上申書・48 大宰府の河原

    大宰府の河原

 ところで、このときに私が大宰府裏山の河原として地図上で特定して佐々木検事に供述していた場所について説明せねばならない。

 この場所は私と佐藤とがドライブの途中で立ち寄ったところとは違う場所で、実際には5年前に変死体が発見されていた現場である。

 この重要な点で私は捜査当局を欺き、わざわざ裏付けのとりやすい場所を選んで、ここを佐藤と一緒に行った場所だとすり替えて作り話をしたのだ。

 ドライブの途中で立ち寄った場所については、初めて福岡を訪れて土地勘のなかった私は、ただ佐藤の指示するとおりに車を走らせていたので、実際に行った位置をこまかく特定できるほどには覚えていない。

 大宰府の遺跡らしきところから30分ほど走った距離にある筑紫野市内の砂利採石場のそばだったという記憶しか残っていない。

 この記憶の内容は7月下旬からの調べで、繰り返して説明していたし、84日には地形図面まで描いて提出している。場所を思い出すことは出来なかったが、この河原の地形だけは、佐藤に値踏みを頼まれたこともあって、はっきりと印象に残っていたのだ。

 しかし白石主任が言うには、84日に私が描いた地形図面を元にして大宰府周辺を調査したが、似たような場所を発見できなかったというのだから、今更同じような説明をしても、再調査の結果は同じことにしかならない。

 現地の再調査で絶対に裏づけをしてもらわねばならぬと追い詰められていた私は、警察なら必ずやたどり着くに違いない場所を指し示した。84日に提出した地形図の場所とは違う場所を、佐藤と一緒に行った場所だと欺いたのである。

 新たに示した位置は、5年前に死体が発見されて騒がれた場所なのだから、現地警察に問い合わせればかならず判明するはずだ。

 本当は私のアリバイなどとは無関係な場所なのだが、それでもこんな特殊な事件現場を特定できたというだけで、少なくとも、私の福岡における行動説明が根も葉もない作り話などではない、という程度の心証作りには役に立つ。

 この辺死体発見現場については、私が福岡のアリバイを主張していた84日ころにはまだ思い出していなかったが、その後、自分自身の5年前の行動をすべて思い出そうと努力するうちに、徐々にはっきりとした記憶が蘇ってきたのだった。

 佐藤からは、九州の嬉野温泉に居る愛人宅まで同行して欲しいと頼まれて私は福岡まで出かけて行ったのであったが、佐藤が私を福岡に呼んだ本当の理由は、自分がこれから取得してみようと考えている土地の値踏みをさせようとしたのだ。

 正直にこの目的を私に告げたのでは、多忙な私に断られることが分かっていたので、ウソの口実を設けて、人情論に弱い私に九州行きを承知させたのである。

 何の予告も無しに佐藤が案内して私を連れて行ったその土地というのは、大宰府近くの筑紫野市内にある河原のそばに位置していた。

 私は佐藤の指示するとおりに車を運転していたが、嬉野温泉の高田笑子宅に向かっているものとばかり考えていたので、突然にこのような土地の価格を査定してくれと頼まれて腹が立った。佐藤が騙して私を福岡まで呼んだ事が分かったからである。

 土地の値段などは、地元の事情も知らぬものが、下調べもせずに判断できるはずもない。私は詳しく土地の状態を観察もせず、自分には評価できない、とこの場で佐藤に伝えている。

 この大宰府の河原に関しては、このように値踏みという、はっきりとした目的を持って佐藤に連れて行かれたのだが、私は捜査段階ではこのことをすっかり忘れていて、単に、佐藤と大宰府周辺をドライブした途中で立ち寄った場所としての記憶しか残っていなかった。

 私が84日の調べで刑事に示した略図は、このときに佐藤に見せられた土地の概観を描いたものである。

 佐藤がこの土地を購入しようとしていたのか、あるいはこの土地を担保にして融資しようとしていたのかについては定かに記憶していないが、私の値踏みを待つまでもなく、佐藤はこの土地をすっかり気に入っているようで、将来は大宰府に永住するのも面白いじゃないかと一人ではしゃいで居た。

 この土地に関する取引の話がまだ残っているようで、佐藤はしきりにもう一泊して明日も付き合って欲しいと私に頼んでいたが、私はこれを断って東京に戻ってきたのである。

 その後、数日たってから佐藤も東京へ帰って来たが、直ぐに今度は二人の台湾女性を連れて再び福岡へ出発した。それっきり4ヶ月ほど、佐藤は私に何の連絡も寄こさなくなってしまったのである。

 佐藤と約束していた共同事業の前提となるのは、税金を払わずに佐藤名義の資産を換金することだったから、佐藤が現れぬからといって、この仕事を放っておくわけにはいかない。

