上申書・71 嘘つき検事、町田

   嘘つき検事、町田

 そんななかでも忘れられない屈辱感として、今もって私を悔しい思いにさせているのが、主任検事町田幸雄の取り調べである。

 この男は、さも自分が事実に立脚した正義の使徒であるかの如くに振る舞って私を欺し、その実は極めて巧妙に策略をめぐらせて、ありもしない私の犯行自白をでっち上げようとした。

 別件逮捕が3回続いたあとの4回目の逮捕がやっと本件の佐藤殺害容疑である。

 いよいよ本命の事件の取り調べが始まったが、この時には私は、すでに佐々木検事のトリックに引っかかったことや、警察の虚偽情報に踊らされていたことに気づいていたので、もはや取調官のどんな脅しや甘言に対しても惑わされることなく、当局のシナリオに妥協することも辻褄合わせをすることも止めていた。

 したがって、本件逮捕直後に否認調書が1通作成されただけで、あとの取り調べは何も進まない。

 勾留期限もあと1週間で切れるというころの夜になってから、突然に私は検察庁に連れていかれる。

 久しぶりに壁の中の密室から外へ出たというのに真っ暗で、風景が見えないのが残念だったが、風の匂いだけは判る。

 私は空気のうまさを思い出しながら、腹一杯外気を吸い込んだ。

 連れ込まれた部屋には、見知らぬ小太りの検事がいた。

「私は検察庁でこの事件の指揮をとっている主任検事の町田だ。

 勾留期限が迫っているので君の最終処分を決めるにあたって、直接に本人の主張を聞いてみようと考えて来て貰った。

 君が容疑を否認して、絶対に自分は佐藤さんを殺してないというのであれば、私の前でもう一度はっきりとそう言ってほしい。今日は何の先入観も持たずに君の話を聞くつもりでいる。

 君がどんなことを語っても私は素直に信じることにしているので、君の方も正直にすべてを話してほしい」

 町田は、自分だけは信頼に足る人間であると強調するかのように、ゆっくりと笑顔でこう言い始める。

 そして、自分の人生訓やら「三国志」から読みとるべき教訓などの雑談をしながら、私の心を開こうとした。

「自分は長く司法研修所の教官をしてきたから、今の地裁の判事クラスはみな教え子になる。

 私の判断に逆らえる判事などいない。

 私が起訴した事件については、法廷じゃ居眠りしていたって、私の論告文をそっくり丸写しして、求刑の二割引の判決を書いておけば、名判事といわれて出世することになっている。

 だから仮に私がこの事件を起訴すると決めれば、裁判所は黙って有罪にするだろう。

 即ち、今後の君の運命は、裁判など待つまでもなく、すべて今の瞬間の私の決心次第なのだ」

 町田は、私の処分をどう決定するかの権限は全面的に自分にあると言う。そして、仮に不起訴にしようとしたところで、今までに本件容疑に関しての供述調書が1通も作成されていないのでは、判断のしようがない。

 検察官も組織で動いているのだから、私の処分については上層部を納得させられるだけのたてまえも必要だから、どうしても供述調書を作成させてほしい、と頼んだのだ。

 それでも今までの経緯から、取調官というものに不信を抱いていて、調書の作成を渋っている私に対して町田は、

「自分は指揮官として物事を客観的に見る立場にあるのだから、ある方向を示されてその線で調書をまとめようとした今までの取調官とは違う」

と言い、今夜の君は、取り調べを誤解しているのだと言った。

「私は犯行を自白しろなどと言っているのではない。

 逆に犯行を否認している君の言い分をきちんと調書に記録しておいてやろうというのだ。

 君は堂々と否認すればいい。

 このままでは君の言い分は誰にも判断がつかなくなってしまう。

 君のためによかれと考えて作るのだから、これによって君が不利になるようなことはない。

 私に任せておいてほしい」

 私は、町田のこういう言葉と態度からみて、この事件を不起訴処分にして終結しようとしているのだなと感じてしまった。

佐々木検事からは、私が自白などしなくとも起訴できるのだと聞いていたから、いまここでわざわざ私の否認調書を成したいという意味は、起訴しない場合のたてまえを整えるということしか考えられない。

