上申書・24 5年前の佐藤の立場

 

 

5年前の佐藤の立場 

 

 捜査当局が本事件の犯行日時だと想定している昭和557月下旬に至る半年ほど前の、この年の初めころから、佐藤の希望により、私は共同事業者として佐藤に協力することとなり、彼と仕事の利害を共有しはじめていた。

 前年の春に知り合って以来、佐藤は私の不動産事務所に出入りしては、私の仕事ぶりを見ていたのだが、私の仕事ではかなりの利益が期待できると考え、自分にも参加させろと希望したのである。

 

 

 私の仕事は、いわゆる不動産ブローカーであるが、それ以外に私が2千万円ほどの自己資金を投入して、裁判所で行われている不動産競売に参加していたので、この競売物件の購入に佐藤が興味を示したのだ。

 昭和54年に私が扱った数件の競売参加の状況を逐一見て、自分の資金の投資には最適だと判断し、私に共同事業を提案した。私としても、動かせる金額が増えればより有利な競売に参加できることになるので、彼の提案を受け入れた。

 

 

 しかし、このときになって私は初めて、佐藤が実際には現金を持っているわけではないことを知る。彼は現在所有している全資産を換金して、その金を有利な投資に回そうと考えていたのだった。

 従って私が彼の提案を受け入れて共同事業を開始するには、その前に先ず、彼の資産の換金にまで手を貸さねばならなかった。これは非常に厄介で困難な仕事ではあったが、佐藤が熱心に私に依頼したことと多額な報酬を約束したので、とうとう私が引き受けることになった。

 

  昭和54年秋の佐藤はといえば、3年越しの離婚訴訟の末にやっと和解が成立し、妻に対する和解金5000万円を早急に支払わねばならぬ状況にあったが、仕事も持たず、収入の方法もほとんどない彼にとっては、この慰謝料を捻出するためにも、財産を処分する以外に方法はない。

  昭和43年に躁うつ病が発病して以来、4度の自殺未遂事件を経て精神病院への入退院を繰り返した後に、昭和47年に家出をして、それ以後はずっと放浪生活を続けてきた佐藤だったから、発病するまでは順調に拡大してきた飲食業もとっくに崩壊してしまい、仕事の収入は皆無だったのだ。

 

  この数年間、財産を切り売りしては自分の遊蕩の費用をまかなってきたのだが、それも、任意に売却できるものはすべて売り払ってしまって、残りは権利関係が複雑な問題があって、これを整理しなければ売るに売れぬ財産だけが残されていた。

  しかし佐藤本人には、これらの問題点を自力で解決する能力も意欲もない。また、将来を展望した堅実な計画性なども無く、ただ行き当たりばったりの生活だった。

 

  佐藤なりに何とか問題を処理しようと考えて、佐藤正三弁護士や、麹町の柴田弁護士などに相談を持ちかけては見たが、佐藤自身に問題点が明確に把握されていないのだから、いかに法律の専門家でも助言できない。

  かえって佐藤の特異な金銭感覚や思考方法に、愛想つかされ、本気で佐藤の相談に乗ってくれない。もっとも、はったりと虚勢の態度を崩さぬ佐藤が、本当に経済的に追い詰められているとは考えられなかったのも事実だろう。

  結局は佐藤が最後に、藁をもつかむ気持ちで、残りの財産の換金処分を私に頼まざるを得なかったのも、他に頼れる者もない彼の境遇を考えると必然だったのである。

 

  私は先ず田園調布の自宅の庭半分を売却して、とりあえず離婚の慰謝料を作らねばならなかった。

  これは、すでに建物のほうは、別れた妻キヨエによって差し押さえられていた上、現実にまだキヨエが占有していたので、直ちに処分することが出来なかったからである。

 

  崖下という特殊な地形状に建つ家だったので、排水設備などのために一部、地上権を設定したりして、いくつかの難問を片付けてやっと換金に成功し、慰謝料を払い終えた。すでに強制競売手続きに入っていた建物の差し押さえも解け、これでやっと自宅については、任意に売却することが可能な財産になったのだ。

  庭先を売却したことによって生じる譲渡所得税は、原価がほとんどゼロに近い上、当時の税率が高かったせいもあって、総額(地方税等合計)4千数百万円になることが明らかだったが、9000万円の売却価格から5000万円の慰謝料を支払ったので、残りをすべて充当しても足りない。

 

  それどころかこの当時の佐藤は、他にも合計1200万円ほどの滞納税金の督促を受けていたので、今後支払わねばならぬ税金の合計は6000万円にもなろうかという巨額である。

