日

                 主任弁護人  湯    川    二   朗

最高裁判所第二小法廷 御中 

 

一 憲法違反の補充 

一、白の任意についての補充(二)

1、弁護人は、上告趣意補充書(一)第一の二「自白の任意についての補充」において、平成元年日第三小法廷決定を引用しつ、被告人の査段階の自白には任意性はない旨主張した。 これは、判決が、

 「被告人は、『夜の商売をしていたから夜は強い。心配しないでください。』と言って特にそれ(取調がしばしば深夜にまで及んだこと)を苦にする様子がなく、(略)被告人は、佐藤殺害事実に関する査官の取調の際、査官が把握している事実関係の範囲、程度に強い関心を寄せ、それを慎重に探りながら冷かつ意図的に、周到に計算したうえで供述していることが認められるから、そのようにしてされた供述に任意性がないなど到底いえない。」

旨判示して、被告人がその自由な意思決定に基づいて取調を受忍し供述していたものであるかのように述べたので、被告人は連日の過酷な取調の結果、到底自由な意思決定がなし得るような状況にはなかったことを強調したものである。 

 また、原判決は、別の箇所で次のように判示しており、これは右判示をさらに詳細に敷衍したものと思われる。 

 「(前略)被告人は、捜査官にあれこれ質問して九州太宰府で佐藤の死体が発見された事実がないかどうかを聞き出し、捜査官から、太宰府山中から出た死体は照合の結果佐藤でないことが確認されていたという回答を得、そこで初めて佐藤と太宰府の山中に行ったことがありその日が昭和55年7月25日であると具体的な日時や場所を言い出したことが認められるのであって、被告人が九州旅行のこととか、太宰府の山林のことなどを供述するに際し、慎重に機を窺い被告人なりに供述結果の安全性を確かめたうえで言い出した経緯が窺知できることからすれば、被告人は、捜査官が太宰府山中の変死体が佐藤でないと誤信しているのを奇貨とし、敢えて太宰府の山中のことを持ち出し、捜査官が考えている佐藤死亡の時期より遅い時期まで佐藤が生存していたことを主張して当面のアリバイを証明すると共に、佐藤が自己の行為と関係なしに死亡したことを印象づけ、もって佐藤殺害事実を闇に埋もれさせようとしたものと考えられる。」(39丁表裏) 

 いったい原判決が何時の時点での供述の任意牲を問題にしているのか、これらの判示からは明確ではない。

 右に掲記した二つの判示部分からも分かるとおり、原判決が問題にしているのは、否認期(7月16日逮捕~8月23日まで。上告趣意書239~240頁参照)の被告人の供述姿勢である。

 しかし、原判決は、被告人が自白したのは、否認期よりも一過間も後の9月1日と12日の佐々木検事に対するものであるというのであるから、任意性を肯定した前記判示は全く理由付とならない(それ以上に、右判示は被告人=犯人の予断を前提にしていることが最大の問題である。 

 捜査官がいかに太宰府山中の変死体を佐藤でないと誤信していたとしても、犯人自身にはそのような誤信はあり得ないのであるから、被告人が犯人であれば太宰府山中の変死体を持ち出すはずもない。かかる自明の論理にも気づかず、鬼の首をとったかのように「当面のアリパイ工作」などと判示するのは、原審の予断のなせるわざであるとしか言いようがない)。 

2.それに加えて、原判決の前記判示から窺われる判断枠組みは、「被告人の主体的な供述=任意性あり、捜査官め供述の押しつけ=任意牲なし」というものであるが、はたしてこの判断枠組みは正しいのであろうか。そもそもこの判断枠組みの当否自体が問題である。 

 浜田寿美男花園大学教授(心理学)は、

 「自白とは、取調官と被疑者との相互主体的な人間関係の産物であって、被疑者の主体がまったく関与しない自白はたとえ虚偽自白であってもありえない」 

として、次のように指摘する。 

 「ところが、ごく素朴には自白について次のように考えられている。つまり、『真犯人が自白するばあいは、自らの内の体験をありのままに供述すれば、それが真の自白となる。他方、無実の人は否認から、やむなく自白に転じても、犯行筋書を自ら語り出すすべはなく、その自白内容は取調官が考えて押しつける以外にない。したがって虚偽自白の内容は、もっぱら取調官の一方的なデッチ上げの要因によって決まる』。

 真の自白ならその自白内容は疑者側の記憶のみで決まり、嘘の自白なら自白内容は取調官の側の強制のみで決まるというこの考えは、明解ではあるが自白の実態に即していない。実のところこの誤解のゆえに、無実の人の嘘の自白を見誤る例が実に多い。 

