上申書・19 矢ケ崎氏が叫ぶ

 


   矢ケ崎氏が叫ぶ

 友人の矢ケ崎氏が逮捕されていることを知ったときの驚きも大きかった。私が逮捕されてからの2日目だったろうか、判事からの勾留質問を受けるために、朝のうちに乗用車に乗せられて裁判所の地下待合所に引き立てられて行った。

 私だけの単独押送だったので3人の若い刑事に見張られながら狭い部屋で長時間待機させられている時のことだ。誰も口を開かないので不気味な沈黙が続いているところに突然、矢ケ崎氏の泣き叫ぶ声が聞こえてきた時には、私は思わず耳を疑った。

 「家へ帰して下さい。私は何も知らないんだ。このままじゃ手形が回ってきて倒産しちゃう。お願いします。帰して下さい」

 それと同時にドアや壁に身体がぶち当たる音、そして数人の激しくもみ合う靴音がする。力づくで押さえつけられて判事の部屋から引きずり出されているような気配だった。その間も矢ケ崎氏の必死の叫びはずっと続いていたが、私は手錠腰縄姿だったから手で耳を覆うこともできず呆然としているしかない。まさかこの事件で矢ケ崎氏までもが逮捕されていようとは想像もつかなかった。

 彼は旧家の生まれで、私とは5年前に知り合い、以後親しく付き合ってきた。佐藤とも数回は顔を合わせて互いに見知ってはいるものの、どう考えても佐藤殺しなどという犯罪と関係があろうとは思えない。矢ケ崎氏も藤本氏の例と同じく、当局は、狙っている事件の本筋からはずれていることは承知のうえで、私に対する単なるいやがらせと心理的圧力を加えるために逮捕したのに違いない。

 当局が矢ケ崎氏を逮捕する口実としたのは、内容虚偽の公正証書を作成した容疑だということを、後になってから私は知らされた。私が佐藤に対してもっていた債権のうちの一部、額面 600万円の公正証書を作成するにあたって、私がY氏に債権者名義人になってほしいと頼んだことがあったのだ。たかが私に名義を貸していたというだけの形式的な問題である。かりにこれが法に違反していたとしてもわざわざ逮捕しなければならないほどの重大事件ではない。しかも5年前の出来事なので、公正証書原本不実記載の時効寸前の古い事件だった。

 そもそも私がこの公正証書づくりをY氏に依頼した経緯については、何の秘密もないのだから、尋ねられれば私自身が何でも答えただろう。公正証書づくりの真相解明のために彼を逮捕したのではないことは明らかだ。

 この日の彼の血を吐くような叫び声は、矢ケ崎氏に対する取り調べの酷さを予感させるものだった。私は、彼の取り調べを担当した鴇田警部補の暴力によって彼が前歯を数本折ったということも後になって聞いた。当局は、Y氏に対しても、あわよくば佐藤殺しの犯人としてでっち上げようと企んだのかも知れない。少なくともそのような見込捜査の結果、彼は逮捕されたのである。

 藤本氏に次いで矢ケ崎氏までもが、私と同時に逮捕されていたという事実は、私を怯えさせるのに十分だった。私の友人・知人を、「片っ端から逮捕してやる」と言う白石の言葉が単なる脅しではないことを見せつけられたからだ。

 「別件逮捕だ、過剰捜査だとよく騒ぐけれども、俺たちは気にしない。終わりよければすべてよし。真犯人だという証明さえできれば途中のルール違反は帳消しだ」白石刑事が言うとおり、この事件を立件するためなら、なりふりかまわずに暴走するつもりなのだ。

 佐藤を殺したなどという単なる予断があるだけで、何の証拠もないのに、私をはじめ、藤本、矢ケ崎の3人もの身柄を拘束している。この分では白石の言うように、まだまだ多くの者が何とでもインネンをつけられては、自由を奪われる可能性がある。私の立場としては、もはや自分だけの正義のために供述を続けることは許されない。私は、できるだけ当局に迎合しながら、これ以上の暴走をさせないように計算して供述する必要がある。

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