  さらに佐藤には、数年前に売却した渋谷道玄坂の喫茶店営業権についての譲渡所得税の調査が始まっていたし、これらの納税のために残りの財産を換金すれば、この行為によって新たに巨額な税金が発生する。

  本来なら資産の売却などせずに、担保に入れて金融機関から借り受けて必要な金の手当てをすべきなのだが、借金しても、他に何の収入もない佐藤には返済能力がないので、この定石が使えない。税金を支払うためには残りの資産を売却する以外には方法は無かった。

 

   昭和55年春になると税務署からの追求も厳しくなり、佐藤が代表取締役をしていた法人の当座預金や、銀座の転貸店舗の賃料、次いでいよいよ自宅の建物までもが差し押さえを受ける。

  これ以外にも佐藤の呼び出しが続くので、もはや一刻の猶予もならぬ切迫した状況にあると、さすがの佐藤でも青くなっていた。放って置けば残りの資産のすべてが税務署によって強制的に公売処分されることは目に見えていた。

 

  残っている佐藤の資産といえるものは

  ①34人に貸し付けたまま未回収になっている総額2000万円ほどの融資金、

  ②銀座のビルの3階に賃借していた店舗の造作権、

  ③渋谷の宇田川ビル

  ④自宅の建物部分、がそのすべてだったが、直ぐにも換金できるものは④の自宅だけである。

 

  たとえば①の貸付債権にしたところで、借用書1枚だけと引き換えに、何の担保も取らずに融資した金が回収不能になっているのだから、もはや手のうちようがない。

  とりあえずは東京近郊という立地条件に恵まれていたので、大○市の(○)○○葬祭・○○○子についてだけは動産執行の手続きをとることにし、私がその手続きを代行して進めた。

 

  ②の賃借店舗については、家主に無断で賃借スペースを四分割して、そのうちの二区画を転貸していたために、契約違反で立ち退きを求められているほどであって、そもそも営業権の譲渡を認められぬ契約であったこともあり、この造作権を売却して換金することは難しい。

  資産とはいえ、あくまでも賃借権という使用権であって、換金資産とはいえなかった。

 

  ③の宇田川ビルについても前述したとおり、すでに5年間に渡って土地の所有者との間で係争が続いているので、、これを片付けるには多額の金が必要だったことも有って、売却しにくい。

  空き家が長く続いていた木造の老朽建物だから傷みがひどく、地下室からは下水が溢れていて、店舗正面はブリキ板を立てて、荒縄で縛っているという、まるで繁華街には似合わぬ荒れ果てた建物だった。

  そして宇田川町は防火地域に指定されているので、このような木造3階建ては禁止されていて、今からこのビルを使用するにしても、その用途は限られてくる。本来の鉄筋コンクリートビルに立て替えようにも、地主と係争中とあって、その承諾が得られる見込みがない。

  換金するには条件の悪い資産だったが、ともかく佐藤の希望する手取り金4800万円で売却しやすいように、私は建物の外壁を塗り替えたり、雨漏りを修繕したりして、商品価値を高めることから開始した。

  この建物は佐藤にとっては何の利用価値もない物件であり、毎月の地代や維持管理費用を考えると、一刻も早く処分することこそ佐藤の利益になるのだが、佐藤と地主との和解条件はなかなか煮詰まらなかった。 

 

  ④の自宅部分についても、たやすく売却できる物件ではない。崖下という特殊地形であるために、玄関が2階に設置されている上、はったり好きで派手な佐藤の性格が反映して、とても一般向けの住宅とはいえない。

  しかも外見だけに体裁よく造った建物は、鉄骨作りのはずなのに、床が沈み、ドアも閉まらぬほどに歪んでいた。

  空調設備も壊れていて、給湯できず、従って入浴すら出来ないのだから、最低限度の生活が営めるようにするためだけでも、かなりの補修が必要なのである。

  私は初めてこの建物に入ったときに、アチコチからの雨漏りが壁を伝って流れ落ち、折角の壁紙がカビで汚れているのを見て、これでは全く商品にならぬとがっかりした。私は先ず、商品としての化粧直しや、諸設備の修理から始めるより仕方なかった。

 

  佐藤が換金したいと言っていた資産はこれがすべてである。

  首尾よく売却できたとしても総額16000万円ほどだろうか。そしてこの売却によって新たに生じる譲渡所得税と、今までに払わねばならぬ税金をすべて清算すれば、正規に佐藤の手元に残る現金はせいぜい67000万円だ。佐藤はこれを資金にして競売物件の買取事業を私と共同してやろうというのだった。