 一般に人は、取調官からの直接的な強制や誘導なしに被疑者・被告人が自分の方から語った自白内容であれば、それはかならず真であると考えやすい。ところがこれがとんでもない間違いなのである。すでに虚偽自白であることが明らかにされた事例を見ても、そこには取調官の発意によらない、被疑者の独創がしばしば見られる。 

 無実の人間が圧力に負けて『私がやりました』と言ってしまったあと、彼はさらに犯行筋書きにまで想像を及ぼして自白を展開させる。一見奇妙に見えるが、この虚偽自白の現実こそが、虚偽自白を理解するための最大のポイントである。(「自白の研究」(三一書房)79頁・傍点弁護人) 

  「冤罪に巻き込まれた人は、たしかに、間違って被疑者に仕立て上げられた被害者である。しかし、だからといって彼らも一人の主体である以上、いかなる場合にも完全に受動的・被動的な存在になってしまうことはない。 

 そのかぎりで、自白がただ単に押しつけられ、呑み込まされたものであるなどということは、原理的にありえないと言わねばならない。周囲の状況からどれほど強圧的に迫られたとしても、そこにはやはり、被疑者の側からのある種の主体的な参与の側面を見なければ、虚偽自白の真相は見えてこないのである。 

(中略)拷問・強制・脅迫・欺罔・誤導・長期勾留…、いかなる強圧状況があったにせよ、そういう状的要因だけで虚偽自白を説明することはできない。そこには、状況的要因に加えて、必ず被疑者の主体としての選択がなければならない。これは、虚偽自白を相互作用過程の所産と考える大前提からの当然の帰結であり、価値判断を離れた事実である。 

 このように言うと、『死刑にも相当するような重大事件で虚偽自白する』などということが、どうして主体的選択でありうるのかという反論が返ってこよう。しかし、私はここで『主体的』『主体として』という言葉を、『任意に』という意味でつかっているのではないことに注意してほしい。法の上で『任意』とは認めがたい状況におかれても、なお主体的選択の余地が零になることはありえない。その意味での『主体的』選択なのである。」(同書106頁) 

  「ところが、虚偽自白がこのように被疑者の、ある種主体的な想像によるものだということが一般的にはあまり認識されていない。冤罪事件を糾弾する立場にある人たちは、弁護士も含めて、とかく虚偽自白を警察・検察のデッチ上げと見なし、そこに被疑者の悲しい主体的選択を見ない。それに虚偽自白を搾りとる当の警察官・検察官、そしてその真偽を判定する裁判官の多くもまた、虚偽自白のなかで大きな役割を果す被疑者のこの主体的な想像力の意味に気づいていない。」(同書530頁) 

  「無実の被疑者が追いつめられてやむなくついた嘘に、今度は警察が翻弄される。この奇妙な情景が、数々の冤罪事件で幾度となく繰り返された。そこから、被疑者の自白が単に取調官のデッチ上げたストーリーを鵜呑みにした結果ではなく、被疑者なりの主体的な想像の所産でもあるという先の私たちの主張がふたたぴ確認される。」(同書518頁) 

  これはそのまま本件にもあてはまるのではないだろうか(原審被告人質問で神作裁判官は、8月24日付現場図面の作成に関して、 

 「たとえば下草があったか、なかったかというのは、あなたがなかったと思えば書かなければいいわけでしょう。その辺がよく分からないので、聞いているんですけれども」(原審第14回公判被告人質問速記録47丁表)

旨質問しているが、

 「自白とは取調官と被疑者との相互主体的産物である」との認識が欠落しているが故に理解できないのである)。 

 被告人の供述の変転に見られる被告人の「主体性」の分かりにくさを解くカギがここにある。被告人が捜査段階において「主体的な」供述ないし捜査への主体的な関与をしていたとしても、それが故に自白の任意性が肯定されるということはあってはならない。 

 被告人は、自らの体験・記憶(佐藤と太宰府へ行き、福岡で別れた。その後太宰府近辺で変死体が発見されたという記事を見たことがあった)と、取調官の事件仮説・情報(被告人が事件当時佐藤と一緒に太宰府へ行ったということはありえず、被告人は東京方面で佐藤を殺害したとの想定。太宰府山中の変死体は佐藤ではない)の中から、捜査の目を福岡・太宰府に向けるためにやむにやまれぬ想像的な供述を行ったのである。

 これは虚疑自白の過程において通常見受けられる被疑者の「主体的な選択」にすぎないのである。問題は、その「主体的な選択」が「任意に」なされたものであるのか、そうでないのかである。 

3.弁護人は、上告趣意補充書(一)において、被告人は連日の長時間にわたる取調べの中で、孤立し、心身とも疲労の極に達し、弁明の無力感を感じ、ついには自殺をも決意せざるを得ないような状況に追い込まれていたことを指摘した。 

