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上申書・14 事件の構図

     事件の構図

 捜査当局が当初描いていたシナリオは、私が逮捕された丁度5年前の1980年7月16日に佐藤を殺害して、どこかにその遺体を処分したというものだった。

 「5年前の今日のことを思い出せ。お盆が終わらぬうちにケリをつけろ。丁度命日に犯人が逮捕されたのは何よりの供養だ」

 刑事たちは最初こう言って私をさかんに説得しようとしていた。

 ところが、私が逮捕されて2~3日も経つうちには、家宅捜索によって資料も集まるし、関係者からの事情聴取も進んだので、それによって得た客観的事実と照らし合わせてシナリオは変更される。

 佐藤が殺害されたのは7月23日か24日の夜だと特定して、再び私への追及が始まった。

 これは押収資料の中に、23日の夕方に佐藤が私の事務所に電話をかけてきたという記録が残っていたことと、25日には私が経営していた銀座のスナック「MAY 」の従業員のための給料を遅れずに支払っていることの二つの点から推測したのだ。

 給料として私が用意した70万円ほどの現金は、私が佐藤を殺害して奪う以外には入手する方法がないと当局は考えたからである。

 捜査当局が入手した客観的事実を並べて当時の私の行動を再現してみると、なるほど当局の作り上げたシナリオも一見すると辻褄が合うようにみえる。

 まず私は1980年7月21日に額面1000万円の小切手の決済ができずに1回目の銀行不渡り事故を起こしていた。

 次に同月24日には5万余円の小切手を決済せずに2回目の不渡りを出し、自分の経営していた不動産事務所を倒産させている。

 常識的にみれば、わずか5万円の金策もつかずよほど金銭的に追いつめられていたものと考えられよう。

 それにもかかわらず、翌日の25日には70万円の人件費を用意できたのだから、この1日間に大金を入手できる何かが起こったものと考えられ、当局の推測ではそれがまさしく佐藤殺害と現金奪取だった。

 悪いことに、これらの諸事実を突きつけられても、私には5年前の記憶などほとんど蘇らず、したがって25日に大金が用意できたことの弁解やら詳しい事情説明ができない。

 「自分の会社を倒産させた時の記憶などは、忘れようのない強烈な印象として残っているはずだ。お前は記憶していないんじゃなくて、自分に都合の悪いことだから忘れたふりをしているだけだ」

と刑事は私を責めるが、この時私が5年前の出来事を思い出せないことはまったくの事実だった。

 刑事が言うとおり、自分の会社を潰した時の記憶がないなんてことが本当にあるのだろうか、と自問して、私自身が健忘症にでもなったのかと、本気で不安になったほどだ。

 刑事たちの疑問に対して私が明確な弁解をしなかったことで、刑事たちは私への疑惑を一層深め、当局の描いている犯行シナリオの正さを確信した。

 「不渡りを出すほど金に困っていた折山が、佐藤を殺して金を奪おうと計画し、7月23日か24日の夜に田園調布の佐藤宅に押しかけて佐藤を殺害し、多額の現金や預金通帳、印鑑等を奪った。そして翌25日にかけて自分の車に佐藤の遺体を積み、どこかへ運んだ」

 このシナリオが、この時点で捜査当局が描いた私の犯罪内容である。この推定に従って捜査が始まってゆく。

 たとえば田園調布にある元の佐藤宅は,殺害犯行の証拠を求めて徹底的な血痕捜索が行われたし、当時私が使用していた車はとっくに廃車手続きをしていたのだが、捜査官はこの車の行方まで追及して車内の犯跡を調べたという。

 その一方で私に対する取り調べも、このシナリオに沿った私の自白を得ることに絞って行われた。

 しかし、私自身にはまったく覚えのないことだから、いくら自白を強要されても供述のしようがない。

 それでも取調官から得た5年前の客観的事実の断片をつなぎ合わせているうちに、やがて私も当時の記憶を少しずつとり戻してゆく。

 7月21日に発生した最初の不渡り事故についてだが、これは私が立て替えて融資していた一千万円について佐藤から返済を受ける約束になっていたのに、その期日になって佐藤が約束を違えたために、私の資金繰りが狂った結果の出来事だった。

 その年の春頃から、佐藤と私は共同して不動産金融と飲食店経営の二つの事業を展開することで合意し、休眠会社だった「キャピタル興業」と「佐藤企画」という2社を再開して営業を始めていた。 経営の知恵と実務は私が担当し、事業資金の裏付けは佐藤が行うという分担が定まっていたのだが、実際には自分の発言力を確保しようとして、私自身もこの2社に対して多額の資金を投入していた。

