強制捜査着手の事情
渋谷の北陸銀行が警察に対して、佐藤名義の預金差押え手続きに関して私の行動が不審なので調べてほしいという密告を行ったのは、警察が強制捜査に着手する2年半以上も前のことであった。
警察は、果して何らかの犯罪性があるのかどうかの決め手をもたないまま、情報収集と私に関する内偵捜査をすすめていたという。
私を取り調べている刑事は、1984年秋になってこの事件を重点的に立件するようにとの指示が「上」からきたと言った。
その時期に急に、確証もないこの事件について、強行突破の捜査方針が指示されたのには理由がある。
それは、タカ派の警察官僚として有名な福田勝一が、その年の秋に警視総監に就任したことだった。
しかも、公務員の60歳定年制が1985年度から実施される予定になっていたので、1926年生まれの新総監の任期は1年ほどしかないことが決まっていた。
福田はかねてから政界進出を狙っていたが、そのためにはこの1年の任期を是非とも自分の宣伝のために有効に利用しなければならない。
前任者の下稲葉耕吉総監がタカ派として強烈な性格をもつ福田の総監就任に強く反対していたことは広く知られている。
そんな確執のすえに誕生した福田総監だったから、警視庁の実権を掌握すると同時に人事面でも下稲葉色を一掃し、新総監の息のかかった者で固める必要があった。
当然にタカ派の強気な姿勢を持つ幹部が誕生する。
そして彼らは、反対派を見返すためにも、この短い任期中に目に見える実績づくりを画策するのである。
福田の総監就任が決定した直後に、自民党本部放火事件が起こる。
自民党は緊急役員会で破壊活動の徹底弾圧を確認し、現場を視察した中曾根首相は「警察当局に犯人摘発を指示した」という。
中曾根・後藤田官房長官コンビが政権を握る時代である。
公安権力強化を指示されて福田新総監は、我が力を見せる絶好のチャンス到来と考えたことだろう。
福田の警視総監就任は、その初めから強気で暴走するという宿命をもっていたのだ。
その他にも、警察権力との関連で当時の社会で話題となっていた事件は、先ず“グリコ事件”がある。
警察の捜査失敗がつづく中で“グリコ事件”の“かい人21面相”が大阪の「グリコ」だけでなく、東京の「森永」をも脅迫していたことが発覚したのは、まさに福田総監誕生の直後のことである。
捜査当局を嘲笑し続ける“かい人21面相”を逮捕することは、警察の威信回復のためにも最大の課題だった。
また、豊田商事事件と投資ジャーナル事件という二つの経済事件も、被害者の救いを求める声は日増しに大きくなって、世論は警察に対して強硬姿勢をとることを求めつつあった。
刑事事件として立件できるかどうか微妙な事件だったが、警察はそろそろ何らかの結論を出さざるを得ない時がきていた。
そして、最大の懸案が“ロス疑惑”事件である。
マスコミ総動員ではやし立て、果して警察は強制捜査に入れるかどうかと、日本中が見守っていたし、警察の弱気ぶりを非難する論調さえ現れはじめていた。
最右翼の警察官僚として自他ともに認める福田総監としては、弱腰だと批判されることは耐えられなかったことだろう。
いずれの事件も前任者の下稲葉総監時代から捜査継続していた事件であり、慎重に検討したのか、強制捜査に着手するとの結論には至らず、未処理のままで福田総監に申し送られた事件だった。
前総監を見返してやるためにも、これらの難事件に対して強気の捜査方針でのぞみ強硬突破を覚悟で打開するしか、福田総監にとり得る方法はなかったのである。
私の事件も、この強引に解決しなければならぬ事件の一つだった。
犯罪であるとの確証がつかめないために2年間も保留のままにされていた懸案事項に対して、強硬突破を指示したのは福田自身である。
何とでも理由を探し出して私の身柄を確保してしまえば、優秀なベテラン取調官にかかって、私が全面自白するのは時間の問題だと考えられたに違いない。
<捜査陣にとって最大の“誤算”は折山の性格だった。「見るからに気の弱そうなやさ男。すぐ落ちる(自供する)」と捜査官は折山を見ていた。だが、調べが始まるとその見方は一変した。>
これは毎日新聞記事の一節(1985年10月14日付夕刊)だが、この間の事情をよく説明している。
こうして福田総監が誕生してから退官するまでのわずかな期間に、自民党放火事件・投資ジャーナル事件・私の佐藤失踪事件・ロス疑惑事件という4件もの冤罪がでっち上げられたことになる。
投資ジャーナル事件は、強引な法解釈によって立件したものだが、あとの3件には犯罪と容疑者を結ぶ直接証拠はなく、むしろ捜査当局側が自ら証人創出、伝聞証言などの方法で証拠らしきものを作り出していることに共通の特徴がある。
また、どの事件もマスコミを積極的に利用して、事件報道を通じて警察の威信高揚を図り、宣伝している。
私は、取り調べの合間の雑談の時間に、一体なぜこんな難しい事件を手がけたのかと質問してみた。
白石刑事がこんな内容の返事をした。
「この事件の舞台が田園調布という東京の一等地だったということだ。白い洋館と孤独な資産家の取り合わせがよかった。これが荒川のほとりのアパートで年金暮らしの婆さんが失踪したというんでは、マスコミの受けが違う。
実は懸案の“ヤマ”が3件あって、どれから着手しようかと迷ったんだ。一つは大森で会社社長が失踪している。これも殺されてるだろう。
もう一つは、高井戸の警官殺しで犯人の目星もついている。しかし、この佐藤殺しの事件が舞台装置が派手なのと謎解きの面白さで、偉いさん方の食指を誘ったってことだろうな」
そういえば社会では、そろそろ地価上昇が話題になりはじめ、ある漫才コンビの“田園調布に家が建つ”というギャグが大いに受けていたころだった。
強制捜査に着手する時点で、事件のマスコミ受けも計算されていたのだ。
マスコミが騒いで、私が真犯人であるという固定観念を一般社会に浸透させることができれば、私を孤立させるだけでなく、当局の狙いどおりに関係者の証言を誘導しやすくもなる。
私に関する新たな情報提供や密告も期待できるし、事件の解決を早めることも可能だ。
なによりも警察の威信を社会に宣伝して、新総監の実績づくりに貢献するという狙いには、最適の事件だったのである。
その後福田が東京の選挙区からの立候補を狙って、大型の名刺を多量にバラ撒き、実績を誇示しながら自民党公認を得ようと活動した話は、あまりにも有名だ。
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