上申書・18 隣室の声

  4. 共犯者(逮捕第1週)

   隣室の声

 私が逮捕された初日の取り調べのことである。私は、「佐藤をどこへやったのか」と問われはしたものの、そもそも私は警察が民事訴訟に不当に介入してきたという先入観をもっていたから、初めのうちは尋ねられていることの重大な意味を正しく認識していなかった。

 私は、取調官に抵抗する態度を露骨に表したり、素直に尋問に応じなかったり、あるいは今までの民事訴訟で主張してきたとおりの作り話を交えた建前論ばかりして、刑事の質問を真正面から受けとめようとしない。

 こんな私の態度に業を煮やしたのか、しばらくあきれた顔をしていた白石主任が、私に耳を澄まして聞いてみろと言う。隣の64号室では、男が泣き叫ぶような声で必死に弁明しているのが私にもかすかに聞こえてきた。

「誰だか判るか」

と白石。私が首を傾げていると、

「藤本だよ。お前の共犯として今朝逮捕した。彼まで逮捕したんだから俺たちのこの事件に対する意気込みも判るだろ? ごまかして言い逃れようとしてもだめだ」

 これを聞いた私は本当に驚いた。

 藤本氏は佐藤の行方などとはまったく無関係どころか、出会ったことすらない。

 むろん民事訴訟にも関わっていない。

 およそ犯罪などとは無関係の純粋な音楽家だった。

 単に私の頼みを聞き入れて、2年前に佐藤の身代わりになって住民登録手続きをやってくれただけなのだ。

 渋谷の宇田川ビルについては、売買契約を交わして所有者はキャピタル興業に移っていたのだが、地主から借地権譲渡の承諾を貰わないうちに売主の佐藤が失踪してしまったために、所有権移転登記をできないままになっていた。

 その後、佐藤ぬきのままで借地権の問題を解決するべく、私と地主との間で交渉が行われていたが、その折に地主から佐藤の住民登録が役所の職権で抹消されていることを知らされた。

 そして地主は公示送達という方法を用いて失踪したままの佐藤を相手どって土地の明け渡し訴訟を起こすつもりだと言って私を脅かす。

 このままでは、建物の譲り受け人である当方がいつの間にか借地権を失ってしまうのではないかと私は心配した。

 とにかく一刻も早く佐藤の住所を定め、少なくとも訴状の送達先を確保しなければならない。

 佐藤の住民登録を抹消されたままにしておけない、もう一つの理由もあった。

 私はずっと佐藤の行方を探していたのだが、住民票がないと手がかりをまったく失ってしまう。

 それに、借地権の問題が本格的な争いになれば、佐藤本人を探し出さないかぎり、私たちには勝ち目がないのである。

 さらに私としては、佐藤と仕事のけりをつけたり、金銭的な清算をしなければならない事情もあって、佐藤の所在に結びつく情報はすべて私の手のうちに確保しておかなければならない。

 私は、佐藤の住民登録を私が所有している川崎市内のマンションの一室に定めることに決めた。

 そうしておけば、佐藤の消息や所在に関する情報は必ず私のところに届くに違いない、と私は考えた。

 藤本氏は、演奏家として私が経営していた銀座のライブハウスに出演していたことで私と親しくなった。

 彼が丁度佐藤と同年配なので、私は気軽に佐藤の身代わりになって住民登録手続きをしてほしいと頼んだのだ。

 本人がいないのに無断で住民登録をすることは形式的には確かに法に違反しているのかも知れないが、私には犯罪を犯すという意識はまったくない。

 住所を定めておくことは佐藤本人も望むことに違いないし、このまま住所不定にしておくわけにはいかない。

 公示送達で勝手な主張をされる恐れも大きかったし、こういう佐藤にとっての重大な危険を避けるためにも必要な処置だった。

 住所を定めることは、佐藤から感謝されこそすれ何らとがめ立てられる行為ではない。

 それどころか、佐藤が共同事業のパートナーとして私を選んだ経緯からして、かりに住所不定にされてしまったことを知りながら私が何の方策も立てなかったら、このことこそ非難されるだろう。

