三、自白に客観的事実の裏付けがないこと
最一判昭和57年1月28日刑集三六巻一号67頁は、被告人を犯行と結びつけるための唯一の直接証拠である被告人の技査段階における自白及びこれを裏付けるべき重要な客観的証拠等について、その証拠価値をめぐる幾多の疑問があるのに、これらの疑問点を解明することなく被告人を有罪とした点において原判決を破棄したが、右最判は自白の信用性を疑わせる問題点として、
自白に客観的証拠の裏付がないこと、
証拠上明らかな事実についての説明が欠落していること、
自白の内容に不自然・不合理な点の多いこと、
を指摘した。
自白の信用性については、信用できると言えば信用できるし、信用できないと言えば信用できないといった主観的な評価が入り易い問題であるが、客観的証拠による裏付があるかどうかは誰が見てもはっきりしている。
そこで、一項「はじめに」でも指摘したが、再度整理して自白の客観的証拠の裏付の有無を検討する。
原判決が自白の信用性について判示するところのうち、客観的証拠による裏付けがあるとされたものは、
8月24日の検察官の取調べにおける佐藤の死体遺棄場所の供述(26丁裏)、
8月29日の警察官の取調べにおけるホテルのメモと5千円紙幣遺留の供述(29丁表)
及び
新幹線内の手提げ鞄遺失の供述(同所)
のみであって、肝心の佐藤及び被告人の博多城山ホテル宿泊の事実も、佐藤殺害及び外陰部切除に用いられた凶器も、博多城山ホテル客室内の(飛沫)血痕も、佐藤の衣類・所持品及び死体の梱包搬出に用いられたシーツ・枕類・段ボール箱なども一切発見されていないのであって、犯行の核心部分は何ら客観的証拠による裏付けがなされていない。
とりわけ、ホテル客室内に犯行によるものと認められる、血痕が発見されていないことは決定的である。
一審判決は、掃除婦矢野トメ子が目撃した客室ベッドの多量の血痕を「確かな裏付」(一審判決83丁表)と判示したが、原判決は
「矢野が証言した血痕の状況が果たして本件の7月25日のものか或は別の機会のものか必ずし
も判然とせず、同女に記憶の混乱がある疑いがないとはいえ(ず)……矢野がいう血痕の状況そのものはそのときのものではない(53丁)とこれを否定した。
しかも、死体の頭蓋骨の骨折状況からすると、少なくとも3回の打撃が必要であり、被害者の頭皮には少なくとも2箇所の口の開いた損傷が生じている可能性があり、2回目以降の打撃を加えた際に口の開いている損傷部から血液が飛沫状になって飛散しているはずである(原審木村証言) のに、犯行現場にそのような痕跡が一切認められなかった。
原判決は、
「現場からシーツやベッドパッド、枕等がなくなっているから、これらの物に飛沫血痕が付着していたかも知れず、またシーツ等を被せて殴打したとすれば血が飛散しないこともあり得るのであって、いずれにしても室内に飛沫血痕がないのは不自然であるなどとばかりはいえない」(32丁)
旨判示して、それで事足れりとするが、自白の客観的証拠による裏付けがないことについておよそ説明になつていない。
そればかりか、原判決が裏付けがなされているという、新幹線内の手提げ鞄の遺失の事実すら、
「背広のネームなどは付いてなく佐藤の身元を示すものはない」(29丁裏)
のであって、何ら客観的に裏付けられているとは言えないものである。
また、ホテルのメモと5千円紙幣遺留の供述にしても、前述の通り原判決自体が既に、裏付けがなされていないことを認めているに等しいばかりか、単なる一証人の供述証拠にすぎない点において証拠価値としては薄弱であると言わざるを得ない。
四、証拠上明らかな事実についての説明の欠落
自白について、証拠上明らかな事実についての説明が欠落している場合は、自白の信用性に欠けるとするのが判例の立場である。
本件における佐藤殺害の自白についてこれを検討すると、そもそも被告人の自白は極めて.概括的なものしか存在せず、これを自白と呼んで、信用性の有無を検討すること自体が無意味と思われるほど薄弱な内容である。
証拠上明らかな事実についての説明が欠落しているかどうかを見るならば、自白には具体的な内容が欠けているため、すべてにわたって説明が欠落していると言ってよいほどである。
1.佐藤の死体の外陰部切除
説明の欠落を検討する上で顕著な第一点は、佐藤の死体の外陰部切除の事実については、太宰府山中で発見された変死体の状況から明らかであるのに、自白は何ら言及していないことである。 この点につき、原判決は、