 既に繰り返し述べてきたように、被告人の平成2年6月4日付上申書にあるとおり、被告人は、連日早朝から深夜に至る長時間にわたり、名の取調官により入れ替わり立ち替わり、あるいは罵倒制圧され、あるいは人格的屈辱を受け、あるいは理詰めで説得され、あるいは情にほだされ、あるいはいつまでも否認していれば友人や家族を逮捕し、弁護人の資格すら剥奪すると脅迫され、その間家族とも面会を許されず、弁護人に対する不信まで抱かされ、全く孤立無援の状態におかれ、なおかつ食事も休憩も睡眠すらまともに与えられず、被疑事実を小出しにしていつ終わるともしれない長期間の別件逮捕勾留の恐怖の中に置かれた。

 被告人が佐藤をどこでどのように殺害したのかを「自白」するまで永久にこのような孤立無援の闘いが続くと感じられた。このような状況下での「自白」ないし不利益供述にどうして任意性があり得ようか。前記「自白の研究」では、虚偽自白への転回過程が次のように整理されている。 

第四部 自白への転回過程「私がやりました」と言うまで

 第七章 逮捕されて勾留されて、調べられることの意味

  第一節 情報的環境の激変遮断と統制

   1 生活の流れの遮断

   「逮捕・勾留によって、それまでの生活の流れから遮断され、非日常的な取詞べの場で、見ず知らずの取調官と対面させられて、尋問を受け対応を求められる、しかもそれがいつまで続くか、被者本人には見通しがもてない。そういう事態が、被者にとってどういうものであるか。自白の心理を考えていくうえで私たちはまずこの点を最初におさえておかねばならない。」(「自白の研究」344頁)

   2 情報遮断と単質情報の反復による非現実

   「人間は、周囲から種々変化に富んだ刺激・情報を受け取ることで、自らの精神を安定させている。それゆえ感覚遮断状況におかれた人間は、刺激情報の好悪にかかわらず、なんでもいいからとにかく刺激を求めようとする。

(略)このように感覚情報を遮断して『刺激への飢え』の状態を作り出せば、ふだんは被験者が好んでしようとはしないことにも集中させることが可になる。」(同書346頁)

「Yが追い込まれたこの心理状況はどういうものであったか。20日あるいはそれ以上も前の夜の数十分に起こった出来事、その間に自分がやったことを毎日、朝から晩まで、人の取調官に囲まれて尋問され、自分もこの尋問に乗って必死に考える。これが自分の無実の証明につながることになると思っているYは、房に帰っても、房で床についても、あるいは目覚めても、考えつづける。

 多種多様な刺激・情報に囲まれ、多種多様な人々と、多種多様なことを行う通常の日常生活と比べてみたとき、これがいかに特異に単質的な体験であるかは、ちょっと想像力を働かせば容易に分かることであろう。他の刺激情報を極力排したなかで、特定の事柄にのみ過剰な刺激情報が集中する。それはある種迫的な事態である。

 このようにして単質的にして過剰な刺激情報状況を強迫的に持続、反復するとき、それが日常の生活世界から遊離した、いわば浮いた体験となる。」(同書353頁)

   3 孤立

  「自分にとって重要な人物から信頼を得ているとの確信こそは、自白に落ちないためのまさに命綱である。ところが被者に向けて発せられる情のほとんどを操作することが可調官の手にかかれば、そうした命綱を断ち切ることは実に簡単なことである。人にとって孤立ほど恐ろしいものはない。

 もともと社会的存在としてある人間は、自身の意見も判断も、そして体験も記憶も、他者からの支えなしにははかない。しかし取調べの場におかれた無実の被者にとって、自分の真実を守る上で最大の関となるのが、この立ではなかろうか。」(同書363頁)

   第二節 人間的環境からの隔絶

   1 生活支配と侮蔑

   「逮捕される以前、人は少なくとも生理的な欲求の満たし方や自分の居場所、行き場所、立つ、座る、寝るなどの姿勢を自分の意のままに選べる。人が他者からそこまで支配されることは通常ありえない。しかし逮捕され代用監獄に勾留されると、そのとんどありえないことが起こる。日常的な世界からのその落差は体験したことのない者にとっては想像を絶すると言ってもよい。

(略)このような生活全般にわたる支配と侮蔑のなかで、被者はどような心理状況に追い込まれることになるか。それが取調官への屈従であり、やがてそれが迎合につながっていくことは見やすい。」(同書370~371頁) 

