7.犯罪事実の非合理性

 第二 重大な事実誤認佐藤殺害関係

 原判決は一審判決判示第一の事実(佐藤殺害)につき被告人らの控訴を棄却したが、これには以下に述べるような判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があって、これを破棄しなければ著しく正義に反するから、原判決は、破棄されなければならない。

 一、はじめに

 被告人及び弁護人は、一審以来、太宰府山中で発見された変死体が佐藤であること、及び被告人が捜査投階で佐藤を中洲のホテルで殺害したとの自白をしたことを強く争ってきた。 

 一・二審判決はともにこれらを肯定したものであるが、被告人及び弁護人としては、かかる事実に反する認定は到底承服できるものではなく、依然として強く争うものである。

 しかし、本上告趣意書においては、議論を整理する意味で、これら二点の事実がともにあったものとして論述をするが、決して事実として認めるものではないことを始めに断っておく。

 原判決及び一審判決が認定した犯罪事実には、二つの看過しがたい問題がある。

 その一つは、その事実及びそれを現実の事実たらしめる前後の事実のうち、客観的事実として確定できる部分が皆無に近いということであり、いま一つは、その事実が存在したとすると合理的人間が絶対に採るはずのない行動を被告人が採っていたと言わざるをえなくなることである。

 これらのことから導かれる結論は、この犯罪事実が空想の産物だということの一語に尽きる。

  1.原判決の認定した事実には客観的事実として確定できる部分が何もない

 まず第一の点について述べる.

 原判決が認定した犯罪事実及びその前後の事実を時系列的に確認すると、次のようになる.

 ① 被告人は7月25日の早朝、第一便で羽田を発ち、午前9時8分以降福岡国際空港に到着した。

 ② 同日午前9時頃佐藤が、日産レンタカー博多駅前営業所において、ブルーバードのレンタカーを予約していたか、あるいは被告人が借り受け手続をした。

 ③ 被告人は、右のレンタカーで博多城山ホテルに向かった。

 ④ 被告人は、右ホテル414号室において、鈍器で、下を向いているかベッドにうつ伏せになっているかあるいは後ろを向いてるときに佐藤の後頭部を数回殴打し、佐藤を殺害した。 

 ⑤ 被告人は、一旦ホテルを出て、死体梱包に用いる段ボール箱、ビニール紐等を入手し、改めて右414号室に戻った。

 ⑥ 被告人は、佐藤を裸にしてビニール紐で緊縛し、段ボール箱に詰めてホテルの廊下、エレベーター、フロント前を通り、玄関先に止めてあった前記ブルーバードの後部座席に搬入した。

 ⑦ 被告人は、佐藤の死体を太宰府の山中に遺棄した。

 以上のうち、①は被告人が一貫して主張している事実であり、⑦は死体が佐藤であることを被告人・弁護人ともに一貫して争っているが、一・二審判決はともにこの死体が佐藤であると認定しており、その限度において佐藤の死体が太宰府の山中にあったという客観的証拠に裏付けられていると言えよう。

 しかしながら、被告人を有罪とするためには、この①と⑦の間が証拠により埋められなければならない。はたしてどのような証拠があるのであろうか。


 ②の事実については、レンタカーの売上伝票控(一審甲149号証)があるので、借り出しの事実については客観的証拠があるといえるが、それを実際に借りたのが佐藤だったのか被告人だったのかということになると、すでに事実は曖昧模糊としてくる。

 原判決は、「直ちに被告人がその時刻(午前9時)までに営業所の窓口に所在していたとは即断できない」(48丁裏から49丁表)と述ベて、佐藤が午前9時頃に予約したとも被告人が借り出し手続をして記載が9時に遡らされたとも取りうるとし、いずれであるかの判断をしていない。

 しかし、このことは、そのとき佐藤が生存していたかどうかという重要な事実に係わってくるのである。

 一審判決は、「被告人が昭和55年7月25日の午前9時には前記営業所にいたことは明らかであるというべきである。」(50丁表)とし、「当日、午前9時に右営業所でレンタカーを借り受けるには、その日の朝に飛行機で東京から福岡に行ったのでは間に合わないこととなり、前日までには被告人は福岡に到着していなければならないこととなるから、結局、被告人が昭和55年7月24、25日の両日に福岡にいたということができるわけである。」(50丁裏から51丁表)と述べ、さらに「被告人がレンタカーを借りたのが午前9時であり、このときまでに佐藤は死亡していたと推定される」(91丁裏)としていたのである。