 次々と処理していかねばならぬことが山積みしているのに、佐藤が連絡をくれないのが私には不満だったし、仕事上の必要もあって、私は佐藤を探し始めた。

 彼の立ち回りそうな旅館などは片端から電話をかけて消息を尋ねたが見つからない。

 そのような佐藤の行き先の心当たりの一つとして、大宰府の河原の土地所有者が居たが、私は名前も住所も聞いてなかったので、気にはなったが確認の手立てがなかった。

 そもそも従来から放浪癖のある佐藤は、理由もなくフラリと出て行ったきり、数週間も所在不明になることはママあったし、このころは二人の台湾女性を気に入って常に連れ歩き、このまま台湾へ行って住み着くのが物価が安くて良いんだ、などとも言っていたので、佐藤と連絡が取れなくとも私にとっては特に不審なことではなかった。

 佐藤と連絡がつかなくなって一ヶ月くらいたった8月末に、、北九州が集中豪雨に見舞われて太宰府周辺で何人も死者が出た、というニュースを見た。このことで急に、佐藤が入手しようとしていた大宰府の河原の土地のことを思い出す。

 この土地が山の傾斜地だったことや、川に面していたことなどから、この豪雨で大水が出たなどという被害にあわなかったかと気になったのだ。

 そして、ここに永住するなどと言っていた佐藤の行方と結び付けて、九州の報道を見ているうちに、数日前に筑紫野市内で何か気になる事件があったようなことをを突然に思い出した。

 それがどんな事件だったのかと気がかりになって、手元にあった新聞の山の中から日付を遡って紙面を追ってみたが、何も見つからない。

 たまたま手近かに「マスコミ紳士録」という名簿があったので、それを繰って福岡に本社のある西日本新聞社に直接電話をかけて尋ねて見た。

 そして、私の気になっていた記事は、筑紫野市内の山中で変死体が発見されて、今もって身元が判明していないという半月前のニュースだと知る。

 新聞社からは直ぐに、この記事の掲載紙が送られてきたが、このときにはこれ以上には興味も湧かずに、私は新聞をそのまま机の中にしまいこんでしまった。

 その後、さらに一ヶ月ほど経過しても佐藤とは依然として音信普通だったので、こうなると私も本当に心配になってくる。

 佐藤がずっと不在のままなので、未処理のまま放ってあった資産も、一刻も早く防御策を講じなければ、取り返しのつかぬという瀬戸際まで来ている。

 税務署からは問い合わせの連絡が頻繁になるし、銀座の店舗の家主からは、立ち退きを求める通告書が送付されてきていた。

 渋谷宇田川ビルの地主との調停でも最終的な確答が求められていて、もはや延期できぬところまで来ていた。

 そして、渋谷の私の不動産事務所も、倒産させた後の閉鎖が9月末と定めてあったのだが、そのあとで佐藤との共同事業体の事務所をどこに設置するかを決定しなければならない。

 私は再び佐藤の行方を必死で探してみたが、どうしてもその所在がつかめない。

 やむなく私は独断で佐藤の資産を税務署などから防御する行動をとらざるを得なくなった。

 税務署の公売手続きに備えて自宅に仮登記を設定したり、占有を開始したこと、銀座の立ち退きを阻止するために新たにスナックをオープンしたこっと、宇田川ビルの地主からの本訴に備えて、キャピタル興行で賃借権を設定したり、23階の空き部屋部分を占有したりしたことがこれである。

 そして9月末になって、渋谷の事務所を閉鎖するために整理をしているときに、机の中に入れっ放しになっていた西日本新聞を見つけた。

 改めて記事を読み直してみると、813日に発見されたという変死体が佐藤に似ているような気がしないでもない。

 考えてみれば福岡へ行ったままで連絡が絶えているのだし、死後推定期間も一致している。それに、佐藤の立ち回りそうな行き先の心当たりはほとんど尋ねたのだが、その中で唯一残ったのがこの筑紫野市の河原だった。

 自分の裁量だけで佐藤の資産を保全するための行動に着手しつつあった私は、その行為の正当性を主張できるための建前も整えておいたほうがよいと考えて、こうなれば心配しているだけでなく、いっそのこと大宰府の佐藤が入手しようとしていた河原の土地まで行って見ようと思った。

 私の財産処分行為が独断だと非難されぬためにも、佐藤の行方はすべて捜し尽くしておくに越したことは無い。

 たとえ無駄足を踏むことになるとしても、わざわざ九州まで消息を尋ねて行ったんだということで、佐藤に恩を売ることが出来る。

 時々、病気がぶり返してわけの分からないことを言い始める佐藤に対しては、このくらいの用心をしておいたほうが良いのだ。

 9月末の急に思い立って私が九州へ行った目的は、第一には、大宰府の河原の土地を佐藤が入手したのかどうかを地主に会って確認したかったことであり、ついでに、近くで発見されたという変死体と佐藤とが関係あるのかどうかを確かめることだった。

 午前中にふと思いついて、渋谷の事務所を出発して福岡空港へ向かう。

 空港からはタクシーに乗って、この事件の捜査本部のある筑紫野警察署へ行ってくれと頼んだ。しかし車の中で、気さくな運転手と、西日本新聞を示して変死体発見の報道についての雑談を交わしているうちに、なんだか余計なことを軽はずみにするような予感に襲われた。

