上申書・5 22 時間ぶりの食事

   22 時間ぶりの食事

 四留5室に入って30分くらいたった頃に、私を逮捕連行した5人の刑事のうちの2人が私を迎えにやってきた。

 5室から看守台の前に出たところで手錠腰縄がつけられる。

 私は逮捕状を執行されてからも今までは手錠なしでずっと連行されてきていたから、この時初めて手錠をはめられたことになる。

 両手首に当たる冷たい鉄の感触は、私の希望を打ち砕くのに十分だった。

 猿回しのように縄尻をとられて四留を出る。そして受付カウンター横の電動扉を通り抜け階段を降りると、2階には取調室エリアがあった。

 通路の通路の両側にズラリと小部屋が並んでいて、その異様な光景を見るだけで圧倒されてしまう。

 「初めて見る者は誰でも驚く。全部で 100もある。これが全部取調室なんだ。これでも時には足りなくなる」

 刑事の説明を聞くと、ますます警視庁の威容を見せつけられた気になってしまい、私はすっかり萎縮してしまった。

 私が連れて行かれたのは第65調べ室。入口から真っ直ぐつづく通路の左側のいちばん奥である。

 通路を右折すれば突き当たりには便所がある。

 6畳ほどのタテ長の狭い部屋には大小2つの事務机と電話があるだけの殺風景なもので、机の周りには事務用椅子が3脚置かれていて、部屋のいちばん奥に机を挟んで折り畳み補助椅子が一脚、入口に向けて置いてあった。

 私に逮捕状を示した丸顔刑事がすでに机の定位置に座っていて、私の顔を見ると奥の補助椅子に座るようにと言う。

 私は手錠をはずして貰ってから着席する。

 3人の刑事は、それぞれ取り調べ主任の白石警部補、安田部長刑事(注1)、加藤部長刑事であると名乗ったのちに、いよいよ取り調べが開始された。

 3人の刑事はゆったりとした余裕を漂わせたようにみえたが、これは私の留置手続きがなされていた1時間ほどの間に食事と休憩をとっていたからに違いない。

 真夜中からずっと私の逮捕という大仕事をしてきたのだから、食事も休憩も当然のことだ。

 しかし、彼ら以上に私の方が疲労し空腹だった。

 私の身柄が拘束された時には、私は一日の仕事を終えて帰宅する途中だった。

 深夜の仕事だから一般のサラリーマンとは時間のズレがあるとはいえ、私にとっては、まさしく労働を終えてこれから食事と休憩になるべき時刻だった。

 その身柄拘束からすでに6~7時間がたっているのに、私は食事どころか水一杯も与えられていない。

 刑事が自分たちの食事と休憩だけを確保して、被疑者である私のことなど念頭に入れていなかったことは、この後の私の拘禁生活の惨めさを暗示するものだった。

 まず、私の被疑事実についての弁解を聞いてやろうと言って、白石主任が弁解録取書をとり始めた。

 この時には、特に私を脅したり誘導したりすることもなく、私が語るそのままを整理しながら調書化してゆく。

 本当の容疑は佐藤の殺害だということはすでに聞かされていたが、この時になっても私にとってはあまりにも意外すぎてその実感が湧いてこない。

 だから逮捕容疑の弁解なのに民事に介入した警察に対する反感が思わず知らず私を素直にしなくなってしまう。

 私の供述は、とげとげしいものになっていった。

 30分ほどで簡単な調書をとると、いよいよ本格的な調べだ。

 佐藤の居場所について私が知らないと断言したとたんに、安田部長の怒鳴り声が耳元で発せられて、これだけで私は身をすくめてしまう。

「お前は今日が何日か知っているだろう。お前の人生で最も忘れられない日のはずだ。5年前の7月16日に、お前が何をしたのか喋ってもらおうじゃないか」

「てめえ、俺たちがおとなしく尋ねているうちに素直に答えねぇと、とんでもないことになるぞ。暗い穴ん中で、早く出してくれって佐藤が泣いている声が聞こえないのか、この人殺し野郎め」

「ちょうど今がお盆じゃないか。往生できなくて宙をただよっている佐藤の霊をきちんと極楽に届けてやろうや。5年目の同じ日にお前が逮捕されたってのも供養になる」

 交互に語る刑事の言葉から察すると、どうやら警察では、1980年の7月16日に私が佐藤を殺害したのだと考えているらしい。

 しかし私には何のことだかさっぱり理解できないので答えようもない。

 5年前の7月16日頃の自分の行動を説明しろと言われても、そんな遠い昔のことなど記憶に残っているはずもなく、とても答えられない。

 私としては、自分の記憶に残っていることなら何もかもすべて話してしまって、このような馬鹿げた殺人容疑などは一刻も早く晴らしたいのだが、何の手がかりもないままでは思い出せないのだ。

 私が質問に答えられなかったり、覚えていないと答えるたびに、刑事は私が犯行を隠そうとしているとみたのだろう。

 しだいに私に対する追及の声も大きくなり、ついには机を叩いて怒鳴りはじめる。

 その態度は、私から当時の詳しい情況を聞いて、佐藤の失踪に関する真相をつきとめようというものではなかった。

 私の弁解を聞こうというのではなく、単に佐藤殺害と財産奪取の事実を認めろという一方的なものだったから、私はあきれてしまって、こんな連中とは口をききたくもないと思うようになった。