 すなわち、一審判決では、被告人は7月24日に福岡に到着し、25日の午前9時までの間に佐藤を殺害したとされているのである。

 それゆえに、一審判決の事実認定は殺害日を「7月24日又は25日」としていたのである。

 これに対し、原判決は、佐藤が借りた可能性を否定していない。というより、被告人が午前9時に借りることは不可能なのであるから、むしろ原判決にある「佐藤が予約手続をしておいたとしても不思議はない」(48丁裏)との判示に重点があると見られる。

 すなわち、一審が25日午前9時の時点で佐藤はすでに死亡していたと考えていたものを、原審は覆したと評価されるのである。

 この重大な事実認定の変更は、証人立石輝雄及び同萬場友章の供述の評価の変更により、レンタカー貸渡開始時刻として記載のある午前9時までに被告人が営業所の窓口に所在していなかった可能性を認めたこと、原審で取り調べられた出勤簿(原審弁51号証)で河西智恵子が7月24日にメイを休んでいたことが判明し、河西が同日被告人に会ったとすれば午後3時以前であるとしていた供述の信用性が動揺したこと、及び被告人が一貫して主張していた25日の九州行きという事実に信用性を認めたことによってもたらされたものであった。

 このように従来の証拠を再検討し、新証拠を勘案してもなお、原審は、レンタカーを借りたのが被告人であったのか、それとも佐藤が生存していて佐藤が予約したのかという点について、判断をすることができなかったのである。

 従って、②の事実のうち、レンタカーを借りたのが被告人であったのか、それとも佐藤が生存していて佐藤が予約したのかという点については、十分な価値のある客観的証拠は存在しないと言わなければならない。

 ③については、端的に、被告人と佐藤が昭和55年7月25日午前9時頃から11時頃(一審判決の認定した死体搬出時刻)までの問に、博多城山ホテル414号室に在室した事実が、どのような客観的証拠によって証明されているか、という視点から検討してみる。

 そうすると、ホテル宿泊の事実を立証するために最も信頼性の高い証拠は、宿泊台帳・宿泊伝票といった種類の書類であるにもかかわらず、この類の書証は本件では一切提出されていない。むしろ、同年の6月分と8月分はあるが7月分がないという奇妙な報告がなされている。

 そこで、これに代わる証拠ということになるが、一審判決は、当時右ホテルの清掃を担当していた証人矢野トメ子が、

昭和55年7月下旬ころの午前10時30分ないし40分ころ、同ホテル414号室を清掃しようとしたところ、矢野の持っていた紙袋を下さいといってきた男がいたこと、

その日の午後2時頃同室を清掃した際、2台のベッドのうち窓側のベッドの枕元付近に多量の血液が付着し、部屋のシーツ、毛布、ベッドパッド及び枕が紛失していたこと、

入口のベッドの足元付近にメモと5千円札が置いてあったこと、

を証言しており、これが、他の証人の証言などと相まって、7月25日に同ホテル414号室に多量の血痕が残されていたこと及び被告人の自白どおりメモと5千円札が置かれていたことの証左であるとした(81丁裏から83丁表)。

 しかしながら、この矢野の供述には曖昧な点があり、原判決では血痕に関する部分の信用性が否定された(53丁表)が、メモと5千円紙幣に関する供述のみは信用できるとし、このことから被告人のメモと5千円札に関する自白が信用できるとの結論を導いた(53丁裏)。

 これについて二つの問題を指摘することができる。

 一つは、矢野の供述の曖昧さ・不自然さが、この血痕に関する供述に止まるものではないということである。すなわち、矢野は、414号室には特に大きな灰皿が置かれていたとして、自ら購入した灰皿を証拠として検察官に提示しているのであるが、このような灰皿は通常414号室には備えられていないものであり、なぜ昭和55年7月下旬の特定の日に、同室にこの灰皿がなければならなかったかについて、合理的な説明は行いえていないのである(昭和62年11月4日証言)。

 いま一つは、矢野の供述のうち、原判決も信用性が認められるとしたメモと5千円札の存在についてさえ、信用性はないという点である。それは、第一に矢野供述の全体を通じて客観的証拠との合致は何ら確認されておらず、それはメモと5千円についても同様であること、一緒に部屋の清掃をした川畑千代子の証言でも、矢野が主張する2千5百円ずつ分けたという事実について、川畑は記憶がないとしていること(平成元年5月30日証言)から明らかである。

 このように、③の被告人と佐藤のホテル在室という事実についても、信傾できる客観的証拠はないといわざるをえない。

 ④の殺害の事実に至っては、凶器・血痕が発見・特定されていないのみならず、犯行に至る実際の経緯・動機及び犯行態様が未解明であり、この点については全く客観的証拠による裏付けがない。