 一千万円は、このようにして私が佐藤企画のために短期間用立てた金の一部である。

 私は、佐藤との共同事業とは別に渋谷で不動産事務所を経営していて、こちらの営業は順調だったので、余裕のあった資金を佐藤企画のために用立てたのであった。

 ところが、この時に佐藤が約束を守らず、結果として私が不渡りを出すことになったので、私の不動産事務所の社会的信用は失墜してしまう。

 この佐藤の不誠実な行為に怒った私は、佐藤を田園調布の自宅に訪ねて厳しく非難した。

 そして、いままでやってきた共同事業の解消と清算を求める。

 この時までに私が用立てた金額はすでに合計2800万円くらいにもなっていたし、これ以外にも佐藤のために行ってきた仕事での成功報酬として佐藤が約束していた分が2000万円ほどあったから、この日私は佐藤に、まずこの2000万円について直ちに支払うようにと要求した。

 これが7月23日の夜のことである。

 ところが佐藤は、自分のやった約束不履行がどれほど悪い結果をもたらしたかをまったく理解していない。

 ほんの少しのいたずらをした程度だと考えていたらしく、私が血相を変えて詰め寄っていったことに、かえって驚いている始末。

 冷静になってよく話を聞いてみると、私が自分の仕事を中心に動いていることに嫉妬して、わざと困らせてやろうとしたと言う。

 そして自分の軽率さが重大な結果となり、私に回復しがたいダメージを与えてしまったことを心から詫びた。

 更に、今後も今までどおりに私と一緒に仕事を続けてほしいと頼む。

 できれば不動産事務所の方は閉鎖してしまって、共同事業の2社の経営に専念してもらいたい。

 そうすれば自分としても本気で事業資金の提供に応ずる。

 二度と裏切ったりしないことと資金を出す証拠として、2社の社印やら小切手帳に加えて額面2100万円の預金通帳と印鑑を渡すと言った。

 佐藤には本気で私を裏切る気持ちがなかったのだと判り、私の怒りはそがれてしまったが、それでもこの場ですぐに仲直りをする気分にはなれず、23日夜はほかにスナック「MAY」で友人と待ち合わせしていたこともあって、結論を翌日に持ち越すことにして、佐藤と別れた。

 しかし、佐藤がここまで誠意を示して私を求めていることが判れば、情にもろい私としては、怒りなどすっかり静まってしまう。

 そして、現実問題としても、すでに一度不渡りを出した事務所を継続して失地回復を図るよりも、豊富な資金が期待できる共同事業の方が有利である。

 佐藤に恩を売りながら、私の立場を有利にする条件を認めさせることができる、ということも確かだった。

 私は、この不渡り事故を次の飛躍のためのワンステップにしてやろうと、すでに佐藤と話し合いながら心に決めていた。

 翌7月24日の昼頃に田園調布の佐藤宅に行き、昨夜の佐藤の気持ちが変わっていないことを確かめた。

 そして私は、佐藤の謝罪を受け入れて、今回の不渡り事故につながった彼の約束不履行を許すことにし、今後の共同事業に専念することにしたのである。

 昨夜の佐藤の申し出どおりに私は、キャピタル興業と佐藤企画の小切手帳と印鑑、そして2100万円分の定期預金通帳と銀行印を預かった。

 さらに、佐藤の性格や日頃の行動を考えれば、これだけでは私が全面的に彼を信用するわけにはいかなかったので、今後の万が一にも佐藤が再度裏切った場合に備えて、白紙委任状と印鑑証明書をも預かることにした。

 すでに委任状については、別の債権保全のために何枚かを預かって私が所持していたので、この場では印鑑証明書を取得するのに必要なカードだけを佐藤から受け取ればいい(注5)。

 私は、佐藤からこれらの物をひとまとめにして受領し、ついでに布製のバッグも借りてこれに一括しておさめ、このバッグを佐藤宅の和室にとりつけられた飾り戸棚の中に隠しておいた。

 佐藤が私からの要求にほとんど無条件で応えてくれたので、私も自分の経営している事務所を閉鎖しなければならない。

 幸いこの日、24日には額面5万余円の小切手が取り立てに回っていることが判っていた。

 私は、佐藤に今日の小切手を不渡りにすることを告げ、自分の銀行へ必要資金を振り込むことをとり止めた。

 こうして二度目の不渡り事故を起こし、私の事務所はこの日に倒産する。

 私にとっては、自分の信用を完全に失墜させるという悲しい決断だったが、佐藤の申し出は、失うものよりもはるかにメリットがあったのだ。

 私の事務所が7月24日に倒産した情況について、以上のように思い出したので、取り調べの刑事には記憶のとおりに弁解した。

 この倒産は私が計画的に仕組んだものであって、当局が考えているような、金策が尽きて止むなく不渡り事故を起こしたというようなものではない。

 むしろ発展的に事務所を閉鎖したのであって、私には倒産のショックなど生じる余地がなかったので、今では当時の情況など覚えていなかったのだ。

 私がこのようにいくら強調しても、刑事たちは私の弁解など聞こうともしない。

 刑事から不審をただされた時にすぐに弁解したのならともかく、時間が経ってから行った弁解であったために、彼らは私が言い逃れのために作り話を編み出したものと決めつけて受けつけないのだ。

 そして、あとは捜査当局が作った犯行のシナリオを私に押しつけようとするばかりだった。

 

 

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