 白骨状態で発見されたというのだから、私などが顔を出しても身元確認の用は足せない。佐藤の身体的特徴など、この私には何も知らないのだ。

 どうも面倒なことに巻き込まれる恐れが多いな、と嫌な気がして、警察に立ち寄る気持ちは失せてしまった。

 町外れに立つ、いかにも小都市の地方警察というイメージの建物の前まで行ったのだが、結局は中に入って変死体の身元を確認することは断念した。

 変死体の発見場所も、ここからわずか10分ほどだと運転手が言うし、私も佐藤に連れられてやってきた河原の土地が発見したかったので、とりあえず、山沿いの道を走ってくれるようにと頼む。

 西日本新聞に載っていた地図に従ってタクシーが連れて行ってくれた現場というのは、佐藤の入手しようとしていた場所とは全く違っていた。

 やはり変死体と佐藤とは無関係だった、と私は安堵する。 

 こうなればこの場所は私には全く興味のないところなので、わざわざ探して連れてきてくれた運転手に敬意を表して一応下車してみたものの、、一見しただけで立ち去ってしまった。現場の印象などで記憶に残ったものは何もない。

 その後はタクシーで町の中心から離れて、山沿いの道を走ってもらいながら、砂利採取している河原の場所を探したが、佐藤と2ヶ月前に来たときに見覚えのある風景にもぶつからない。

 やはり、住所も分からずにあてずっぽうに探すのは無駄だったかと、ほどほどで諦めて空港へ戻る。この日の夕方には私は渋谷の事務所へ帰り着いていた。

 他人から見ればわざわざ福岡まで行って手間隙かけ、何をやっているのかと思われても、私としてみれば、無駄足を踏んで佐藤の行方を捜したという事実にこそ意味があったのだから、この日の福岡行きは十分その目的を果たしたことになる。

 私が福岡から戻ってきた直後の101日に、佐藤の取引銀行から、当座預金残高が不足しているので入金してくれ、との通知があったので、私は佐藤が小切手を使用しているのだろうと考えた。

 あわてて住友銀行田園調布支店に現金の入金手続きをしながら「全く、こっちの心配してることも知らずに佐藤さんは呑気に相変わらずの浪費をしているのか」と我ながらおかしくなった。これまでも当座預金の残高が足りないという通知が銀行からあって、私が立替入金したことが何度かあったのである。

 また丁度このころ、佐藤の愛人だと称して山本真理子という女性が九州から私を訪ねてやってきて、私から300万円を貰うようにと佐藤から指示されてきた、と言った。

 これまでも佐藤は女性との金銭トラブルを私に押し付けて逃げたことがあったので、今度も私に後始末をさせる気なのだな、と苦笑してしまう。

 私は300万円という金額が多すぎるので分割で支払うことにして、一回に数十万円ずつ渡しながら、佐藤の現れるのを待つことにした。

 いずれにしろ、このように佐藤が行動していることが分かったので、私の脳裏からは筑紫野の変死体の存在のことなどはすっかりと消え去ってしまった。

 この事件で逮捕され、梅村検事から佐藤の死体を偶然に知ったことはありえないか、と問われるまで、一度も思い出すことはなかったのだ。

 「佐藤とのドライブ途中で立ち寄った河原などは、大宰府の近辺では見つからなかった」と取調官から聞かされたのちには、私はこの場所を5年前に変死体の発見された場所、すなわち西日本新聞に詳しい地図入りで載っていた位置にすり替えて説明を始めたのである。

 ほぼ一ヶ月に渡る取調べのたびに、私と佐藤との福岡での行動の裏づけ調査をして欲しいと頼み続け、それを当局からはねつけられてきた私にとって見れば、今度こそはどんな方便を使ってでも当局の目を福岡に向けなければならない。

 そのためには丁度、時期といい、場所といい、今までの私の弁明と少しも矛盾しないこの辺死体発見場所を利用することは最高の条件だった。この場所ならば、電話で現地警察に問い合わせるだけで判明するだろう。

 このときの変死体についてはすでに佐藤ではないと刑事から聞かされていたから、私のアリバイ供述にこの事件を利用しても、何の危険もないはずだ。

 5年前の724日には佐藤が福岡に泊まっていたことが客観的に証明されさえすれば、これまで当局が描いてきた佐藤殺害のシナリオは根本から崩れてしまう。そうなってから、大宰府の河原で佐藤が転んだなどという話は、当局を誘導するための作り話だったといって、私が尻を捲くってしまっても後の祭りに違いない。

 首尾よく私の福岡での裏づけが取れた後で、「なぜ無関係な場所を指し示したのか?」と問われても「私もこの死体がもしや佐藤さんではないかと考えて、わざわざこの現地まで見に行ったことがあったんですよ」と応えて笑い話にすることが出来よう。

 かえって、他人の死体を佐藤だと勘違いしそうになったことなど、私が佐藤殺害の真犯人ではないことの状況証拠にもなるのではないか、これが私の考えだった。

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