上申書・62 利益誘導

   取調技術⑬利益誘導

 「俺たちは佐藤の行方が判明して、一件落着になりさえすればそれでいいんで、なにも、どうしても殺人事件で立件しなくちゃならないということはない。

 どうせ5年間も埋まっている死体じゃあ、骨もボロボロだから、今から死因を判定することもできやしないんだ。

 どうだろう、佐藤が病死したとか、あるいは、過失の事故で死んだのを、お前さんが死体の始末をしただけってことで、話をまとめてやろうじゃないか。

 死体遺棄はとっくに時効になってるから、お前さんは何も責任をとらされることもない。

 死体のありかだけ教えてもらって一件落着とする気はないか」

 白石主任が、この事件を殺人事件として立件しないから、佐藤の死体を遺棄した事実だけでも認めろと、もちかけてきたのは、事件の解決が長引く気配が濃厚になった頃である。

 なんとかして死体を発見しようとあせるあまりに、私に取り引きを申し出たのだ。

 その後の捜査で、5年前の福岡県の変死体を、佐藤本人の死体だったと捜査当局は決めつけたのだが、その死体と私の犯行とを結びつける証拠もみつからず、私も犯行を否認しているので、膠着した取り調べに追いつめられた白石主任は、こう言った。

 9月初めのことである。

 「佐藤がすぐに暴力をふるう性格だったということも、精神病院に入ってたってことも、誰もが知っている。

 俺が思うに、きっと佐藤の方が理由もなく狂って殴りかかってきたんだろう。

 お前さんは、自分の身を守るつもりで手を振り回しているうちに、運悪くそれが佐藤の頭に当たって、当たりどころが悪くて死んだってあたりの話が誰しも納得のいく話だ。

 これなら交通事故と同じで、ただ運が悪かっただけのことだと、誰もお前さんを責めやしない。

 2人の息子だって理解してくれるし、お前さんの名誉も保たれるじゃないか。

 俺はこの事件の実態が傷害致死か過剰防衛だったということを信じるよ。

 お前さんも十分に頑張ったんだし、せめてこれだけでも認めて、この事件の幕引きにしようじゃないか」

 同じ頃佐々木検事も、私に対してこう言っていた。

 「誰も目撃者はいないし証拠もないんだから、この事件は君の供述しだいですべてが決まる。

 どうとでも言えるじゃないか。

 私は予断を捨てて君の言うことをすべて信じるし、そのとおりの調書を作成するだけだ。

 傷害致死なら長くても5年か7年で自由になれる。

 このまま君が否認していれば、私は殺人罪で起訴せざるを得ないが、裁判で争えば、悪くすれば極刑だってありえないわけじゃない。

 その上判決が確定するまでの年数だけでもそのぐらいはかかってしまい、その間君はずっと勾留されっぱなしだ。

 どっちが得かは明らかじゃないか。

 私が言ってるんだから間違いない。

 傷害致死ということで自白したらどうかね」

 過剰防衛なり傷害致死なりで話をまとめて、この事件に決着をつけるべきだ・・無実を主張して長い拘置所生活をしたりすれば地獄を見ることになる・・今なら傷を浅くすることができるのだから決断しろ、というのが白石主任刑事、佐々木検事の共通する説得だった。

 ただし、それには私が犯行を自白して謝罪することが不可欠の条件だという。

 その線での私の自白でも得られれば、捜査当局としても事件の全面解決という面子が保てる、と考えたのだろう。

 取調官は、この説得を何度も熱心に行ったが、彼らはこれを

 「殺人罪を見逃すから自白しろ」

などという露骨な利益誘導としてやろうとしていたわけではないような気がする。

 案外、事件の真相がこのとおりだと本音で考えていたのではなかろうか。

 私に佐藤を殺害しなければならない動機などないのだから、どうしたって殺人容疑で追及することは難しい。

 取調官の熱心な説得にもかかわらず、私が過失による殺害をも全面的に否認したために、立件する段階で見せしめのために殺人罪を適用したとしか考えられない。

 取調官の、傷害致死だけでも認めろという働きかけは、この後、殺人で起訴される前日まで何度となく繰り返された。

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