 そして実際にも、私のこのような応急処置が功を奏して公示送達によって一方的に借地権を失うようなことだけは避けられたのである。

 私の最初の逮捕容疑は、この一連の住民登録手続きが公正証書原本不実記載にあたるとされたものだった。

 恣意的に考えれば確かに罪を犯したと言えなくはない。

 しかし、それにしてもこれら一連の行為はすべて私一人の責任で行われたのだし、藤本氏などは単に私に頼まれて佐藤本人であるように市役所の窓口で振る舞っただけなのだ。

 本人には犯罪に加担するという気持ちなど少しもなかった。

 2年もたってから警視庁本部に逮捕されたうえ、顔写真つきで大々的にマスコミに報道されなければならないほどの重大な犯罪者だというのだろうか。

 彼のような人間まで破滅させようとする警察のやり方に、私はむしょうに腹が立ってしまった。

 「私は住民登録した事実関係まで否定する気はないんだから、何もHさんまで逮捕することはないじゃないか、可哀相に」

私が強く抗議すると、白石は平然として言う。

 「あの男は音楽のこと以外は何も知らん単純な人間だな。確かに大きな事件を起こせるタイプじゃない。起訴されるようなことはないだろうが、まぁせっかくだから23日間、ここでゆっくりとして貰うことになる。

 Hもお前と知り合ったばかりにとんだワリ食っちゃったが、藤本だけじゃないぞ。お前がのらりくらりと言い逃れていれば、仲間は片端から捕まえる手筈になっている。友達に迷惑をかけたくなかったら、佐藤をどこへ始末したのか早く話すんだな」

 警察は、私へのみせしめにするために藤本氏までも捕まえたのだと知ったとき、私はこの事件に対する捜査当局の本音をやっと心底から理解した。

 彼らの狙いは、借地権の争いに介入することなどではなく、佐藤についての私の殺人容疑しかないという事実に、私はこのときやっと気づいたのだった。

 住民登録を抹消されて宙に浮いている佐藤の住所を新たに川崎市に設定したという事件ならば、本来これは神奈川県警の管轄になるはずだ。それなのにわざわざ管轄外の些細な事件を探し出してきて別件逮捕の口実にしたのだから、警視庁の狙いが公正証書原本不実記載などという形式的なことにないことは明白だ。

 したがって捜査当局は、藤本氏の逮捕が本筋の殺人事件には何の意味もないことを十分承知した上で、ただ私を脅かす材料の一つにするためだけに、これを行ったことになる。

 平穏に生活している一市民を、勝手な目的の手段とするために監獄に繋ぎ、本人や周りにいる多くの者の人生を破壊する。

 警察の薄汚いたくらみに気づくと、それが権力の本当の姿なのだとは知りながら、私は改めて背筋が寒くなった。

 佐藤の殺人事件を立件するためなら手段を選ばずどんなことでもするのだという捜査当局の強固な姿勢をここまで見せつけられた以上、私は、もはや小さなことで取調官に楯突いて供述の一時逃れをしていることは得策ではない。

 自分の知っていることはすべて喋って、むしろ私の方から積極的に佐藤の所在に結びつく情報を提供して、早急に真相を解明して貰うべきだと考えた。

 佐藤の行方さえ判明すれば、捜査当局の考えているような殺人事件など存在しなかったことが明らかになる。

 さもないと白石の言うとおり第二第三の藤本氏のような犠牲者を出してしまうことになろう。

 この時からの私は、佐藤の行方の心当たりについて、記憶にあるとおりにすべて供述を始めた。

 また、別件逮捕容疑となった住民登録やら宇田川ビルの譲渡担保登記などの事実についても、大筋では当局のシナリオを認めることにした。

 「どうでもいいような、こんな小さな犯行まで否定するのは、殺人の真相を隠すためだろう」

と刑事たちに勘ぐられていたから、本命の佐藤の行方の真相を明らかにするためにも、方便として些細なウソなら認めておいた方がよかろうと考えたのである。小さな対立を繰り返して、巻き添えの友人たちがこれ以上出ることだけは絶対に避けねばならなかった。

 

 

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