上申書・28 松原弁護士のヒント

  6. 心当たり(逮捕第2週)

   松原弁護士のヒント

 私の場合に、取り調べが始まってから4~5日目には弁護士の面会態勢が整ったことは不幸中の幸いだった。

 5~6年前から仕事の付き合いのあった松原弁護士が、私の逮捕報道を見て驚き、早速警視庁にかけつけてくれた。

 私は弁護士に問われても、1980年の夏頃の自分の生活を思い出すことができず、何とも説明することができなかったので、ただ自分は佐藤殺害などには一切関係がない、これは冤罪だと主張するだけだった。

 松原弁護士の2回目の面会の時であったと思う。

 5年前の7月下旬の私の記憶喚起に役立つかもしれないと言って、松原弁護士が私の妻から聞いた話を伝えてくれた。

 それは、

・7月20日の日曜日夜に夫婦喧嘩をした後に、私が家を飛び出したまま1週間ほど帰宅しなかったこと、

・帰宅した私の荷物の中に福岡までの航空搭乗券やらホテルの領収書が入っていたこと、

の2点である。

 松原弁護士は、この2点から推察すると7月下旬には九州に行っていたと考えられるが、何か思い出せないかと尋ねたが、私の記憶はすぐには戻らない。

 とうとう面会時間が終わっても新事実は思い出せないままだった。

 20分の制限時間はすぐに経ってしまった(注7)。

 この日の深夜、私は、取り調べを終えて留置場に戻されたあとで興奮した神経で眠れないままに、弁護士の言葉を反芻しながら5年前の出来事を考え始める。

 そしてとうとう、この7月下旬に佐藤と一緒に福岡市内をドライブしたことを思い出した。

 まだ記憶が朧であって、福岡へいつ行ったのか、何の目的で行ったのかなどの詳細は蘇らなかったが、確か夏の暑い日に車のクーラーをいっぱい効かせて、佐藤と福岡を走ったことは鮮明に思い出す。

 これがいつのことだったのかが判れば、私の決定的なアリバイ証明になるのではなかろうかと私は懸命に記憶を逆上らせた(注8)。

 翌朝からの刑事の取り調べの際には、捜査当局が確証をもってリストアップしている佐藤と私の行動表について、刑事との対話の中から私は少しでも情報を得ようと努力した。

 その結果、私が福岡に行って佐藤と会った日は、7月25日しかありえないことが判った。

 24日に私が佐藤から通帳などを預かった記憶ははっきりしていたし、26日以降の私の行動は東京においてはっきりと記録されているという。

 この25日に福岡へ行ったという日を基準にして他に判明している事柄を照らし合わせると、5年前の私の行動の記憶がかなり明確になってきた。

 松原弁護士が私に知らせてくれたとおりに、私は7月20日の夜に女房と口喧嘩をして家をとび出たのだった。

 家出した理由は次のとおり。

 18日夜に佐藤から返済してもらうはずの佐藤企画に対する私の立替金1000万円を当てにして、同日大蔵屋あてに1000万円の小切手を発行したのに、佐藤は約束を破りこの夜は現れなかった。

 このままでは小切手が不渡りになってしまう。あせった私は、翌19日にはすぐ大蔵屋の担当者に対して振り込みを待ってくれるようにと頼んだが、すでに事務処理は終わったあとでどうにもならないと言う。

 あとは小切手が回ってくる21日(月)までになんとか佐藤を探すより他に手はない。

 1920の2日間、私は佐藤の消息を求めて心当たりに電話をかけたり、田園調布の自宅に張り込んだりしたが徒労だった。

 20日は日曜日で仕事を休んでいるはずなのに、一日中私が家を出たり入ったりして落ちつかなかったので、妻は私のこんな不審な態度を許せなかったのだろう。

 丁度このころ、私は浮気をしていて妻もうすうす勘づいていたので、この日の私の落ちつかない態度を浮気と結び付けて妻はヒステリックに私の非難を始めた。

 しかし私は、感情的になっている妻に対して、不渡り事故になるかならぬかの瀬戸際にいて、私があせっているのだという本当の事情を説明する気になれない。

 こんな時にくどくどと弁解しても、私の浮気を責めている妻にとっては、単なる言い逃れとしかとれないことは判りきっている。

 そして、この日の私には、女性問題で夫婦喧嘩などしている時間的余裕もなかった。

 今夜も佐藤の自宅を見張らなければならないと思っていた私は、簡単に着替えとシーツとタオルケットを荷物にまとめると、これを持って家出したのだった。

 とうとう私は、この夜も佐藤を探し出すことができず、結局は翌21日に不渡り事故を起こしてしまう。

 その後佐藤とやっと会えたのは23日の夜になってからだったし、24日には本格的に佐藤と仲直りするのと引換えに、私は二度目の不渡り事故を起こして自分の不動産事務所を倒産させることになったが、この間の事情についてはすでに記したとおりである。