   2 身体的条件食う、寝る 

 第八 否認力動を低減させる要因

  第一節 取調べの場およぴ取調官への反発の緩和

   1 披者の反発を和らげる人間関係

   「本来、被者の真実をそのままに表出させるべき人間関係が、逆に岐路に立った無実の被者を虚偽の自白の方向に突き落としてしまう要因ともなる。(略)たしかに虚偽自白はつねに、取調官の強引な調べに押し切られるかたちで生まれるものではある。しかし、一方でその背後に被疑者・取調官の奇妙な人間関係があることを認識しておかなければならない。(略)取調べの場におかれた被者にとっては、(取調の時間は)ほとんど無限にさえ思われる。その中で築かれる人間関係がいかにして被疑者の否認力動を殺ぎ、被疑者をして自白方向に押し出していくものかは、以上の論述から明らかであろう。(同書396頁)

   2 被者に屈従を強いる方法

   「一方で被疑者に対して厳しい拷問が行われ、侮蔑的言葉が投げかけられながら、他方では人間的(と彼らが思う)関係が押しけられていく。この両面は、おそらく見かけほど矛盾したものではない。 むしろ犯人と思いこんだ相手を、脅かしたり、なだめたりして自白、謝罪へと追い込んでいくというのは、人が人を責めるときの普遍的スタイルではないか。そして被疑者は、すでにその関係の土俵から逃れられないところに引きずり上げられているのである。ここまで追い込められたたとき、被者はもはや否認への力動をほとんど押しぶされていると言わざるをえない。

 さて無実の被者は、当初、調べのに対して、また取調官に対して何がしかの拒否感情を抱く。調官はその拒否感情を和らげるく働きかけ人間関係をつけて被自分の土俵に乗せるか、あるいは逆に被者の反発を強硬に押しぶして自分の土俵に引きずり上げる。いずれにせよ、そのようにしてある種の人間関係を強要して、同土俵に乗せることで、取調べは自白への道を一歩踏み出す。」(同書408頁) 

  第二節 やっていない犯行を認めることの非現実感

   1 予想されるべき刑罰の非現実感

   「実際の犯人ならば、まさに自分の行った犯行から予想されるもの(刑罰)であるがゆえに、その『死刑』には実体的な感覚が伴う。これだけのことをしたんだから自分の犯行だとばれれば死刑だろうと実際的に予想せるをえない。しかし無実の人間ならばどうであろうか。無実の人にとっては逮捕・勾留されて取調べられているということ自体が、非現実的なこととしか受けとめられない。

(略)無実の被疑者の視点に身を寄せて考えてみれば、『予想される刑罰』はただ単に論理的・観念的なレベルのことであって、実際的に身にってこないことがわかるはずである。」(413頁)

   2 予想されるべき社会的制裁の非現実惑

   「さて、無実の人が逮捕されて自白を迫られるとき、その自白の結果もたらされる法的刑罰や社会的制裁を、もちろん予想しなくはなかろう。しかし、以上みてきたように、無実の者のその予想は真犯人の場合にくらべると圧倒的に切迫感が乏しい。

 取調べの圧力が強くってくるとき、人によってはもはやそうした結果を予想してそれを考慮するだけのゆとりすら失っている。そのように追い込まれた立場に身をおいた経験をもたない私たちは、とかく私たちの日常判断から類推して、『死刑になるかもしれない』事件、『世間から人殺しと言われて見捨てられ、家族をもそこに巻き込んでしまうかもしれない』事件で、どうして無実の人が自白するなどということがありえようかと思ってしまう。

 しかし、こうした予想が、まさに無実の人間ゆえに現実感をもって受けとめられないものだということを、私たちは重々承知しておかねばならない。ここでもまた、無実の被者の否認力動は力を失ってしまう。そればかりか、逮捕され、取調べられているという現実のなかで、否認しつづけることがいかに身内の者たちを傷つけるかというかたちで追及されると、逆に否認維持のもたらすマイナスの結果予測方がはるかに現実味をもって迫り、自白力動を高めることになるのである。」(430 頁) 

  第三節 自己の真実を守りたいという衝動の希薄

   1 弁明の無力

   「被者にアリバイ証明を求め、被者がアリバイを主張できなければ犯人だと責め立て、被者が懸命に思い出してアリバイを主張すればそれを崩して責める。そういうふうに取調べられたのでは、被者はいずれ弁明の余地を失ってしまう。敢然と『私はやっていないのだから』と開きなおって黙秘し、取調官とのコミュニケーションを断たないかぎり、無力感のなかで自白に陥るのは時間の問題である。そして取調官にはその時間が十分すぎるほどに保証されているし、その時間の重さに耐えられる被者は少ない。」(同書438頁)

   2 弁明しきれない空白の存在

   「人間の記憶はまことにはかないものである。ビデオ装置のように体験した出来事のすべてを空白なく保存するものではおよそない。ところが取調官は、往々、被者にビデオ装置たることを要求し、曖昧さを許さない。そのために記憶の空白に取調官の追及に沿った虚構がかれていくことになる。

