上申書・74 時間割

19.留置場

   時間割

 朝6時、看守の「起床!」という号令とともに、居房内の夜間灯が明るく切り替わって、蛍光灯がつく。

 留置人たちはすばやく起き上がると、着衣を着けてから寝具を畳む。

 幼児用のように小さな敷布団の上に八つ折にした毛布を重ね、そこへ枕を置いてから、その全体を立て二つ折りにしたもう1枚の毛布で固く包んで真四角にする。

 このやり方は、逮捕2日目の朝に、3室の先輩囚人から教わった方法だった。

 寝具棚へ積み上げて収納するので、各人がきちんと四角になるように畳まないとうまく重ねられない。

 1室から6室までの各居房毎に、その日の順番に従って次々と扉を開けてもらい、各人が自分の寝具を抱えて行った、布団棚に順序良く積み重ねる。

 そして帰りに箒、ちり取りと雑巾とを持ってきて、居房内の掃除をするのだ。

 その間に手の開いたものから洗顔だった。

 6室だけは収容者が私だけしかいないので、掃いたり拭いたりとすべての掃除を一人でやらねばならず、朝のこの時間は結構忙しい。

 しかし留置場生活では、体を動かせるほとんど唯一の機会だから、こんな風に掃除を手際よくやることが快感に繋がる。私はいつも丁寧にやっていた。

 洗顔する留置人たちは、一般社会に居たら、朝の忙しい時間帯に果たしてこんなにユックリとした行動をするだろうか、と思うほどに丁寧に歯を磨き、顔を洗う。

 私も、狭い居房の中から少しでも長く外にでて、留置人同士が顔を見合すことの出来るわずかな自由を一刻でも延ばそうとして、どうしてもこのときの動作はユックリになっていた。

 看守台を中心に半円形に流しが設置されていて、そこに6個の蛇口が並んでいるので、同時に6人が洗顔することになる。

 そして、それを3人ほどの看守が監視していた。

 私は毎朝、洗顔と同時に上半身裸になって冷水摩擦をした。

 夏場でも5日に1度の入浴では体がべとついて仕方がないという理由もあったが、体に少しでも刺激を与えて、萎えてしまっている自分の気持ちを奮い立たせたかったのだ。

 それに慢性睡眠不足の体を目覚めさせる必要もあった。

 それから、前日の取調べで一日中握りしめていたために、汗で汚れたタオル地のハンカチを洗うのも、1日の内でこの時しかない。

 また、看守台の裏側には、各留置人別に衣類ロッカーが備え付けられていたが、自分でその場所へ行って下着を交換できるのも、この朝の洗顔の機会をはずすと他にはない。

 どうやら複数の看守が立ち会わない限り、囚人を房外へ出してはならぬというルールになっているようだ。

 流しを取り囲んだ留置人たちは、まるで井戸端会議でもしているかのように談笑しながら、つかの間の自由な交流を楽しむ。

 運動へも出されず、入浴も個別単独だった、逮捕初期のころの私にとっては、人間らしい会話が楽しめる唯一の機会だった。

 看守は危険のない限り、すべてを大目に見ようというつもりなのか、うるさく干渉しない。

 洗顔順の最後になった者が洗面所の周りを丁寧に拭き掃除して、合計30分間ほどの騒々しかった起床行動は終了するのだった。

 続いて朝の点呼が始まる。

 中央の看守台に向かって鉄格子の前に起立して立ち、自分の前に進んできた看守から番号を呼ばれたら、「はい!」と返事して右手を上げる。

 最後に全員で一斉に、「お早うございます!」と挨拶して点呼が終わった。

 すると待機していた係員が朝食を持って入ってくるのである。

 起床行動に立ち会う看守は全員が夜勤明けで疲れているため、留置人の朝食がすむと、後は8時半過ぎに日勤担当と交代するまでは、特に何の仕事もない空白の時間となり、看守台に座って居眠りしていることが多い。