「原審証人白石忠司の供述によれば、被告人が河原における殺害を認める供述をした際、ほかに何かしていないか訊ねたのに対し、被告人が非常に狼狽した態度を示しその点の供述を拒否した事実が認められ、これは暗黙に陰茎切除を認めた趣旨と解されるばかりでなく、被告人は他の機会に、自分の倫理観と反するようなことを認めるわけにはいかない等と述べる一方で、憎しみから切ったとか、諸悪の根源であるから切ったとか、頭が混乱していたので切ってしまったとか供述していることも認められるのであって、被告人が男性器切除の動機、方法等について明確な供述をしていないからといって、自白が全体として信用性を失うということにはならない。」(30丁裏~31丁表)
旨判示している。しかしながら、そこで指摘されている「憎しみから切った」とか、「諸悪の根源であるから切った」とか、「頭が混乱していたので切ってしまった」とかの供述は、それ自体いかにも場当り的断片的な説明との感を否めず、外陰部切除という特異な事実に対する説明としてはいかにも根拠薄弱と言わざるを得ない。
とりわけ弁護人は控訴趣意書においても、控訴審弁論においても、佐藤の死体の外陰部切除の事実を本件の最大の特異点であると指摘したが、その理由は、鹿児島天婦殺し最高裁判決でも同様に指摘されているが、外陰部切除の事実(右最判においては、犯行現場における金品物色の事実等がこれに相当する)が
「本件犯行の性格を一変させ、少なくともその犯情に重大な影響を及ぼすことの明らかなものであって、捜査官としては当然被告人を追及して供述を求めたであろうと考えられるのであるから、被告人の自白の中からこれらの事実に関する説明が何故に欠落しているのかについて首肯すべき事情が明らかにされない限りは、この点もまた、被告人の自白の信用性を疑わせる事情であるというべきである」
からである。そのような見地から原判決の右判示を見ると、全くその説明が足り得ていないことは明らかであろう。
さらに、原判決の右判示につき指摘しておかなければならないのは、原判決が、白石忠司が被告人に対しほかに何かしていないか訊ねたのに対し、被告人が非常に狼狽した態度を示しその点の供述を拒否した事実をもって暗黙に陰茎切除を認めた趣旨と解される旨判示している点につ
いてである。この点について、一審判決は
「被告人が佐藤の陰茎の切除について、何か認め難い事情があったことが窺われないでもないが、単に佐藤の陰茎を切除した破廉恥な事実が公表されることを恐れたために否認に転じたとするにしては根拠に乏し(い)」(一審判決七四丁表)
と、原判決のような認定を否定していることである。
一審判決があえて陰茎切除を無視したのは、それを認めると、本件犯行全件の性格が「財産乗っ取り」のための佐藤殺害から痴情犯的なものになることを恐れたからにほかならない。
2. 佐藤の衣類を脱がせたこと
説明の欠落の第二は、発見された死体は全裸であったのに、自白の中では佐藤の衣服を脱がせたことの説明が何らなされていないことである。
原判決は、被告人が
「死体の緊縛、梱包、運搬状況に関する詳細な供述をしていた」(27丁表)
旨判示するが、その「詳細な」供述の中にも衣服を脱がせたことは一切触れられていない。
一刻も早く死体を処理したい犯人にとってみれば、衣服を脱がせることは不合理な行動であるし、そもそも、死体を緊縛するためにも衣服を脱がせることは何の意味もない。
ましてや、佐藤の頭部を殴打してそこから出血していたであろうと考えられるのに、佐藤の衣類を脱がせようとして佐藤の身体を動かせば、さらに出血を招き、あるいは自分の身体に血が付着するかも知れないのである。
したがって、佐藤の衣類を脱がせた行為は、無視することのできない特別の意味を有するものであり、この点の説明が欠落していることについての首肯すべき事情が何ら明らかにされていないことは、被告人の自白の信用性を疑わしめるものである。
3. 佐藤の死体の足首の緊縛
説明の欠落の第三は、発見された死体の足首はビニール紐で8の字状に緊縛されていたのに、被告人は自白の中でその点に一切触れていないことである(一審判決88丁表参照)。
足首の緊縛は、次に見るように、死体を段ボール箱に詰め込むために緊縛するというストーリーの中には、入ってくる合理性がないのである。これは実験してみればすぐに分かることである。
したがって、足首の緊縛の事実は、死体を段ボール箱に詰め込むために緊縛したというストーリーの中においては特別の意味を有するものであり、この点の合理的な説明がなされない限りは、右の犯行ストーリーは破綻していると言わざるを得ないのである。
この点の説明の欠落は、一審判決のいうような自白の信用性を高めるものであるどころか、かえって著しく信用性を失わしめるものなのである。