(略)冤罪の虚構は、映画のスクリーンのように何もないところに真新しい映像が浮かび上がらせられるようなものではなく、被者のなかに残っている記と記憶の間に浸み込むようにして組み込まれていくものである。者のなかの真実の記憶の断片が、思いもよらない虚構の文脈のなかに組み替えられていくのだと言ってもよい。その点についてはプラハ事件のように政治的なッチ上げ事件においてすら、部分部分は真実なのに、その部分でもって構成された全体がまったくの虚偽でしかないという構図をなすということを想起すればよい」(同書440頁) 

   3 客観的責任意識の追及 

 第九 自白力動を高める要因

 「代用監獄に囚われて、その全生活を支配されたなかで取調べられるとき、無実の人でもその否認力動を堅持することはしい。最後の砦たるべき『自分はやっていない』という内なる真実の衝動も、それをまともに受けとめてくれる相手のないとき、真空に向かって矢を射るごとくに空しい。いや真空ならまだしも、取調官の有罪推定が厚い思い込みの壁となってってくるとき、真実の記憶は抵抗のすべもなく捩りふせられ、記憶の空白には虚構が浸み込まされていく。こうして否認力動はかぎりなく無力化され、もうどうしようもないという諦めの境地に達したときが『魔の時間』つまり自白への転回の一瞬である。」(同書453頁)

  第一節 取調べの苦しさの回避

   1 取調べ自体の苦しさから逃れるために

   2 留置場(代用監獄)生活の苦しさから逃れるために

  第二節 否認から予される不利の回避、自白から予期される利益の追求

   1 直接的利害アメとムチ

   2 自己の身に及ぶと予される利害

   3 他者(自分の身内)の身に及ぶと予期される利害

  第三節 強いられた第四部のまとめ

  「日常の生活空間から引き離され、日々の生活の流れを断たれて、ポッコリと取調べの場に放り込まれた被者の非現実感がまず最初にある。

 (略)無実の被者は、まるでカフカの小説の主人公のように、不意に非実の世界に放り込まれ、自分の身におぼえのない罪を追及され、あるいはふだんならおよそ細密に思い出すはずのない過去の一点を、くり返し想起することを要求される。その反復は被者の非現実感を増幅させずにはおかない。

 それに自分は『やっていない』という彼の弁明に『そうか』と言ってうなずき、あるいは『そうだそうだ』と言って励ましてくれる人は、もちろんいない。多少やさしくしてくれる人がいたとしても、少なくとも被者が問題の事件に関与したか否かというもっとも肝心な点に関するかぎり、誰一人として彼の主張を信るものはなく、彼は立している。調官との対人関係のなかで、彼は孤立無援のまま、完全にに浮いてしまう。無実の被者にとって取調べの場は、そのようにどうしようもなく非現実的な場なのである。

 しかもこれにとどまらない。代用監獄での生活を余儀なくされ、全生活を支配されたところでは、取調官(ないし看守)との非対等的関係のゆえに、ゆえなき侮蔑に、反抗するすべもなく甘んじざるをえないことさえ往々にしてある。そしてまた代用監獄内の処遇は『犯罪者にはこれで十分』といわんばかりのひどさ。衣食住のもっとも基本的レベルの生活にさえ欠け、生理的、身体的な疲労が加重され、蓄積される。

 (略)こように無実の被者にとって調べの場は、私たちが日常的にかかわる種々の場とはおよそって、非現実的、非対等的なものである。そのなかで人はどこまで将来を見通した客観的な判断が可であろうか。 

 (略)無実の被者にとって取調べの場がこういうものであることを確認したところで、次に私たちはその場の中での否認力動と自白力動の動きについて考察することになる。まず『自分はやっていない』という否認の気持ちをどこまで維持して、取調官に向けて突き出していけるか(第八)。

 無実の私が逮捕されたという理不冬に対してしっかり怒り、取調官に対して敵対できれば、否認力動は衰えることなく堅持できる。ところが無実の被者の多くはこの間違った逮捕に抗議すると同時に、取調官に分かってもらおうと弁明する。調官の方も人間関係(ラボール)をつけるなかで被者を自分の土俵に巻き込んでいくことを考える。

 またたとえ敵対的に対抗し、黙秘を主張しても、そうした被者に対しては、非対等的な侮蔑と強圧がむき出しの形でぶつけられる。黙秘し敵対しても、調べ自体の拒絶ができない被者に、取調官は屈辱的な言動をぶつけ、屈従を強いる。そこにはかならずしも暴力はいらない。言動と振るまいで人を傷つけ、屈服させることは十分可能だからである。 

(略)こうして被疑者は、自ら取調官との人間関係にはまり込んでいくか、あるいは強引にそこに引き込まれていくかの違いはあれ、とにかく取調べの土俵に乗るというかたちで、まず否認力動の一角は崩れる。

