白石主任の心証
殺人事件の本件で起訴された後も、私は拘置所へ移監されずに、そのまま警視庁に留置され続けた。
刑事になぜか?と尋ねると、「検察庁がまだ補充捜査をやっているからだ」と言う。
私は、身柄が警察の管理下におかれている限りは、いつどんなトリックに引っかかるかもしれないと思うから警戒心を研ぎ澄ましている。
佐々木検事が言った、麻酔分析にかけるという言葉は強烈な印象となって私の脳裏に刻み込まれている。
しかし、初めのうちこそ毎日連れ出されて補充の取調べが行われていたものの、もはや私に対する催眠術効果も期待できないと分かってからは、それも1日おきになり、あるいは2日おきになってゆく。
しかも、午後になってから始まった調べも、事件に関わる会話は次第に少なくなって、代わりに雑談ばかり。これも夕方までには終わってしまうから、これでは取調べというよりは面倒見のようだと思う。
留置場での私は運動・入浴や洗濯なども皆と一緒の行動が取れるようになったから、起訴されるまでの90日間と比べると、夢のように穏やかな生活になってきた。
「もう勝負がついたんだから、今から無理して自白してもらおうという調べはしない。
お前さんもしゃべりたくないことは断れば良いし、調べにも出たくなければそう言ってくれ」と白石主任が言う。
俺たちにとっては、お前は良いお客様じゃなかった。
自分じゃ納得がいかないんだけど、ホシの面倒は最後まで面倒を見るという伝統があるから、お前が移監されるまでは、最低のことだけは俺がやってやるから、希望があれば言え」と明神部長も言う。
すでに私の事件の本部は解散しているから、私の相手をしてくれるのは白石、明神の両刑事だけだった。
これまで3ヶ月間も激しい闘争を繰り広げてきた者同士だから、こうして戦いが終わってみるとまるで戦友同士といえるような奇妙な信頼関係も生じていて、つい、私も甘えてしまう。
明神刑事は昼食に私の好きな食べ物を取り寄せてくれたりして、いわゆる被疑者の自供後の面倒見のようにして扱ってくれた。
そんなある日、白石主任が、取調官としてではなくて、友人としての助言のつもりだが、と断って次のように言った。
「この事件は、いうなれば単純な喧嘩騒ぎの中で、当たり所が悪くて大事件に発展してしまったというところじゃないか。
普通ならどう間違ったって、お前さんが今の俺の歳になるまでには出て来れる内容だよ。40代のうちに社会復帰すれば、いくらでもやり直しは効く。
けど、このまま否認して裁判に臨めば、お前さんに有利な情状は一切斟酌されないし、当然に財産を狙った計画的な殺人だということにされて、残りの人生は塀の中だってことになりかねない。
どうだ、今からでも俺たちに一切を任せてみるという気にはならないか?悪いようにはしないよ」
「このままで裁判になれば自分たちが証人に呼ばれることになる。
そうなればこっちにも立場があるから、お前さんを有罪にするための言葉を選んでしゃべるしかない。
法廷に立ってもう一度お前さんと対決したいとも思わないし、それに、俺たちの証言が、お前さんに有利なことを言うはずが無いんだから、しゃべれば状況は最悪のことになるだろうよ。
そんなことになるよりは、供述調書で審理してもらうほうが絶対に有利だ。
お前さんの弁解やら、有利な情状やらを十分に盛り込んで、供述調書を作っとく気にはなれんかね」
これに類する説得は、従来から佐々木検事やら加藤刑事が言っていた。
そして、これは多くの刑事事件の具体例に接してきた彼ら、捜査官の本音なのだろう。
それは、穏やかに説得する白石主任の態度を見れば、今の私にとって、取り得る最善の方法だと彼が心から考えていることだと分かる。
「今の司法の現実は、実際に起訴されてしまえばその99.9パーセントが有罪に成ることが決まっている。
お前さんは残りの1000分の1の確率にかけるほどの馬鹿じゃないだろう。
結果が決まっているのだから、その中で最も有利な方法を選択するのが現実的だ」
と、本心から心配してくれている白石主任に感謝しながら、
「今の私には、もはや失うものが何も残っていない。
だから、早く社会へ戻ることには何の意味もなくて、白か黒だけしか残ってない。
馬鹿と思われる道を進んでみます。」
と改めて断言した。これ以後は白石主任も、この話をもう持ち出さない。
私は続けて質問してみた。
「ところで主任さん、主任さんは私が佐藤殺しの真犯人だと、今でも本気で信じているのですか?」
最近の私に接する態度から見ても、私には白石主任が私の有罪を確信しているようには見えなかったからである。
白石主任はこの時にすぐには返事をせずに、聞こえないかのように質問を無視していた。
しかし、しばらくたってから、取調室へ入ってきた明神部長に向かって、唐突にこのように言い出した。
「おいっ!この先生はな、俺がこの事件の全責任を負っていることを知っていながら、こともあろうに、その俺に向かって、自分のことを本当に真犯人だと思っているのか、と聞くんだぜ。思わず答えに窮しちゃった。あきれたよ」
明神部長は事情が分からないのでポカンとしている。
白石主任は明神部長への冗談を言っているふりをして、私の質問に答えたのだ。
この態度を見て、彼自身も本音のところでは、城山ホテルの客室で殺人事件があったという犯行シナリオの現実性について、確信を持っていないのだろうと私は直感した。
11月も下旬になって、そろそろ私の拘置所への移監が日程に上がってきたころ、白石主任が言った。
「折山さんよ、自分はずっと刑事畑が長くて、ずいぶん多くの難事件解決の勲章を持っていることを誇りにしてきた。
しかし、この事件だけが収まりの付かないいやな形で終結したんで、刑事生活の気がかりとして長く心に引っかかってしまいそうだ。
裁判では99パーセント有罪になると思うが、それにしても先生が否認しているんじゃ、この事件の真相というのは解明されない。
もしも判決が確定したならば、一度自分宛に手紙をくれないかな。
この事件の真相は本当のところは一体どうだったのかってことを教えて欲しいんだ。
確定してしまえば、後で真相が分かっても、同事件で処罰されることは無いんだから、ぜひ頼むよ」
いつの間にか白石主任の私を呼ぶ言葉は折山さん、とか先生、となっている。もちろん敬称のつもりではなく、冗談を込めた親しみの言葉として呼びかけているのだが、それでも彼の気持ちは伝わってくる。
彼なりにこの事件に全力を挙げて取り組んだ中で、3年間も私を執拗に追いかけているうちに、私の性格やら生き方やらを細かく掌握したに違いない。
そして、私が根っからの犯罪者タイプの人間ではないことだけには気付いてくれたのではなかろうか。
さらに、この警視庁の取調室を舞台にして、90日間もの壮絶な闘いを交わした相手として、私にある種の敬意を表してくれたのだろうと理解している。