 多分、不起訴の線で庁内意見をまとめるために調書が必要なのだろう。

 このように私に思わせるほどに、町田の言動は紳士的だったし、誠実さをただよわせていた。

 私に恩を売るように、わざわざ私のために調書をつくってやるのだという町田の言い分が、あまりに巧妙だったために、私は、この男ならきっと自分を信じてくれるに違いない、無実を判ってくれるに違いないと思う。

 そして

「それではお任せします。みんなを納得させられるように作って下さい」

と頭まで下げてしまったのだ。

 この数日間は取

り調べ刑事とも佐々木検事とも全面的に対決姿勢をとってきていたのだが、この夜は町田という紳士的でものわかりのよさそうな人物に出会ったことで、緊張が一瞬緩んで、思わず真実を訴えてみたい衝動に駆られたのだった。

 しかし、人を陥れることを職業としている検察官などに、真実が伝わるはずなどなかったのだ。

 私はまたもこの町田に欺されてしまった。町田は私の主張など、初めから聞く気はなかった。

 否認調書を作成することを装って、実態は犯行自白であるような調書を作成してしまおうと企んだだけだった。

 初逮捕以来、今までの80数日間の勾留によっても佐藤殺害容疑についての検事調書が1通も作成されていないことに業を煮やして、もはや部下の佐々木などに任せてはおけないと考えて、巧妙な策をあんだのだろう。

 調書を作ることを私に承諾させさえすれば、こちらのものだという町田の腹の底にふさわしく、なるほどこのときに作られた調書は、一見すると私の否認調書であるように書かれている。

 しかしよく読むと、町田の狙いは私の犯行否認などにはなく、今までの80数日間の取り調べの過程で、私がどのようにして犯行を自白してきたかといった虚構が、あたかも私が実際に自白していたかのように記述されている。

 隠した本音を私に覚られないように巧妙なものの言い方をしているが、この調書は明らかに私を有罪として処断するための証拠として作成されたものだった。

 この夜の私には、町田のこの狙いが判らない。

 できあがった調書を読んでもらいながら、ちょっと違うんではないかなぁと考えて指摘しても、

「君が犯行を否認しているという点を中心にして調書をとったつもりだ。

 その真相はどうだったかという基本的な筋が違っているのならともかく、これまでに語ってきた君の作り話の部分で、その作り話の筋が多少ニュアンスが違っても、どうということはあるまい」

と言われてしまえば、それもそうだ、細部でめくじら立てない方がいいなと、承知してしまう。

 まさか町田の狙いが、この作り話の部分の表現方法にあろうとは気がつかなかった。

 例えば、「8月23日から24日にかけて佐藤さんの遺体のある場所を図にかいたり、地図に丸印を付けたりして説明しました」との記述がある。

 私は、このときは佐藤の死体があったことは知らなかったと指摘したが、

「しかし、結果として5年前の変死体は実は佐藤さんだったということが今では判っているのだから、この言い方は誤りではないだろう。

 君が図面をかく時点で、すでにこの変死体の身元を承知していた、などとは書いていないのだから」

と言われる。

「せっかくお前のために否認調書を作ってやっているのに、枝葉末節のことで文句を言うな」

という態度をされると、私にはあまり強く反論できなかった。

 この夜も結局は町田幸雄にはめられていたのだと私が知ったのは、公判が始まってから、この時に作成された供述調書が検察官側の有罪の証拠として提出されたことによる。

 それまでの私は、主任検事があれほど熱心に私の否認調書を作ってくれたのに、やはり組織としての決定は起訴しかなかったのかと思い、この町田の好意に感謝していたのだ。

 紳士然とした言動の裏にひそめていた、被疑者を引っかけてやろうという町田の腹黒さが見抜けなかった自分は、何というアホだったのかと我ながら情けない。

     次のページへ進む   上申書の目次へ戻る   ホームページのTOPへ戻る