上申書・82 移監

   移監

 私は殺人容疑で起訴された後も、なお1ヵ月半に渡って警視庁第4留置場生活を強いられ、初公判を終えた11月28日になってから、やっと東京拘置所へ移監された。

 留置人が移監になる前日には、取調べを担当した刑事たちが総出で面倒見に連れ出してくれて、まるで今生の別れのように腹いっぱいのご馳走をしてもらえるのがここの慣例になっているのに、私のところへは誰もやってこなかった。

 また、移監当日の朝には、護送バスが到着する前の15分間ほどを盗んで、担当刑事が別室へ連れ出して、最後のタバコに火をつけて別れの挨拶をしていくのも恒例になっていたが、私にはこれもない。

 私の事件について刑事たちがどのように考えていたか分かるような気がした。否認事件の留置人は移監といっても寂しいものである。

 しかし刑事たちが最後の別れに来なかったということは、彼らの気持ちの上ではこの事件を解決して勝利気分に浸れていないことを表しているようなものだ。

 私は名残りのタバコが吸えなかったことを残念に思いながらも、取調官との闘いには、結局は勝ったのだと確信した。

 警視庁における135日間の勾留期間中の取り調べ時間は、合計1300時間を優に越えるだろう。

 この時間は取調官か私が絶えずしゃべっていたことになるのだが、私の今までの人生で、これだけの延べ時間に渡って真剣な対話を交わした相手など、肉親を含めても数えるほどしかいないだろう。

 私の子供たちはおろか、17年間連れ添っていた妻とですら、果たしてこれだけの濃密な対話時間があったかどうか自信がない。

 1300時間の対話というのは、それだけ膨大な時間量なのだ。

 この時間で、私と取調官との間には、事件のことに限らずずいぶんと多彩な会話が交わされた。

 人間同士の親しさというのは、お互いの対話の量に比例するような気がする。この意味で、私と刑事たちとは大変に親しい間柄になっていた。

 これで最後の別れという段になっても、刑事たちが姿を現さなかったことで、彼らの心に今もって鬱屈しているものを想像できる。

 彼らにとって、私の事件は一件落着したものではなかったに違いない。

 護送バスから眺める街の景色は懐かしかった。

 思えば梅雨が明けて真夏になったその日に逮捕されたままで、あとはずっと窓のない壁だけの空間に閉じ込められていたから、季節がいつの間にか初冬になっていることに気付いただけでも驚きなのだ。

 バスの道筋に見覚えのある光景が現れるたびに、懐かしさと、これからの運命に対する感傷などが入り混じって涙ぐんでしまう。

 高い塀に囲まれた拘置所へ入ったときには、とうとう来るべき所まで落ちてしまったかと、さすがに心細さもあったが、同時に私にとっては、これでやっと警察の手から逃れられたという安心感も湧いてきた。

 入所手続きの尋問の中で、「死のうと思ったことはなかったか?」と言われたときには、留置場の中で死を決意していたことを思い出して、万感胸に迫り、「ありました」と答えたとたんに大粒の涙が落ちる。

 その後で自分の舎房へ連れて来られると、狭くて汚い部屋ながら、ここでは窓からは日が差し込み、庭には草木が見える。

 木の葉が風で揺れているのを眺めながら、私は長かった捜査当局との闘いがやっと終わったという実感に浸った。

 やがて、房内のラジオから音楽放送が流れ出すと、ディスクジョッキーの女性の声を聴きながら、ここにはささやかながら人間の生活があると知り、開放感に満たされたのである。

                                              以上

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