 否認を支える力動として次に問題となるのは、自分の罪だということになったときに予想される刑罰や社会制裁への恐れである。最悪のばあい死刑にさえなりかねない事件なら、誰しもそれをおそれて、間違っても無実の者が自白をすることはあるまい、そう一般には思われている。

 ところが現実の冤罪事件での虚偽自白をみれば、これがとんでもない錯覚だとわかる。無実の被疑者は、まさに無実であるがゆえに、自白の結果予期すペき刑罰を現実的なものとして把握できないのである。この非現実感を理解することが、虚偽自白を正しく扱えるための一つの鍵ではないかと私は考える。社会的制裁についても同様である。

(略)かくして、法的刑罰を恐れ、社会的制裁を恐れるというこの第二の否認力動も簡単に操作され、崩れる。 

 最後に残るのは『やはり私はやっていない』という真実の衝動である。しかしこれも被疑者=犯人と思い込んだ取調官の前では脆い。いくら自分の無実を弁明しても耳を貸してもらえず、相手にしてもらえない辛さを、私たちは冤罪者たちの多くの手記や証言から教えられる。

 自由な場での対等な人間関係でならば、そういう理不尽な相手は無視すればよい。しかし自らの身を拘束された非対等的な人間関係のなかでは、とても無視などできず、やはり弁明しつづけるしかない。弁明が取調官の思い込みの厚い壁にぶつかってはねかえされ、あるいはそこに呑み込まれれば、弁明すら不可能になる。ビデオ装置でもないかぎり、人は自分の過去の一切合切をくまなく説明することなどできない。さらに、実際に手は下さずとも、客観的に事件に責任があると追及されたとき、そのことがひどくこたえることもままある。

 そこのところで否認することが罪責感をかきたてさえする。こうして自己の真実を守ろうとする第三の否認力動もその力を失う。

 (略)そして、自らのものではない罪を認めてしまう自白力動の方は取調べのなかでどう動くのか(第九章)。

 取調べには被疑者を自白の方向にさし向ける圧倒的なベクトルが働いている。そのなかで耐えて否認を守ること自体が苦しい。しかも取調べ以外の獄中生活が取調べと切り離されてはいない。代用監獄のなかでは自分の生活を自分で決定するということがはとんど不可能である。被疑者には自分の身を落ちつける居場所すら奪われているのである。

 (略)取調べの苦しさ、獄中生活の苦しさから逃れようとする気持ちの動きが、まず自白力動を高める要因となる。さらに取調べの中身自体が、被疑者の自白を唆す方向にすすむ。わが国の取調官の多くは、残念ながら科学者ではない。被疑者=犯人という仮説と被疑者=無実という仮説の両方を対等に目配りしつつ真実を究明しようとの姿勢に著しく欠ける。彼らの職務は、その意味の真実究明ではなく、ひたすら被疑者=犯人の仮説を確認することでしかないかのごとくである。

 (略)ここのいまの直接的な利害によって自白力動が高められるだけではなく、将来の予期についても『恐怖と望』の交替とその落差が自白力動を高める。

 (略)有罪推定に立つ取調官が被疑者に対して圧倒的優位に立ち、彼を代用監獄に勾留して取調べを続けるかぎり、以上三章にわたって長々と述べてきた自白転回の構図はほとんど必然である。

(略)従来法曹の世界で論じられてきた『自白の任意性』の議論は、この構図に囚われた被疑者の心理的世界に照らしてみたとき、空々しくさえ見える。

 いったいこういう状況下で取調べられたとき、たとえ外見上現行の法に触れるような取調べ方法がまったくないとしても、そこでの被疑者の供述をどういう意味で『任意』と見なしていいのであろうか。『私がやりました』と、無実の被疑者が自白するとき、それは被疑者なりの認識にもとづく、被疑者なりの主体的選択である。それはすでに何度か主張してきたことである。しかしその選択は、まさに被疑者を囲む取調べの構図そのものが彼に強制した選択なのである。」(同書498~503頁)

  以上引用してきたところは、そのまま本件に当てはまると言えよう。いや、むしろ被告人の平成2年6月4日付上申書そのものと言ってよい内容となっている。被告人の上申書は心理学的な真実を語っているのである。

 とりわけ「被疑者・取調官の奇妙な人間関係」が虚偽自白を生み出していく土俵となっているとの指摘は重要である。この「被疑者・取調官の奇妙な人間関係」は、プラハ裁判の洗脳的拷問の事例においてすら、「尋問する側もされる側も、相互に敵対的でありつつ、どこかで共同的な幻想を断ち切れない」「尋問者への両価性(アンビバレンツ)」(同書160頁)として現れている(アルチュール・ロンドンの手記から)。

