上申書・52 親友の訴え

    親友の訴え

 留置場にいる私に送達されてきた2通目の訴状は、学生時代の同級生で、20年以上親友づきあいをしてきたTという男からだった。

 4年前に私が家を新築して所有してきた春日部に所在する土地は、5年前に彼から買い受けたものだったが、訴状の内容は「自分の知らぬうちに勝手に占有しているのだから、直ちに家を取り壊して土地を返却しろ」という内容で、布告の欄には私の名前と並んで、居住していた私の母の名が併記してあった。

 5年前にTが売却したいといってきたときの希望値が相場よりも高かったので、当面必要な若干の金を手付金として払いさえすれば残代金はゆっくりでよい、ただし残代金が完済されるまでは、土地の名義を移転しないという約束で私が買い取ったのである。

 当時の彼は、家族に内緒で個人的な借金を返済する必要があって、この手付金は妻に判らぬように裏金でほしいという希望だったので、私は一部を現金で手渡したり、彼の指定する大和銀行梅田支店に振り込んで支払っている。 

 これまで途中で一度、残代金を完済する機会もあったのだが、このときは彼の転々と移動した住民票がつながらなくなって、書類が不備となり、所有権移転登記ができずにそのままになっていた。

 私としても、できるだけ代金の支払いを先に延ばすほうが有利だったし、親友との間柄だから、土地の登記名義についての不都合は何もなかった。

 Tにしても、私が土地の残代金を支払っていないという強みもあって、私が経営していた銀座の3店舗のスナックにほとんどフリーパスで出入りできたし、この意味では持ちつ持たれつだったのだ。

 もちろんこの土地に家を建てるということは、彼の承諾をもらって行ったことだし、その後の土地代金の支払い方法についても相談がまとまりつつあった。私が逮捕された、まさにその日に、残代金の一部を支払うつもりで彼と時間の約束をしていて、私は600万円の現金を用意していた。

 そして残金の1000万円についても、富士銀行渋谷支店に住宅ローン借り入れの申し込みをしていたのだ。

 いまさら、自分の土地に勝手に家を建てたなどと言って責められるいわれはない。

 しかしまさか、親友に裏切られるということなど夢にも思わなかった私は、売買契約書も取り交わしていなかったのだし、裏金として手渡した手付金の領収書も所持していないという事実の前では、私がどのように弁解しようと、とても捜査官を納得させられるはずもない。

 取り調べ刑事のいうことには、私の逮捕報道がマスコミを賑わしたすぐ後で、Tが直接に警視庁に出頭してきて、春日部にある自分の土地を折山に騙し取られたと、被害を訴えたのだという。

 事件報道直後に、私を陥れるためのいろいろな密告や匿名投書が警視庁に集中した中のひとつだった。

 当局はTのこの情報に小躍りして、この後しばらくは私を不動産を奪った容疑で厳しく追求している。

 田園調布の家をのっとった容疑で逮捕しているのだから、さらに別事件で、同種の不動産乗っ取りの被害が訴えられているという状況、当局にとってはきわめて有利だと考えたのだろう。

 T から送達を受けた訴状は、すぐに弁護人に渡したのだが、松原弁護士の意見では

「今は刑事事件がこれ以上広がらぬように防ぐことが大切だ。言い分があることは判るが、これを警察に利用されぬように一刻も早く和解することを勧める」というのである。

 このままにしておいては当局に新たな別件逮捕の口実を与えることになりのではないかと恐れた弁護士の助言に従い、全面的にTの言い分を認める形で和解することしか、このときの私にはとる道がなくなっていた。

 67歳になっていた私の母は、静かに余生を過ごすべき我が家であるとばかり信じ込んでいたところへ、生まれて初めて、被告という欄に名前を記されて訴状が送達され、裁判所からやってきた執行官が仮処分票を貼っていったのである。