 ⑤の段ボール箱入手等の事実についても、客観的証拠はない。

 原判決では、検証の結果段ボール箱の入手が可能であることが判明したとされているが(32丁表)、これは平成元年5月29日の西島船具金物店における検証の結果を意図的に歪曲したとしか考えられない。

 すなわち、検証で入手できたのは、同日付検証調書(三)添付写真⑱と⑲の二個であって、そもそも3個入手されなけれは本件犯行は完遂されなかったとされていることと矛盾するし、そのうち⑱の段ボール箱は一辺が52センチメートルの立方体であって、本件に供されたとされるものと矛盾しないものの、⑲の段ボール箱は各辺が57×62×67センチメートルであって、これは犯行に供されたとされるブルーバードの後部座席には全く搬入不能の大きさであった。

 この段ボール箱について、一審では、西島船具金物店で入手したものかどうか断定を避けつつ入手は可能であったとするが(91丁表から裏)、どこで入手可能であったのかについて証拠に基づかない認定をしており、問題は同様に大きい。

 ⑥の搬出の事実についても、一審がその根拠とした証人今永幹雄の証言に関し、原審はその信用性を否定した(59丁表)。

 このように検討してくると、原判決が認定した犯罪事実についてはもちろんのこと、その認定にあたり当然前提としていたはずの周辺事実についても、最初と最後、①と⑦すなわち、被告人が昭和55年7月25日の朝福岡に到着した事実と、佐藤の死体が太宰府の山中で発見された事実以外に、客観的証拠は何ら存在しないということに帰着する。

 つまり、①と⑦の事実をつなぐ、客観的に確定できる事実は何もないのであって、ただ抽象的に被告人が九州に赴いたという事実と佐藤の死体が太宰府山中に遺棄されたという事実だけが細切れに存するに過ぎないのである。被告人による佐藤殺害という事実があるとすれば、社会的事実として実体を伴ったものであるはずなのに、それがないのである。

 この①と⑦の間に存在しなければならない事実については、原判決は(一審判決も)犯人は被告人以外に考えられないという偏見のみに基づき、空想によってこれを補ったものと断ぜざるを得ない。もとより、この部分を被告人の自白によって補ったという弁解も許されない。

けだし、本件は、一貫した自白が存在する事実とは異なり、変転著しい自白らしきものが、しかも被告人の供述ないしはその録取書ではなく取調べにあたった捜査官の伝聞供述として認められるに過ぎないのである。

 しかも、その内容自体が確たる骨格と細部を有するものではないのである一審判決が指摘するように(38丁表)、そもそも「自白の真偽を検討する」段階で、「被告人の否認その他の供述と対比し、かつ、前記の客観的な証拠等を総合して判断する必要がある」と言わざるを得ないものであって、しかも、右に検討したように、①と⑦の間を埋めるべき事実について客観的証拠といえるものもないのであるから、この部分に関する自白らしきものの信用性も認められるはずがないからである。

   2. 犯罪事実の非合理性

次に第二の点、すなわち、合理的な人間が取るはずのない行動を被告人が取ったと言わざるを得なくなる点について説明する.

 原判決の認定した犯罪事実の中に不合理な点は多々あるが、とりわけ「非合理」と言わざるを得ないのは、前記⑤の事実の問題である。

 即ち、⑤の事実があったとすると、被告人は、佐藤の死体を博多城山ホテル414号室に残したまま同室を立ち去り、再び戻ってきたことになる。しかも、その時間帯は深夜ではなく、ホテルの宿泊客が次々とチェックアウトをし、メイドが清掃のため各室を回っている午前10時前後の時間帯である。

 たとえ正式にチェックアウトの手続を取らないままにホテルを出たとしても、メイドは合鍵を使って各室を回っているのであるから、誤って部屋を開けることもないとは限らない。むしろ、往々にして経験するところである。

 被告人は当日着いたばかりでホテルの宿泊台帳には自己の氏名を記載しておらず、ほかに被告人がそこに在室したことを知っている者もいないのであるかち、万一ホテルの客室で人を死に至らしめたとしても、ただ単にそこを立ち去ればよく、わざわざ戻ってくる必要はどこにもない。

 むしろ、メイドに発見されているかもしれないのであるから、現場に戻るというのは危険極まりないことである。合理的な判断をする人間であれば、その危険性を感じないはずはなく、決して戻ってくることはない。

 このように、⑤の事実は、現実にそれがどのようなことであるのかを考えてみれば、絶対にありえないことがわかるはずである。

 それを看過した一審及び原判決は、やはり想像で事実を作り上げていたとの批判を甘受せざるを得ない。

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