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上申書・59 9月1日の取調べ

    9月1日の取調べ

 検察庁から戻ってくると、私の覚悟はいっそう確固としたものになっていて、かえって清清しい気分になっていた。

 もはや佐藤殺害の容疑に関しても、捜査当局を誘導したり、取調官と対決してみたりする必要などない。

 自殺を覚悟した以上は、小細工を弄したり、無理して真相解明のために捜査官を説得する努力も無駄なのだ。

 午後から開始された刑事たちの取調べに臨んで、太宰府の河原での佐藤殺害はおろか、ホテルから死体を運び出した事実もないと、今までの私の供述の一切合財を否定してしまった。

 これまでの3日間とはうって変わって、私が何もかもすべてを否認したことに刑事たちは呆れ顔である。

 それならなぜ、佐藤の死体があった場所を指し示すことが出来たのか?と論理的に追求されても、私は事実をありのままに述べるだけで、今までのように不自然さを取り繕うための弁解をすることを止めた。

 5年前の新聞にあれだけ詳しい地図つきで報道されていたのだから、変死体の発見場所を知った人は、100万人の単位で存在するはず。

 私が知っていることだって、全くその可能性がないわけじゃない。

 もとはといえば、この変死体は佐藤ではないと刑事から聞かされていたからこそ、それを前提にして、捜査の目を真実に向けさせるための作り話をしてきたのだから、この太宰府の河原を説明するに当たって、変死体が佐藤本人であろうとは、私は夢にも思っていなかった。

 太宰府の河原で佐藤と別れた、怪我をしていたからもしかするとここで死んだかもしれない、とまでは取調官の気を引く作り話をしたが、ここに佐藤の遺体を遺棄した、などといって地図を示したわけではない。

 私の記した丸印の場所から、佐藤をはじめ他に2体もの死体が発見されていたと聞いて驚いたのは、むしろ私自身だった。

 5年前の西日本新聞の記事で変死体の存在とその発見場所の知識を得て、後日、その場所を訪ねたことがあるのだと、真実をありのままに述べた。

 もちろん今までの事態の展開から行っても、こんな私の弁明を取調官が信じるはずも無いことは承知している。

 しかしいまや私は、取調官に信じてもらおうとして語っているわけではない。

 私が抗議の自殺を遂げた後で、そういえば折山はこういう弁解をしていたな、ということを思い出してもらえばそれで良いのだから、刑事たちから何を言われようとも、淡々と話すことができた。

 余談になるが、このときの刑事とのやり取りの中で、新聞の報道があっただけで死体の現場を詳しく分かるはずはない、との白石主任の問いに対して、私は次のように答えている。

 「新聞には詳しい地図が掲載されていたから、事件に興味のあるものなら誰でも現場にたどり着けたのだ。

 現に、私と同じ第4留置場にいる志津田という同僚も、5年前のこの変死体が宝満山の中腹から発見されたことを知っていた。

 変死体の発見現場を知っている者など、数え切れないほど居る。」

 志津田氏は日教組襲撃事件で逮捕されていた右翼の人物だが、たまたま太宰府が地元だったことも逢って、5年前のこの変死体発見のニュースを覚えていたのである。

 前日(31日)の朝、留置場内の雑談で私が新聞記事を頼りに現場へ行ったことを話しているときに、彼の方から、自分もその事件のことは覚えている、と声を掛けてくれた。この事実を引いて、5年前の変死体の発見場所を知っていることは秘密の暴露ではない、と反論したのだ。

 その後まもなく、志津田氏は第3留置場へ転房になってしまって、私の前から姿を消す。

 取調官の指示であることが見え透いていたので、自分の軽はずみなおしゃべりのせいで、彼に迷惑をかけたなと、しばらくは心を痛めていた。

 そんなある日、たまたま入浴が一緒になったことがあったが、そのときに彼は

「8月31日朝の俺の言動について事情が聞きたいといって、佐々木検事から呼び出しを受けたが、俺は奴らと取引するのは性に合わんから、供述を拒否して帰ってきてしまったからな」と豪快に笑っていた。

 この日の夜の調べは佐々木検事の担当だった。 

 昼間、刑事たちに説明したとおりに、検事に対しても私は淡々と、佐藤殺害には何の関係もない、死体をホテルから運び出したことも無いと、すべてを否認する。

 午前中の検察庁の調べでは、ポロポロと涙を落としっ放しだった私の態度からして、今夜はもしや前面自白でもするのかと期待してやって来ただろう検事は、私のあまりにも全面的な犯行否認に怒り出してしまった。