 この日の刑事の取り調べもまだ始まらぬ早朝の時間帯では人の出入りもなく、留置場は一日のうちで最も静かなときなのだ。

 夕方のように壁越しに他の房へ話しかける囚人も少なく、皆が自分の房の仲間と静かな雑談を交わしている。その中で6室の私だけは、独房だったから、話相手もいない。

 筆記用具もない、読むものも無い、という状態では、私はただ、コンクリートの壁を見つめて、取りとめの無い空想にふけっている以外にはなかった。

 9時ごろ、この日の日勤看守が元気に登場してくることによって、初めて留置場が動き出す。

 先ず、大部分の留置人には本が配られた。

 各囚人は、外部からの差し入れを受けたり、あるいは担当の刑事に頼んで購入してもらった本を、房内で自由に読むことが出来る。

 午前9時から午後5時までの間であれば、手持ちの本を何度でも交換してもらって、読書することで時間を潰すことができた。

 しかし、読書が許されるのは、裁判所がこれを禁止したりしていない一般事件の被疑者や被告人の場合だけである。

 私のように事件を否認して争っている被告人に対しては、裁判所は見せしめのために接見禁止処分を解除しないので、家族や友人と面会したり、本や手紙などを読み書きすることの一切が禁止されている。

 窓もなく、外部情報をすべて遮断されたコンクリートの壁だけの狭い部屋の中に一人だけ隔離され、見聞きできるものが何もない状況を一日中続けていることが、想像できるだろうか。

 新聞も、テレビも、ラジオも本もない。

 メモを取る事も、他人と会話することも出来ない。

 時々、誰かのくしゃみが静寂を破ることがあっても、留置場の中は原則として無音の世界である。

 この状態で、なすこともなく、ただ座っていることは私には絶えがたかった。

 このようにすべての情報から遮断したままで、個室に放っておくことを「干す」トイウソウダガ、3日間も干されれば、たいていの者は精神的に参ってしまうだろう。

 すべての取調べが終わって起訴された後、この私でさえ、敵であるはずの刑事が連れ出しに来てくれることを待ち望んでいたほどだ。

 私は殺人で起訴された後もなお、45日間に渡り、このような精神的拷問下にある留置場生活を強いられ、隙を見ては、当局に妥協すること、犯行の自白をすることを要請され続けた。

 裁判所により、接見禁止処分が解除されたのは、拘置所に移監された後も含めて、400日も経たのちである。

 日勤の看守によって配本が終わると、次は自弁品の購入受付であった。

 週に一度はちり紙や石鹸などの日用品の購入が出来たし、休日以外は毎日の昼食を自由に注文することが出来る。

 メニューは限られていたが、カツ丼、カレーライス、ざるそば、幕の内弁当などの出前を受け付ける。

 この時間になると、取り調べのために留置場から連れ出される囚人も多くなって、人の出入りが激しい。

 そしてまもなく運動時間になった。

 警視庁には留置場が5ヵ所あったが、この当時使用されていたのは4ヵ所。

 この第4留置場までが順序に従って、各留置場ごとにまとまって、全員が一緒に運動場へ出される。

 晴天であれば東側にある広いほうの屋外運動場で朝日を浴びることが出来たし、雨天であれば、北側の屋根のある狭い運動場へ出る。

 いずれも周囲は目隠しされているので、景色を見通すことは出来なかったが、四六時中コンクリートの箱の中の人工照明だけで生活している囚人にとっては、自然光と、外気に触れる唯一の機会だ。

 運動場へ出ると誰もが顔に精気を甦らせ、目を細めて嬉しそうに狭い空を見上げる。

 太陽の高さを確かめて、時の経過を実感することが出来る。時間と空間の感覚を取り戻すことが出来る。

 留置人にとっては一日のうちでこの運動時間こそが最も待ち遠しいときだった。

 例えば5室に収容されていた山口組のHY会長などは、普段は刑事たちの特別待遇で、取調室で自由に振舞っていたにも拘らず、運動時間に外の空気に触れることを殊のほか楽しみにしている。