 

  佐藤と私は何度も繰り返して、この支払わねばならぬ巨額な税金について計算してはため息をついていたが、ある時、佐藤がこの1億円に近い税金を支払わずに、これを資本にして事業を起こして行きたいと語ったことで、私は佐藤と本気で共同事業を推進してゆく決心がついたのである。

  佐藤が投資するというだけの話であれば、私にとっては手間がかからないという利点があっても、基本的には銀行から融資を受けるのと大差は無い。当然にこの資金には利息が必要である。

 

  しかし、脱税した資金を自由に運用できるということになれば、これは全くコストがかからないのだから、有利さは比較にならない。

  しかも、利益折半の五分の共同事業であれば、私には十分に魅力のある仕事だった。

  幸い、資産をすべて処分した後の今後の生活を佐藤に尋ねると、従来通りにのんびりと放浪生活を送り、場合によってはフランスあたりに定住しても良いようなことを言う。

  佐藤が今後も居所を定めないで放浪していることを前提にすれば、所在不明者から徴税することは実際には困難なので、例え課税されるようなことがあっても納税を免れることが出来る。

  そして今ある財産を売却してしまえば、もう佐藤名義の財産は何も残っていないのだから、万が一、脱税が摘発されても、差し押さえを受ける心配も無いのだ。

 

  佐藤の所在さえ捉まれなければ、全資産の売却によって得た譲渡所得税はすべて支払わずに済ますことが出来よう。こう確信したので私は佐藤に「あなたの仕事は、ただぶらぶらと遊びまわっていることだ。5年間は、家を持とうとか家庭を持とうとか考えぬこと」と言い渡す。

  実際の税金を免れるための方法や、その免れた金を使って事業を展開するための具体策を計画するのは、すべて私であった。

 

  当時の佐藤は、目先の金銭的な損得を勘定することだけには異常な知恵をめぐらせたが、その他の事業計画や複雑な策を練ることなどの能力は皆無である。

  佐藤にとって見れば、税金を支払った後に正規に手取り金となる分は入金できた上、後は何もせずに事業収益が期待できる計画だから、これに反対する理由はない。

  共同事業の必要資金は支払うべき税金を脱税して充当すること、事業の実務は私が担当すること、佐藤は5年間は税務署に所在を関知されぬようにすること、代わりに税務調査などへは私が対応すること、事業利益は折半にすること、などが佐藤と私との間で合意された。

 

  そして具体的な事業は、佐藤がかつて経営していて現在は休眠している法人を再開する形式をとることにする。

  こうして私が新たに専務取締役に就任し、連絡事務所は渋谷の私の事務所に置いて、株式会社佐藤企画を発足させ、直ちに業務を開始した。

  ところが肝心の佐藤の資産売却に手間取っているうちに、偶然のチャンスから宇田川町ビルについて、有利な条件で賃借人が見つかった。

 

  手取り4800万円で売却しようと計画していたのに、冗談半分で提示した、保証金7000万円の賃貸条件を飲む、というのである。

  すでに私と佐藤との共同事業は開始されていて、佐藤名義の資産の有利な処分法はすべて私が取り仕切っていたので、この宇田川ビルの賃貸借契約を主導したのは私である。

  また、佐藤個人としては資産も持たず、商取引もしないとの計画通りに、この賃貸人の立場になったのは、私と佐藤との共同事業体であった。

 

  しかし宇田川ビルの賃貸契約を完了してみると、このままでは佐藤名義の建物が残ってしまうので、当初の脱税計画にとっては障害になる。

  銀座の(賃借中の)店舗に関しても、換金処分は無理だとしても、これを運営して収益を上げることは可能なのだ。

  そこで不動産競売物件の買取業としての(株)佐藤企画とは別個に、もう一つの休眠法人である(有)キャピタル興行を再開して、この法人が宇田川ビルを所有し、同時に銀座の店舗を使用して、スナック経営に乗り出すことにした。

 

  こちらは脱税逃れの佐藤の隠れ蓑だとみなされぬように、私が代表者となり、佐藤は表面上、何のかかわりも無いように装わねばならない。キャピタル興行が営業を開始したのは5月のことであった。

    こうして佐藤と私との共同作業は始まったが、私の最初の仕事は、佐藤のために、資産売却によって当然入手できるはずの(正規に税金を支払った場合の)正味手取り金額を確保することだった。