 しだいに口を閉ざしはじめてしまう。

 私が黙ってしまうと、それを素直でないと判断したのか、刑事の私を罵る言葉はだんだんと酷くなり、怒鳴り声も大きくなる。

 実生活では、面と向かってこのような悪罵を聞くことはあまりないので、私の神経はほんの1~2時間のあいだにすっかり消耗してしまった。

 「昼だから休憩にするか」

と白石主任が言い、まだ青筋を立てて真っ赤な顔をしている安田部長と私の間に入ってくれた。「昼飯だ」

と言って渡されたのは、ビニール袋に入ったパンだった。

ホットドッグ用の細長いパンが3本と、給食用にパックされたジャム、マーガリン、チーズが一つずつ入っている。

 そして、加藤部長がお茶をいれて私の前に黙って置く。

 今まで喧嘩腰で怒鳴られていた3人の刑事に取り囲まれたままで、このパンをお茶で飲み込むことは、まだ私には抵抗がありすぎた。

 腹が減っているはずなのに、食欲は湧いてこない。

 それにビニール袋入りの3本のパンの食事は、昨日までの私の食事とはあまりにも落差がありすぎる。

 贅沢はしてこなかったが、私はまだこの給食用パックのジャムやマーガリンなどを利用した経験がなかったので、これをパンに塗ってお茶で飲み込むというのが、いかにも惨めに思えて、とても喉を通りそうもない。

 一応はビニールの口を開いてはみたものの、食べることはあきらめた。

 「なんだ、食わんのか」

という問いに私が頷くと、刑事はビニール袋を無造作に部屋の隅にあるゴミ籠に放り込む。

 一杯のお茶を飲んでタバコを一服させてもらい、トイレに連れていって貰うと、これだけで私の昼休みは終わり、午後の取り調べがそのまま始まった。

 刑事たちは交代して食事や休憩に出かけるが、私はトイレに立った以外は補助椅子に座ったままで一歩も動くことはできない。

 また、刑事たちが気をゆるめて雑談をしているように思える時にも、私は油断しないように常に気を張っていた。

 朝留置場を連れ出された瞬間からは、周囲の者は全員敵なんだぞと自分に言い聞かせながら、心身ともに緊張しつづけていた。

 午後の取り調べが始まると、狭い取調室はまたも怒号と罵声の飛び交う修羅場となる。私が意のままに素直に供述しないとみるや刑事は、取り調べ技術を駆使して、とにかく私を屈服させようとして全力を挙げた。

 ありもせぬ噂話をでっち上げて挑発する。

 私が情にもろいと知ると、その弱い部分を徹底的にいたぶり、感情的に引っかき回して混乱させる。

 私はこんな馬鹿げた取り調べには応じたくないと何度も考えたが、その都度彼らの取り調べのテクニックに屈してしまい、結局はすべてを語ってしまった。

 しかし、私が自分の記憶にある限りの真実を、そのまま喋っても刑事はまったく信用しない。

 彼らが私に供述させようとしているのは、ありのままの真実などではなく、捜査当局が描いている虚構に沿ったウソの供述なのだ。

 「佐藤を埋めた場所を自白しろ」

といくら強く責められても、こればかりは心当たりのまったくない私には、語りようもなかった。

 数時間もの間、極端な緊張の持続を強制され、感情を揺さぶられ続けたので、精神的にはタフだと自認していたこの私も、すっかり消耗してしまう。

 刑事たちは頻繁に交代しては休息し、その間に私を責めるための作戦を考え出してはまた登場する。

 私に言い負かされそうになれば、すぐに逃げ出す。

 次々と視点を変えては責めてくる3人の刑事に対して、私は休むことも許されずに一人で対応しなければならなかった。

 いつかは私の緊張が崩れて、彼らの思いのままに何でも認めるようになるのも時間の問題だった。

 刑事の自白強制に対して反発する力も失せかかってきた頃になって、加藤部長が薄緑色のプラスチックの器に入った夕食を運んできた。

 椀に盛られた飯と一皿のおかずである。

 刑事の時計を盗み見ると5時すぎだったから、キチンと留置場の食事時間に合わせて運んできてくれたらしい。

 これをキッカケにして、取り調べはひと休みということになった。

 新しくお茶を入れてもらって、私も緊張が解けたとたんに、急に空腹感が襲ってきた。

 思えば昨日の夕方に、家族と一緒に食事して以来、丸一日何も食べていない。

 逮捕されてからの14時間でも、昼に一杯のお茶を飲んだ以外には何も口にしていないのだから

空腹も当然のことだ。

 食事を拒否して、不当逮捕に対して抗議の意志表示をすべきだろうか、とも一瞬考えたが、私は食欲に対して自分の意志がさほど強くないことを知っている。

 ずっとハンストを続けられるならともかく、今日の一食を抜くだけではその中途半端ぶりを笑われるだけのこと。

 そんな意地を張ってみせるよりも、自分の体力の維持を図ることの方が大切だと考え直した。

 捜査当局がウソの自白を私に強制しようとしていることがわかった今となっては、そっちがその気ならばこっちもできるだけ体力を温存して徹底的に抵抗してやるぞと決心すると、すっかり開き直ってしまう。

 食事はペットの犬にやるのと同等の貧しいものだったが、3人の刑事が見守るなかを、私は一粒も残さずにすっかり平らげてしまった。

 

 

     次のページへ進む   上申書の目次へ戻る   ホームページのTOPへ戻る