 7月24日の夕方、私に預金通帳等を預けた後に、佐藤はかねてからの予定に従って福岡へ出発する。

 私は、佐藤と今後の仕事の打ち合わせがてら、自分の乗用車を運転して、佐藤を羽田まで送って行った。

 そこで、このまま一緒に福岡まで同行してくれないかと佐藤から頼まれる。

 もっかの私が家出中なので、行動が自由であることを見込んだ佐藤が誘ったのである。

 しかし、私にとってこの日は、自分の会社を倒産させるという重大な一日である。

 これから渋谷の事務所に戻って書類を整理したり、何か所かにこの倒産が計画的なものだから心配するなと連絡したり、やらなければならないことが山ほどある。

 そのうえ翌25日は銀座のスナック「MAY 」の給料日でもあったから、この金の手配をしないままで旅行にでかけるなど、とても考えられないことなので私は佐藤に断った。

 佐藤は、それならすべての用件を済ませたあとで福岡に来てくれないかと熱心に私を誘う。

普通の時なら断るのだが、この日は佐藤と本格的な仲直りをした記念すべき日だったし、佐藤とは共同事業の分担やら方法やら、まだまだ相談しておかなければならないことも多くあったので、私は佐藤のわがままに応えてやろうと考えた。

 そこで私は、倒産の残務整理と店の従業員の給料の手配を今夜中に済ませて、明朝の一番機で福岡に追いかけてゆくことを約束したのだ。

 翌25日田園調布の佐藤宅で夜を明かした私は、ここから羽田に向かい、福岡行きの一番機に乗り込んだ。

 佐藤とは、約束どおり博多アーバンホテルで落ち合い、あらかじめ佐藤が手配しておいたレンタカーの引き渡しを受け、福岡市内と太宰府へドライブをした。

 私の5年前の記憶は、どんどん明瞭になってゆく。

 7月25日には、佐藤は死んではいない。この私と福岡にいた。

 これが証明できれば、捜査当局が描いている2324日に殺害されたというシナリオは崩れるのだ。

 こう考えると私は嬉しくなった。

 24日に佐藤が乗った飛行機や、25日の朝私が乗った飛行機については、搭乗者名簿から判明するだろうし、アーバンホテルの宿泊者名簿やレンタカーの貸し出し伝票にも記録は残っているだろうから、私と佐藤が7月25日に福岡にいたことは容易に証明できるに違いない。

 弁護士からヒントをもらった2~3日後には、私の当時の行動について、私のはっきりとした記憶が戻っていたが、あとは、この事実をどのようにして取調官に説明するかが難問だった。

 逮捕以来、私が佐藤の消息について述べた真実はすべて作り話だと決めつけられてきたし、私が当てにしていた証拠もすべて捜査官によって潰されてきたのだ。

 佐藤とは1980年の秋以降にも会っていたし、田園調布の自宅売却も佐藤と打ち合わせながら行ってきたことだ、と必死になって主張したが、取調官はせせら笑うばかりだったことがすぐ頭に浮かぶ。

 佐藤が行方不明になった以降にも私は、何人かから佐藤を目撃したという話を聞いていたので、これらの人の事情も聞いてほしいと刑事に頼んだが、ある時刑事から

 「目撃者に尋ねてみたら、あの時はメガネをかけていなかったんで、今となっては佐藤だとは確信できない、と言ってたよ」

と聞かされた。

 証人潰しをしたのだ。

 当局が描いている、私が真犯人だというシナリオと矛盾する事実など提示しても、無視されるか、または逆に証拠を潰されるかだけだと、何日かの取り調べの後、私にもやっと判っていた。

 7月25日に佐藤が生存していた証拠など、いままでのように不用意に口に出せば、一つずつ潰されてしまう可能性が大きい。

 取調官に話す前に弁護士に頼んで確実な証拠保全をしておくことが重要ではないかと考えた私は、とにかく次回の弁護士との面会の時に相談してみよう、それまでは刑事には話さない方がよかろうと決心した。

 しかし、弁護士との面会の機会はなかなかやってこないままに、取調官の私に対する不毛の追及は続いていた。

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