窓のない部屋
3時間ほど眠ると起床時刻である。
独房生活となって雑談する相手もいないので、私はじっくりと6室を観察してみた。
黄色に赤の繊維が混じって全体としてオレンジ色に見えるカーペットが敷かれた台形の小部屋である。
壁は淡いブルーに塗られ清潔なムードがあるし、照明は明るく、完全な空調設備で快適温度に保たれているので、監獄にまつわる暗いイメージはしない。
各部屋の左右の壁は分厚いコンクリートだから叩いても響きもしない。
前後は鉄格子の内側に金網が張られているだけで素通しだが、看守との物のやりとりや食事の出し入れのために、前の金網の下の方には小さな窓が開いている。
看守台から見て左側奥の1畳ほどが壁で区切られており、水洗の和式便器があり、収容者は自分で使ったあと自由に水を流すことができる。
便所を含めて全体の広さが6畳ほどで、本来は2人用の部屋らしいが、六つの房の中で独房生活者は私だけである。
昨日まではこの6室も他の部屋と同じく前側の金網にはプライバシー保護用の目隠し板がとりつけられていたのに、それが取り外されていて看守台に座ったままで6室の隅々まで見通せるようになっている。
そして、天井に設置されたテレビカメラの方向も、この6室に向いたままで固定されていた。なるほど、犯行を否認している重大事件の被疑者は、留置場内の処遇でもこのように差別されるものらしい。
1日24時間行動のすべてを監視されたうえ、他の収容者との雑談すらも許さないというのだ。
取り調べで散々に痛めつけられた心が他者との会話によって慰められ回復することを制限しようとする。
刑事訴訟法など勉強したこともない私には、拘禁された自分がこの後どのような手続きに従ってどのように扱われるのかも判らず、不安な気持ちで一杯だった。
同房者に助言して貰えば、この不安もいくらかは軽くなろうに、独房に隔離されたのでは、それもできない。
この留置場内の規則にしたところで収容者の利便のために許されていることも沢山あろうに、私はそれを先住者から伝え聞くこともできないのだ。
6室から眺めると、留置場にはどこにも窓がないから外の様子はまったく判らなかった。
どこか1か所だけ開口部があって外が見えるとも聞いたが、私のいる6室からは見えない。
完全な空調設備と人工照明とによって留置場の環境条件は一定に保たれているから、ここにいる限りは昼も夜も季節の移り変わりも感じられない。
こんな留置場で生活していると、時間の感覚は鈍くなってゆく。
周囲の情況変化が何もないために時間の経過を体感することができず、時間というものは単に看守の行動に対応して認識できるだけのものになる。
例えば、看守が「起床」と叫んでいるから朝の6時だ、日勤看守と交代したから9時だ、昼のパンが配られたから12時だ、就寝点呼が始まるから夜の8時だろう、という具合だ。
およそ自主的な判断とは無関係で、単に看守からの指示に頼りきって、寝たり起きたり食ったりする世界となってしまう。
特に私のように独房生活が長く続くと、自分の時間感覚の誤りを同房者との会話で確認したり修正することもできない。
「腹がへったなぁ、今何時頃だろうか?」
などと互いに自分の感覚を述べ合う機会もないのである。
そのうちにいつの間にか時間を認識しようとする気持ちも失われて、今日が何日なのか、今が何時頃なのかを気にしなくなってしまう。
自分が逮捕されたのも、つい昨日のことのようにも、遠い昔の出来事であるようにも思えてしまった。
窓のない狭い独房空間は、時間感覚を喪失させる箱である。
こうして看守の合図によってしか生活のリズムが決められないようになるにつれ、取調室においても刑事との隷属関係はますます強まってゆく。
言われた時間に言われたものを食い、言われた時にトイレに行って、言われた時に取り調べが終了する。
「右を向け」
と言われれば、まるで条件反射のようについ右を向いてしまうし、
「署名せよ」
と言われた時にも、刑事の言葉に抵抗しがたくなってしまうのだ。
留置場というのは、人間を“洗脳”するための最高の舞台装置だということを、私自身が十分に認識していながら、いつの間にか私が当事者としてその機能に組み込まれてしまって、催眠状態に陥ってしまった。
留置場を連れ出されて取調室に向かう途中の通路にも、外部の世界を窺わせるようなものは何も存在しない。
窓のないコンクリートの壁だけがずっと続いていて、人工照明により無機質な変わらぬ光景だけが明るく輝いている。
そして取調室は、これまた入口のドア以外には開口部といえば天井にある空調の吹き出し口しかない本当の密室である。
私は朝この部屋に入れられると、途中で昼と夜の二度、10メーターほど離れた便所に行く以外
には、残りの13~14時間をこの密室の中で、しかも部屋の隅に置かれた折り畳みの補助椅子に座っているだけで過ごすことを強制される。
この密室の中で常に何人かの刑事に取り囲まれて、こずかれ罵倒され侮辱されるだけの毎日だったが、仮にこのように虐待されなかったとしても、この小さな密室に10数時間も閉じ込められるだけで十分に拷問である。
一人だけで放置されて、電気のスイッチを切られたら、たちまちに暗黒の世界になるし、もしも空調まで切られたら空気の出入口もないこの小部屋では、人は2~3時間しか生きることができないだろう。
深夜になって周囲に誰もいない時間帯であれば、私が叫ぶ声も誰にも伝わらない。
取調官が怒りのあまり過失を装って、この私を窒息死させるのではなかろうか・・私はそうした妄想にとらわれて、恐怖を感じたことが何度もあった。
自分の生殺与奪の全権が取調官らの手中に握られているのだという無意識の弱みを被疑者に植えつけることにも、この窓のない小部屋は役立っている。
この密室では、一人っきりで放置されることが恐い。
冤罪者にとっては、自分の敵であるはずの取調官であるにもかかわらず、それでも一人にされるよりは一緒にいてくれた方がいい。
取調室は、他の部屋で被疑者を恫喝する取調官の怒声が時々聞こえてくる以外には、外部からの情報が一切ない。
部屋の中にいる者の精神を安定させ、和ませるのに役立つ装飾など何もない。
この部屋にいるだけで心が乱され、不安が増長され、気持ちが高ぶってくるという空間だ。
眼の前にいるのは、私を陥れようとしている刑事だけなのに、私には、この刑事に立ち去られては困るという意識が自然と生まれている。
ここで取調官に見捨てられたら自分は生存することすら危ういのだという無意識の恐怖が、必然的に彼らに媚を売るという私の行動となって表れる。
窓も飾りもなく、ただ精神集中のための機能本位に設計されているこの空間は、一定時間以上閉じ込めておくだけで被疑者を暗示にかけ、“洗脳”しやすくできるという舞台装置である。
この空間で取調官に抵抗しつづけるには、通常の一般社会で行われる対立関係の何倍も多くのストレスが要求されるのだ。
“洗脳”に対する防衛訓練を受けていない一般市民が、突然にこの密室に放り込まれたら、取調官に屈服するのは時間の問題にすぎない。
私は留置場の独房とこの取調室を往復するだけの生活を、合計136日間も強制されていたことになる。
それも結果としてそう言えるのであって、当時の私には、毎日のこの苦しみがあとどのくらい続くのかを想像することは不可能だった。
いつ終わるとも予測のつかぬ苦しみほど、人を絶望に陥れるものはない。
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