 そして、被告人の上申書の次の記述は、まさにこの「尋問者への両価性(アンビバレンツ)」をものの見事に言い尽くしている。

  「冤罪者にとっては、自分の敵であるはずの取調官なのに、それでも一人にされるよりは、一緒に居てくれた方がいい。(略)眼の前にいるのは、私を陥れようとしている刑事だけなのに、私には、この刑事に立ち去られては困るという意識が自然と生まれている。ここで取調官に見捨てられたら自分は生存することすら危ういのだという無意識の恐怖が、必然的に彼らに媚を売るという私の行動となって表れる。」(上申書57~58頁) 

 「家族や親しい友人、弁護人にまで不信感を抱くということは、それは相対的に取調官を信頼するということになる。自分の孤立無援の悲しさを認識すればするほど、たとえ表面的にでもこの寂しさに同情を示してくれる刑事に気持ちが傾いてゆく。今の自分の悲しい気持ちを本当に判ってくれるのは、限の前にいる刑事たちしかいない、という錯覚に見事にはまってしまった。」(上申書291頁)

  弁護人は、これを被告人の置かれた異常な心理状況の描写であると指摘したが、心理学的には「両価的心情」として合理的に説明されることになる。そして、「外から攻められ(全生活の支配、肉体的・精神的拷問)、内から崩され(疲労と衰弱、孤立、個人的侮辱)、さらには両価的に相手の手中に取り込まれていく(尋問者への両価性)。

 こうして、被疑者・被告・囚人は人格的側面において尋問者に屈服していく。いかに頑強な精神力の持ち主であっても、この過程をくぐってなお屈服することなく、自分を保てる者はおるまい。そしてこの過程を背景に、これと並行して容疑事実の自認、自白という過程が進行する。」(「自白の研究」163頁)のである。

 4.被告人の「自白」ないし不利益供述に任意のないことは、右に検討したように、心理学的な見地からも明らかである。

 最後に、被告人の「自白」に任意性がないことの証左として、被告人の「自白」の中に明らかな虚偽供述が含まれていることを指摘しておく。

 一つは、昭和60年8月29日の初期自白の内容である。それは

「太宰府の山中の河原で佐藤を石で殴打し首をビニール紐で締めて殺害し、死体を杉に引きずりいれ、その上にダンボールをかぶせて逃げた」

という内容であったが、これらはいずれも原判決の認定するところとは相容れない虚偽事実であるばかりか、その時点で捜査官が入手していた情報をつなぎ合わせたものにすぎなかった。

 原判決によれば、

「その時点における供述には作為が少ないとみることができる」

とされているにもかかわらず、殺害方法・場所にかかわる根幹部分において決定的な虚偽自白がなされているのである。どうしてこれが「任意」であると言えるのであろうか。

  二つ目は、10月6日付検察官調書(一審乙23)にある

「7月22、3日頃、佐藤の鞄の中から300万円を抜き取り」(9丁表)、

「これを7月末の大蔵屋に対する支払に充てた」(30丁表)

という供述である。

 これは8月中の否認期から自白期を経、自白撤回期に至るまでずっと一貫していた(上告趣意書別表「折山供述経過(白石・佐々木証言による)1頁中段や7頁末行。但し、4000万円とあるのは400万円の誤り)。

 しかし、これは月末の大蔵屋に対する300万円の支払が現金でなされたという捜査官の誤認(その原因は、大蔵屋の担当者の供述調書(一審甲241)に300万円現金入金と読める会計伝票が添付されていたことに基づく)の結果生まれた虚偽供述であった(真実は渋谷郵便局長振出の小切手であった(一審甲349))。

 被告人が佐藤を殺害した直後の不動産売買代金の決済であれば、その原資が佐藤の鞄から奪った現金であったのか、それとも佐藤の郵便貯金にかかる小切手であったのかは忘れようはずのない出来事である。

 被告人が「任意」に不利益供述をしていたのであれば、どうしてこのような虚偽供述をするであろうか。被告人の「自白」ないし不利益供述が任意になされたものでないことは、これらからしても明らかである。

 二、別件逮捕勾留中の被告人の供述を有罪認定の証拠とした違憲違法の補充(その二)

 弁護人は、上告趣意書(第一の四)及び上告趣意補充書(一)(第一の一)において、第三次逮捕以前(20日以前)の捜査段階における佐藤殺害容疑の取調は余罪の取調として許容される範囲を超えた違憲違法なものである旨主張した。

一審甲296号証 (昭和6020日付領置調書)には、「被疑者折山敏夫に対する殺人被疑事件」と明記されており、第一次逮捕勾留自体が本件である佐藤殺害容疑の取調を目的とする別件逮捕勾留であったことがはからずも明らかにされている。 

 第二 佐藤殺害関係についての重大な事実誤認についての補充(その三)

