上申書・6 眠れない

   眠れない

 小便に連れていってもらってから、タバコを一服すると、すぐに夜の取り調べが始まる。

 私が食事している間には余計なことも言わずに、ゆっくりと食べ終わるのを待っていた刑事たちだったが、取り調べとなると、打って変わって厳しい追及がなされる。

 私の方は、食べた物が胃の中で消化を始める暇もなく、再び緊張した精神状態に置かれることになった。

 3人の刑事は、それぞれが役割を分担している。皆から「部屋長」と呼ばれている安田刑事は、私に恐怖心を植えつけ萎縮させる役目を負っていたようで、絶えず私を大声で怒鳴りつづけ、補助椅子の脚を大きな動作で蹴っては派手な音を立てていた。

 そして加藤刑事は、安田刑事の罵倒に怯えて反論する元気も失っている私を優しく慰めて心を

開かせる役目を果していた。

 最後に登場する白石主任が、供述を調書にとる。

 私に対して論理的な説得を続け、私の主張に含まれる小さな不自然さや矛盾点も見逃さずに鋭く追及してきた。

 一人が自分の責任分担を果している時には、他の2人の刑事は口を出さずに黙って脇に控えているか、取調室から出て休憩に入ってしまう。

 脅し、なだめすかし、説得する。この三つのパターンを何度も繰り返しながら、私から思いどおりの供述を得ようと、私の感情を揺さぶりつづけるのだ。

「これまでの2年半、お前さんをつけ回したし、徹底的に調べたから何もかも判っている。5年前の出来事も、お前さんよりもこっちの方が正確に行動を再現できるんだ」

と白石主任が言うとおり、私の性格まですっかり掌握していた捜査当局は、私に対しては、どのような責め方をすべきかを的確に見抜いていた。

 十分に計算されて選ばれた3人の老練な刑事が、蓄積された尋問技術を尽くして、緩急自在に私を追及するのだから、私はいつの間にか刑事に対する警戒心も忘れてしまって、我を失って素顔の私をさらけ出してしまう。

 3人の刑事がタイミングよく交代しては、矢継ぎ早に次から次へと質問してくるので、私の方は息つぐ間もないという感じだった。

 頭の中で思考を組み立てて、どのように表現して答えようかなどと考えを整理する余裕もない。

 頭に浮かぶままに、未整理の生の記憶を即座に答えるように強いられていた。

 ところが、5年前のほとんど忘れてしまった記憶の断片を思いつくままに供述するのだから、前後の脈絡が繋がらないし、細かな不合理な点がいくらでも出てくる。

 そんな私の説明の中の不自然を見つければ、彼らは鬼の首でも取ったように居丈高になって、私を嘘つきだとなじり、殺害事実を隠そうとしているからに違いないと罵った。

 彼らの尋問技術は完璧だったと私は思う。

 初めは捜査当局のやり方に反発して素直にすべてを語っていなかった私も、この日の最後の頃には、何の隠しごともなく自分の記憶のすべてをそのまま語り尽くしていた。

 私が真に殺人犯であったなら、この日に何もかも自白してしまったことは間違いあるまい。

 こうして夕食直後から始まった激しい取り調べは、私にとっては絶え間ない緊張状態を継続したままで、深夜12時直前になってやっと終了した(注2)。

 白石主任が終わりを宣言した時には、緊張の糸が切れたようで、頭の中が空白になってしまった。

 手錠腰縄をかけられて、安田刑事と加藤刑事に引き立てられて留置場に向かうのも、何だか自分の足で歩いているような感じがしない。

 宙を浮くように、足をもつれさせながらやっとたどりつく。

 留置場に入ると、6つの房の室内灯を除く他の照明はすべて消えていて、薄暗いなかでは看守の顔がやっと判断できる程度だった。

 留置人の誰かが派手ないびきをかいていたのが、自分の惨めな立場とあまりにも対照的に思えて印象に残った。

 私は、今朝の30分間収容されていた第5室ではなく、第3室に入るように指示された。

 すでに2人の収容者が眠っていたが、錠の開く音に目覚めた一人が私の寝るべき位置を手で指し示してくれる。

 見ると便所の戸の前に畳1枚分のスペースが空いていて、そこに毛布が積み重ねられていた。

 それを静かに敷き、下着姿になって横になった。

 ところが朝から身体を固くして補助椅子に座りっぱなしでいたために腰の筋肉が炎症を起こし

ていて、痛くて背を伸ばすことができない。

 エビのように腰を曲げたままで横向きになっているしかない。

 さらに悪いことに私は数か月来、肩凝りに悩まされていて、右腕は水平以上には上がらず、もちろん手を後ろに回すこともできない具合だった。

 客商売をしていたから夏の薄着の間は仕事の時ははずしていたが、自宅ではサポーターをはめて固定していたほどだったから、右肩を下にして横向きになることなどとても無理なのだ。

 したがって、この夜の私は左向きに横になって身体を丸める姿勢をとっているしかない。

寝返りを打てない苦しみにも情けなく耐えていた。

 今日はとうとう私の睡眠時間は与えられなかったのだから、私はすでに36時間も一睡もしていないことになる。

 身柄が拘束されてからですら21時間もの取り調べが継続されていたのだから、私は心身ともに疲労の極にあるのに、眠ろうと思っても、とても眠れるものではなかった。

 思えば、わずか15分前までは、私は極度の緊張を強いられていたのだ。

 取り調べのリズムもペースもすべて刑事まかせで、私は自分のコンディションの調整もできぬままに、感情が最も高揚している時に終了となったのだから、その興奮の余韻で心臓の鼓動だってまだ平常に戻っていない。

 眠ろうったって眠れるはずもないのだ。

 部屋の天井で輝いている豆電球も、眼が暗さに慣れるといやに明るく感じて、ますます気持ちをいらだたせる。

 眠れぬままに脳裏に浮かぶことは、家族のことや仕事のこと。

 今朝からの衝撃的な出来事を考え始めれば、見通しのまったくつかない不安と心配でますます眼は冴えてしまった。

 シミだらけのせんべい布団と臭い毛布にくるまっている自分の、あまりの惨めさに打ちひしがれて、私はこの日初めて泣いた。

 留置場の起床時刻は午前6時。

 看守の「起床」の号令で一日が始まる。

 明け方になってウトウトとしたらしく醒めきらぬ重い頭のままで私は起きる。

 2人の先住者に教わりながら寝具をたたみ、掃除・洗面・点呼・朝食とルールに従っていった。

 前日の取り調べが何時に終了しようと、それを理由にして眠っていられるわけはないのだ。

 

 

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