 何の事情も知らずに、法律の知識もない彼女にとっては、これは犯罪者の烙印を押されたのと同じことだったに違いない。

 私が逮捕されたことで動揺している上への更なる追い討ちだった。

 新築の家の土台の下に佐藤の死体を埋めたのではないかと疑われ、そしてこの訴状と仮処分によって精神的に叩きのめされた彼女には、もはやこの家に住み続ける気力は失われた。

 幸い私の妹夫婦の家へ居候として厄介になることが決まったのだが、今後の自分の立場を考えると愛犬まで連れて行くわけにはいかない。一人で身の回りを整理して立ち退いていったというさびしい母の後姿が想像できるので、この話を弁護士から聞いたときには、私は留置場で泣いた。

 母はその後、失意のままで病死したということである。晩年になってから我が家を失うということは、まさに生きる希望を断ち切られることだった。

 私は今になっても、友人の利己的で理不尽な請求によって、私だけでなく、母までが破滅させられたことが無念でならない。

 私が20数年来の親友だと信じきっていた者ですら、、このように当局にうまく操られて私を追い詰める役割を果たしたのである。

 Tからの訴状が届いたのは9月上旬のことだったが、この時期は佐藤の死体が私の図示した場所で発見されていたことが取調官から伝えられた後で、ただでさえ私は絶望的に落ち込んでいた。

 留置場の金網越しに彼の訴状が示された日からは、私の精神的な落ち込みは一層ひどくなって、佐々木検事が私の変わりようを心配したほどである。

 私の人間不信は極度に高まり、私自身の置かれている立場が、考えているよりずっと悲惨であることを思い知らされていた。

 当局が私の親友まで動員して、私を孤立化しようという企みは、見事に功を奏したことになる。

 3通目の訴状は私には何の覚えもない、見知らぬ相手からのものである。

 今では何を訴えられたのかの記憶も残っていないほどの些細な事柄なのだが、内容は、私に損害を受けたので、100万円を支払え、というようなものだった。

 私の事件報道の後には当局の目論見どおりに、実に多くの私に対する中傷やら悪口の情報がもたらされている。

 その中から取調官が本気で私を追及しかけた事項もあったが、結局はその大半は単なる嫌がらせであって、根も葉もない作り話の類だ。

 この3通目の訴状も、この種の悪意に満ちた、私に対する嫌がらせだった。

 これほどの重大事件で逮捕されたとなれば、少なくとも数年単位で相当期間は、私が社会復帰できないことは、目ざといものならすぐに想像がつく。しかも監獄に囚われているものに対してなら、どんな無理難題を吹きかけても直接に反論される恐れがない。これを承知した上での私に対する言いがかりの訴えだった。

 しかしたとえ真実に基づかぬ訴えであったとしても、これに対して反論する手段を奪われている私が負ける、というのがわが国の裁判制度である。

 このように謂れのない理不尽な訴えにもかかわらず、私はなすがままに蹂躙されてゆくしかないのだ。

 もう1通の訴状は、信販会社から支払いの滞った私のクレジット代金を請求するものだった。 

 私の身柄を拘束して外の世界との交流を全て絶ってしまえば、いずれこのような事態に陥ることは明らかである。

 強権を用いて私を突然隔離することで、私の社会的信用を崩壊させ、債権者に法外な遅延損害金を請求させることは、私を窮地に追い込むための有効な手段になることを、当局は十分に計算していたに違いない。

 留置場では一切の読み書きが禁止されていたし、長期の接見禁止処分が付されているので、面会はおろか、手紙で交流することも許されない。

 他人から何を請求されようとも、弁明の機会を与えられずに、無条件で相手の言い分に従うしかないという屈辱を強いられていた。

 このほかにも私は、逮捕された時点で3件の民事訴訟が係属していたのだし、ほかに執行手続き中の事件は10件以上に上る。

 135日間の代用監獄生活で何の対抗手段もとれぬままに、これらの法的手続きの全てが私の一方的な敗訴ということで片付けられていったのだ。

 

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