 そろそろ運動時間が始まろうとするころに面会者があろうものなら、それがわざわざ大阪からやって来た者であろうと「全く気が効かん奴だ。いいから運動が終わるまで待たして置いてください」といって、1時間でも平気で待たせてしまうほどだ。

 運動場は留置場に隣接して設置されていて、歩いてもほんの数十歩の距離だったが、第4留置場の囚人たち10数名は、各々の居房前で手錠をかけられた上、1本のロープに全員が数珠つなぎにされて、一列になって進んでゆく。

 5、6人の看守に監視された運動場内に入ってから始めて解き放たれる。天井まで鉄格子で囲まれた空間だったが、その後はこの中で走ろうが踊ろうが、勝手に体を動かすことが許された。

 普通は最古参の副島房長の号令に合わせて、カセットテープの音楽でラジオ体操をする。

 運動のはじめと終わりに1本ずつタバコを吸ってもよいことになっていた。

 自然の大気の中に吐き出す煙のなんと気持ちの良いことか。ニコチン中毒の私にとっては、なんともいえぬ嬉しい瞬間である。

 床に置かれた石油缶の吸殻入れを囲んで、囚人たちの雑談も弾む。

 この運動の時間を使って、充電式の髭剃り器と爪切りを借りることができた。

 ひげを剃りながらタバコを吸って、仲間と雑談を交わすとあっという間に15分が経ってしまい、運動時間が終わる。

 囚人たちは再び手錠を嵌められ、1本のロープにつながれて、留置場へ連れ戻される。

 運動が終われば他に午前中の予定は何もない。12時に昼食が配られるまでは、留置人たちは再び読書の世界に戻って、静かな時を過ごすことになる。

 でも私には読書が許されてない。ひざを抱え、壁に寄りかかった姿勢で、無為な時間を送るしかないのだ。

 午後1時が自弁の時間だった。

 朝のうちに出前の弁当を注文した者は一斉に居房から出してもらって、風呂場の隣にある食堂へ集められる。

 共犯関係にない者は、留置場が混じって7、8名ずつ同時に出される。2列のベンチに並んで座るので、時には第2、第3留置場の囚人と、同席することもある。

 とっくに冷めてしまった弁当だからとてもうまいとは言えないが、それでも留置場の食事があまりにも貧弱なので、それから比べれば大御馳走である。

 弁当を申し込んだ者は、昼食のパンの大半を食い残して、空腹のまま、自弁時間の来るのを楽しみに待っていた。

 留置場の食事は、あくまでも短期間収容の目的を持っている代用監獄の限界で、このメニューだけでは健康を維持できない。

 カロリーだけは充たされるのだけど、ビタミンなど他の栄養素が不足して、2、3ヶ月も経つと体調がおかしくなってくる。

 長期間の勾留を強いられ、取調官との闘いが続く者は、自弁によって足りない栄養を補給して自己管理していなくては、生理的にも敗北させられてしまう。

 私と同時期に収容されていた投資ジャーナル事件のN滋樹会長は、決まって生野菜弁当を頼んでいた。

 毎日、レタスとキャベツを食べ続けて、他の囚人たちからよく飽きないねと冷やかされていたが、これは何も彼の好みの問題だけだったのではなく、長期勾留にも屈しないための健康維持策だったのだろう。

 私も殺人で起訴された後に、独房で干されていた間、やっと自弁を頼むことができるようになったが、このときに注文するのはN氏に習って生野菜弁当350円に決めていた。

 自弁から戻ってくるとまた静かな時間が訪れて、囚人たちは読書に没頭し、私はイライラしながら壁の傷を眺めて過ごす。

時折、留置管理課の係長やら管理官といった責任者の巡回があるが、このときは扉の覗き穴から確認した看守が「巡視!」と大きな声で叫ぶので直ぐ分かる。

 留置人たちは読書の本を脇に片付けて、看守台に向いて正座して待つ。

 責任者が核舎房を一周して、留置場を出て行ってしまうまでは、姿勢を正して沈黙しているようにと指示されていた。

 やがてその日の取り調べに連れ出されていた者が徐々に帰ってくる。そして夕方の5時になると日勤看守の担当が終わる。

 読書時間終わり、の合図で各舎房に入っていた本が引き上げられると、入れ違いに夕食が配られ始める。

 囚人に対する配食サービスは外部に委託されているものらしく、俺も昔は警官だったという男性が、気安くわれわれに声を掛けながら、お湯と食事を食器口から差し入れてくれる。