  金銭的には非常にシビアな佐藤のことだから、自分の手取り金を減らされたり、損をさせられたりすれば、せっかく始まった共同事業プランも壊されかねないのである。

  佐藤の手取りの具体的な金額は、今となっては記憶が定かでないが、当時の税法で計算して正確に算出したもので、総額が1億円あまりであったと記憶している。

 

  先ず、宇田川ビルの賃貸保証金の一部として佐藤企画が入手した5000万円に加えて、キャピタル興行が支払った銀座の店舗の借受保証金、宇田川ビルの売買代金などを含め、5月までに計6000万円を確保。

  残りは毎月50万円ずつの分割払いと、あとは自宅を売却したときに清算して支払う予定だった。それまでにもし急用で金が必要になれば、私自身が自分の仕事の金を佐藤に用立てる約束もあった。

 

  この共同事業は、私にとっては非常に有利なものだったので、私は自分の仕事で運用していた金を、新事業に流用して、佐藤の希望をなるべくかなえるように配慮していた。

  田園調布の自宅の売却がなかなか手間取っていたので、営業を開始した両社の事業資金については、当面は私と佐藤とで立て替えていくしかない。

 

  捜査当局が本事件の犯行日だと想定している7月下旬の時点で、私がこの2社のため、あるいは佐藤個人のために一時的に用立て替えていた金は、私の記憶にある大きな金を合計しただけでも約2800万円に上る。

  その内訳を簡単にあげれば、キャピタル興行に対して宇田川ビル買取資金の一部として500万円のほか、銀座に開店したスナック「メイ」の営業資金として約300万円。佐藤企画に対しては、「事件の構図」で前述したように、ハウジングヤザキに対する融資金の一部として1000万円。そして佐藤個人に対しては、銀座店舗の保証金名目で預け入れた250万円に、手形貸し付けで融資した700万円などの合計である。

 

  だが、これらの私が直接に現金の形で用立てたもの以外にも、私は計2000万円を佐藤から貰うことになっていた。これは離婚の慰謝料捻出のために庭先部分の売却を提案して、これを成功させたことや、宇田川ビルについて法外に有利な条件で賃貸する手続きを行った私の不動産業者の立場への謝礼金に加えて、自宅の残りの部分を売却して、しかも、徴税をうまく免れる方策を立案・実行することへの成功報酬を含む総額である。

 

  私はこれらの自分の債権を保全するために、佐藤から預金通帳や印鑑を預かっていたのだが、その具体的な経緯については前述した。このほかにも私は佐藤の自宅の鍵を預かり、実質的に放浪生活の続く佐藤に代わって管理をしていたし、銀座の店舗や宇田川ビルについても同様である。

 

  また、私の自主的な判断で自宅の売却活動や税務署対策の行動が起こせるようにと、、佐藤からは数枚の白紙委任状や印鑑証明書を預かっていたから、万が一、私の債権が危うくなるようなことがあれば直ちに保全措置を講ずることが可能だった。

  過去の精神病が完治したとは到底思えぬ特異な思考方法を持つ佐藤だったし、時には旅に出たきり数週間も所在不明になってしまう日ごろの行動を知っている私としては、あらゆる不測の事態に備えて、万全の安全対策をしておかなければ2800万円もの現金を立て替えることなど出来はしない。

 

  定期預金を解約した以外にもいろいろと、佐藤の資産を私が勝手に処分したではないか、と捜査当局は追及するが、前述したとおりに、佐藤が全資産を売却した後に合法的に入手できる手取り金額のうち、その大部分はすでに佐藤の手に渡っていた。

  残りは自宅売却の際に精算することになっていたし、すでに佐藤と私の共同事業は営業を開始していたのだから、仮に佐藤が不在中であったとしても、事務処理は行わなければならない。

 

  確かに共同事業の相手方の不在中に、ルールを逸脱して独断で処分したと思われても仕方のない点があったことは認めるが、それにしてもこの処分行為はあくまでも共同事業遂行の一環としての行為である。佐藤の個人財産を私が勝手に処分して、その代金を自分のものにする意図があったものではない。

  ほんの一部であるが、佐藤の承諾が絶対に必要だったと思える私の行為も確かにあったが、私が佐藤に対して多額の債権を持っていたために、その債権を確保しようとしたのだ、という側面がある。

 

  たとえ事後承諾になったとしても、すべての処分行為は佐藤と私の間においては合理的に納得いくことだ。これを当局が勝手な理屈をつけて、犯罪行為だと決め付けるのは、言いがかりに過ぎない。

 

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