六、秘密の暴露は存しない
原判決は、佐藤の死体が遺棄されていた場所を被告人が知っていた事実並びに犯行場所であるホテルの所在及びその客室内の血痕・メモ・5千円札の存在を被告人が知っていた事実をもって秘密の暴露にあたると判示し、それらをもって佐藤殺害と被告人との結び付きを肯定しているが、これは重大な事実誤認である。
即ち、秘密の暴露について、最判昭和57年1月28日刑集36巻1号135頁(いわゆる鹿児島夫婦殺し事件)は
「あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたというもの」と判示した。
秘密の暴露は自白内容の真実性を強力に保障する客観的証拠の存在を意味するものであり、また右判決が
「捜査官の知らなかった事項」とは言わず、
「あらかじめ捜査官の知り得なかった事項」
との文言を用いていることからすれば、単に当該取調官が知らなかったと証言していれば足りるのではなく、その当時の捜査の展開過程に照らして、捜査機関には知り得なかったことが客観的に明らかな場合を言うものと解すべきである。
実際、日石・土田邸爆破事件一審判決(東地判昭和58年3月24日)は、
「いわゆる『秘密の暴露』とは、自白内容に捜査官があらかじめ知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたものが含まれている場合、その自白は真犯人でなければ述べ得ない秘密の暴露を含むものとしてその信用位が高度に保障されることをいうが、自白の中に一見『秘密の暴露』が含まれているように見えても、実際は取調官があらかじめ何らかの方法でこれを知り、被旋者を誘導してあたかも自発的に自白が得られたかのように作為することもありうるのであるから、厳密な意味での『秘密の暴露』とは、取調官がそのことを知らないというにとどまらず捜査機関が全く知らなかったかあるいは知り得なかった事項が自白によってはじめて明らかにされた場合をいうと解すべきある。」
とした。右最判は当然このようなものとして理解されるべきである。
1 佐藤の死体遺棄場所は「秘密」の暴露か
原判決は、佐藤の死体が遺棄されていた場所を被告人が知っていた事実について、弁護人が
「本件死体遺棄場所は新聞でも報道され、一方佐藤が行方不明になっている事実も警察で情報を入手していて、これらの事実は捜査関係者にとって容易に知り得た事項であったから、佐藤の死体の遺棄場所はいわゆる『秘密』に当たらないばかりか、被告人が捜査官に対して述べた場所は同人の死体の所在場所ではなくそれとは別の場所であり、そうでないとしても捜査官が先に情報を入手しそれに基づき被告人を誘導して供述させたものであって、いずれにしてもこれが秘密の『暴露』にあたらない」旨主張したのに対し、原判決は、
「死体が発見された場所自体は当時既に知られていたが、その死体が佐藤であるという事実は被告人以外の誰も知らず、被告人がその場所に佐藤の死体を放置してきたと供述し、それに基づきそれまで身元不明とされてきた死体について再検討がされた結果、右の死体が佐藤松雄であることが確認されたというのであるから、この点こそもっとも重要な秘密の暴露に当たるということができる」(45丁裏)と判示した。
しかしながら、死体が発見された場所自体は当時既に知られていて、新聞報道された事実もあり、しかもその死体の特徴が警視庁の身元不明者写真便覧に載っていたことは争いがない。
そうであれば、捜査機関としては当然知り得る機会があったと言うべきであって、
「あらかじめ捜査官の知り得なかった事項」
には該当しないことはそれだけでも明らかである。
したがって、原判決は明白かつ重大な事実誤認をしており、破棄されるべきである.
(1)原判決は何をもって「秘密」の供述であるとしたか
原判決が何をもって「秘密」の供述であるとしたのか一見して明瞭であるとはいえないが、原判決は、
「昭和60年8月4日の取調べにおいて、(被告人が)佐藤松雄と別れた場所であるという太宰府の山中の小川の辺りを描いた図面一葉(中略)を作成し、これを捜査官に差し出した」(35丁裏)
こと、及びこの図面が佐藤の死体遺棄現場と酷似していることを認定し、次に被告人が死体遺棄現場に酷似した図面を描くことができた理由は何か、またもし真実被告人が佐藤殺害の真犯人であるならば、わざわざ捜査の焦点を太宰府の河原に向けさせるような供述をした理由は何故かを検討していることからするならば、原判決は、
「昭和60年8月4日の取調べにおいて、佐藤松雄と別れた場所であるという太宰府の山中の小川の辺りを描いた図面一葉」
を作成したことをもって、佐藤の死体遺棄現場という「秘密」を暴露したものと考えているようである。
しかしながら、8月4日現場図面は原判決の判示にも明らかな通り、「佐藤松雄と別れた場所」として描かれたものであって、佐藤松雄の死体遺棄場所として描かれたものではないばかりか、現場の状況(現場はどのような場所か)を描いたものに過ぎず、現場の所在(現場はどこか)を明らかにしたものでもなかった。
したがって、8月4日現場図面のみでは、佐藤殺害との関連性が未だ不明瞭であり、その作成をもって秘密の暴露であるとするには無理がある。
だからこそ、一審判決は8月4日付現場図面の作成ではなく、同月23日及び24日付現場図面並びに同日付現場地図作成を秘密の暴露であるとしたのである(一審判決38丁裏~45丁表)。
そうすると、被告人が佐藤の死体遭棄現場という秘密を暴露したというためには一審判決がそうしたように8月23日及び24日を待たなければならないのである。
それでは、捜査官は昭和60年8月23日及び24日になるまで佐藤の死体遺棄場所を知り得なかったのか。