 もともと佐々木検事は、権力を露骨に示しながら私に屈辱感を植えつけることで自分の取調べのポーズを保つのがスタイルだったから、この夜も私に対してヒステリックに罵り始める。

 否認するのなら検察庁の総力を上げて、私を二度と社会復帰できないように仕向けて見せる、すでに自白調書もあるのだし、犯行の立証は十分だ、河原で佐藤を殺したことは間違いない、と強調する。

 検事があまりにもはっきりと河原での殺害だけが真実で、他はすべて作り話だと決め付けてくるものだから、私も少し感情的になって、河原での殺害をムキになって否定してしまった。

 そして、8月29日付の自白調書の作成経過を説明して、これが如何に真実を表現していないものであるかを力説する。

 死を決意した今更、取調官と激しく言い争う必要などなかったはずなのに、いつものように検事は執拗に私を挑発してくるものだから、ハット気付くといつの間にか本気になって検事に反論してしまう。

 佐々木検事の取調べというのは、刑事の調べに比べると普段から一本調子で、まるで子供のように自分の予断を押し付けるばかり。およそ私との対話が成立しない、程度の低いものだったが、この夜は特に、検察官という権力をひけらかした、勝手な決め付けが多かった。

 こんな検事の言動に反発しているうちに、私の心の中にムラムラと反抗心が湧いて、もう一度この検事を利用して捜査当局と駆け引きをしてみようかという気持ちを生じさせてしまったのである。

 29、30日の刑事の調べで、私があれほど熱心にホテルの裏付けを取って欲しいと頼んだのに、今日になっても何の反応もない。

 福岡市内にいくつのホテルがあるのか知らぬが、警察が本気になって調べれば、私の言ったホテルを突き止めることなど一日で終わるだろうから、結局は、警察はホテルの捜索などする気がないのだろう。

 福岡の再捜査のときと同じように、検察にやる気を持たせない限り、警察に真相解明をさせるのが難しい。だから佐々木検事に、このホテルに興味を持ってもらわぬ限りは、福岡で佐藤とかかわった女性の正体を突き止めることが出来ない。

 そこで私は、もう一度検事の目を真実に向けさせるために誘導してみようと考えてしまったのだ。

 太宰府の河原での犯行を強硬に否定すると共に、ホテルで死んでいた佐藤の死体を運び出して、この山中に遺棄したのだと説明してみた。

 先日、刑事に説明した作り話を繰り返したのだが、すでに刑事は、この私の説明は詳しく知っているようなので細部は省略して、要点のみの話にする。

 「しかしね、ホテルに行ったら佐藤さんが死んでいました、なんていう馬鹿げた話を私に信じさせようとしても無理だよ。

 こんな不自然な話の裏取りに福岡まで行けないね」

 佐々木検事のこの言葉に、私はなおも食い下がってみる。

 「死んでいたという話が不自然だというのなら、いっそこの客室で私が殺したことにすれば良いじゃないですか。

 凶器なら、部屋には花瓶とか、何かがあるでしょう。

 河原で石で殴ったなどという漠然とした筋書きよりは、はるかに具体的で現実的な話になる。

 どうせ殺人で起訴することは決定してるというのならば、いっそのこと、このホテルを殺害現場だということでやって欲しい。」

 私は熱心に検事を説得した。

 うまくいけばホテルの裏付け調査だけでもやってみようか、という気になってくれるかもしれない。

 そして、謎の女性の身元が判明して、佐藤殺しの真相解明が出来る。

 仮に、佐藤の福岡での行動が明らかにならなかったとしても、犯行現場がホテルだったということになれば、私の精神的重圧感の原因となっていた29日付の自白調書の証拠価値が全くなくなるのだ。

 「それじゃぁ、君はそのホテルで佐藤を殺害したことを認めるのか?」

 検事が最後にこう尋ねたが、これに対して私は明確に否定した。

 「私が犯行否認したままでも起訴すると検事さんが言うから、それならばホテル現場のシナリオのほうが現実的だというだけのことで、実際には河原でもホテルでも、私は佐藤殺しには一切無関係です」

 私がこのように断言してしまったので、私のホテルの話も、検事はこれ以上は取り合わなくなってしまった。

 私の犯行否認の姿勢は固く、何とか河原で殺害したことを認めさせようとする検事の挑発にも乗らなかったので、この夜の佐藤殺害関係の調べは1時間足らずで終わってしまう。

 あとは、午前中に送検された3度目の別件逮捕容疑についての供述書作成が始まった。

 こちらのほうは、死まで決意している私にとっては、今更、検事と対立して騒ぐほど重要なことではないと考えているものだから、検事の作文が真実を書いてないことを知っていたが、素直にそれに従うことにして、言われるとおりに署名してしまった。

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