 いつも取調室で、冷めた夕食しか食べたことのなかった私には、熱い食事は嬉しかった。

 夕食後の囚人たちには何もすることがないので、自然に雑談の声が広がり始める。

 同室の者同士の雑談から始まって、ついには他の房の者にも声を掛け、最後には留置場の誰をも巻き込んで大変な騒ぎになるのだ。

 お互いに顔も見えぬままで壁越しに大声で会話しているので、その内容は全留置人に筒抜けになる。

 その上、なるべく声が通りやすいようにと立ち上がって、鉄格子の正面に寄って来て話すし、会話の当事者以外の者も、なるべくよく聴こうとして、やはり鉄格子にへばりついて耳を澄ます。

 結局はいつの間にか全員が立ち上がって、激論を交わすのが毎夕繰り返される光景だった。

 留置人同士が互いに情報交換し合うことは禁止されているはずだが、どの看守も大目に見てくれていたし、自ら率先して会話の輪に入り込んで楽しんでいることもある。

 こうして囚人同士の会話は、各自の事件内容のこと、取り調べ刑事の悪口、判決の予想などから始まって、社会に居たときの自慢話から刑務所生活の経験談まで、広範な話題が溢れていた。

 私にとっては、人間らしい交流の図れる数少ない機会であり、、また孤独を癒される楽しい時間であった。

 今まで勉強したこともない刑事訴訟法の知識を入手することも出来たし、私の事件のことで、ずいぶん多くの参考意見も収集できた。

 大声で怒鳴るように話さないと聞き取れないので、会話に参加する囚人にとってストレスの発散にも役立った。

 立っているのに疲れ果てるまで、壁越しの大声の対話はいつまでも続く。

 7時にやかんに入った白湯を看守が配ってくれる。今日一日がこれで終わったな、という落ち着いた気分が広がった。激論で喉が渇いているせいか、このときに貰う白湯のうまかったこと。

 7時45分、終審準備開始。3人ほどの看守が立ち会って、各房の扉が開けられる。そして各自が、朝の自分で積み重ねた寝具を居房に持ち込んでくる。

 このときを利用して簡単に口をすすいだり、手を洗ったりすることが出来た。

 そして全員が寝具を運び入れた時点で就寝点呼が始まる。

 起床点呼のときと同様に、全員が鉄格子の前に起立して姿勢を正し、番号を呼ばれたら返事をして右手を上げる。

 最後に一斉に「お休みなさい」と挨拶して今日一日に行事がすべて終了するのだ。

 寝具は1枚の毛布を二つ折りにして敷き、その上に小型の敷き布団を広げる。

 夏場の上掛け毛布は1枚だけ。

 敷布も枕カバーもなく、シミだらけの布団に横になるのは、はじめは悲しかったけど、しばらくするとそれにも慣れた。

 8時になると「消灯!」と声が掛かり、天井とトイレの豆電球以外の照明はすべて消える。

 横になると天井の常夜灯の灯りが鋭く目に入ってくるので、留置場生活が始まった当初はこのまぶしさにずいぶん悩まされた。

 社会に居るときには、真っ暗にして眠る習慣だったので、私は135日間の最後まで、この豆電球の灯りに慣れることがなくて苦しんだ。

 右腕の四十肩の痛みのために寝返りを打つことも出来ないし、横臥も出来ない。

 眠れぬままに2時間毎に行われる看守の交代を数え続け、午前2時の交代看守が留置場を一周する靴音を聞くころに、やっと疲れ果てて眠りにつくのである。

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