一、昭和5513日に太宰府山中で発見された変死体と佐藤との同一性(その三)

  弁護人は、上告趣意補充書(一)及び同(二)において、一審甲297号証(原審昭和63年押229号の20)(以下「現フィルム」という)と、伊波医師の提出した佐藤のエックス線フィルム(正確にはもともと伊波医師が保管していたフィルム。以下「元フィルム」という)とが異なっている可能性のあることを指摘してきた。

 この点についてさらに補充する。

 現フィルムを仔細に観察すると、現フィルムには、「R」(以下「R」「L」は現フィルムに記入されているRLの文字を表すものとする)側上六、七番と「L」側上六番の歯の上部に「×」印が付けられていることが分かる(次頁写真赤丸内)。

 そして、この「×」印は、フィルム裏からはフィルムが光って見えなくなることがあるのに対し、フィルム表からは光線の加減に関係なく常に「×」印が読め、しかもフィルム表から見た方が鮮明に「×」印が判読できることからすると、この「×」印は、フィルム表(「R」「L」が正しく読める側)からボールペン様のもので記入されたものと考えられる。

 この「×」印は何を意味するのであろうか。

 これは一審甲291号証(昭和60年7月20日付デンタルチャート)の欠損歯を表す「×」印を、同デンタルチャートとは左右逆に(要するに、その時の伊波医師の認識どおり)エックス線フィルム上に表示したものと考えられるのではないだろうか。

  それでは、伊波医師がこの「×」印を付けた可能性はあるであろうか。 

 伊波医師が昭和60年7月20日に元フィルムを任意提出した際には、同医師はフイルムの表裏を誤って認識していたというのであるから、このときにフィルム表(即ち、同医師の認識においてはフィルム裏)に「×」印を付ける可能性はあり得ないと言わざるをえない。

 そうすると、「×」印を付けたのは捜査官ということになるのではないだろうか(それでなければ、伊波医師が佐藤の治療にあたり、これからその歯を抜歯するために目印として付けたと考えるしかないが、これも不自然である)。何のために?

 考えられるのは、伊波医師に「7月20日付のデンタルチャートは元フィルムを左右逆に見ていたために誤って作成してしまった」ということを供述させるためでしかあり得ない。そして、鈴木和男鑑定は、この現フィルムを鑑定資料として鑑定を行った。それは鈴木鑑定書(一審甲302号証)に添付された図9焼付け写真にも、「×」印が写っていることから明らかである。

 しかも、重要なことは、鈴木鑑定でエックス線フィルムとして使用されたものは、エックス線フィルムそのものではなく、それをリスコンタクトフィルムという写真製版用のフィルムに焼き付けたものであった。

 これは、鈴木鑑定書9貢に「なお、生前の写真はサクラリスコンタクトフィルムに焼きつけたものである」との記載があり、また鈴木証言においてもフィルム膜面がザラザラしているかツルツルしているか、エマルジョンが付いているかどうかで表裏の判断ができるとの供述がある(鈴木和男一審公判速記録12丁裏)ところ、このフィルムの特徴はエックス線フィルムそのものではなく、リスコンタクトフィルムの特徴であることからも明らかである(末尾資料1、2)。

 したがって、鈴木鑑定の基礎となった鑑定資料そのものに作為があったことになるのであるから、鈴木鑑定は信用性の根拠を失ったと言わざるをえない。

 捜査官が証拠物を偽造したということはにわかに信じがたいことかもしれない。

 しかし、最高裁判所で破棄差戻となった幸浦事件では、被害者の死体発見場所についての秘密の暴露の偽装の可能性が示唆されていたし、東京高裁で無罪が確定した松戸OL殺人事件でも被害者の着衣についての秘密の暴露の偽装の可能性が示唆されているのである。

 捜査官に意図的なデッチ上げの意思はなくとも、犯人だと決めつけた被疑者になかなか有罪の決め手が見つからない苛立ちが「決め手」を作り出してしまうことは決してあり得ないことではない。

 第三 おわりに

 被告人が無実の罪で身柄を拘束されてからすでに10年が経過しようとしている。原判決言渡刑の2分の1である。しかし、被告人を獄にとどめておくにはあまりに本件の証拠構造は脆弱と言わなければならない。

 昨年、被告人の無罪を信じる人々が、被告人の上申書の真実を一人でも多くの人に理解してもらうべく、「警視庁代用監獄136日間の記録」を作成しその頒布を行った(末尾資料3、4)。このことは「法学セミナー」にも取り上げられ、被告人の無実を信じる人々の輪が着実に広がりつつある。

 被告人は佐藤殺害に関しては無罪である。弁護人は御庁に対し、少なくとも佐藤殺害部分については速やかに破棄自判無罪の判決を賜りたく重ねて強く要望する次第である。

                           以上 

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