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12.捜査官は現場を知らなかったか?

   (2)佐藤の死体遺棄場所を捜査官は知り得なかったのか

    ――8月24日までの捜査の状況

 秘密性の要件について、田崎文夫外「自白の信用性」(事実認定教材シリーズ第3号)は、次のように指摘している。

     「秘密性を巡る争いは、当該事項に対する事前の認識の無いことを主張する捜査官の証言の信用性を巡る争いといってよいが、その真否の判断に当たっては、捜査の進展状況、証拠の収集状況から客観的な考察を加え、秘密とされる事項が通常の捜査の過程からみて捜査官の認識の範甜内にあったか、その可能性に目を向け、捜査官の証言に批判的検討を行う必要がある。

 …供述前の関連する事項についての捜査の状況とその供述の現れ方から…、供述がなされるまでの期間において当然予想される捜査の内容から…、犯行直後の聞き込み捜査の対象となる範囲から…、それぞれ秘密性に疑問を投げ掛けた事例を指摘することができ、参考となる視点と思われる.」(46頁)。


① 原判決の認定した、捜査の進展状況

 原判決によると、捜査の進展状況及び被告人の供述経過は次の通りであるとされる。

     「昭和55年8月13日ころ福岡県筑紫野市大字柚須原の杉林の中から男の死体が発見され、全裸で足を縛られ頭蓋骨が打ち割られ男性器が切除されていたことから他殺死体であることが一見して明白であったので、地元警察が殺人事件として捜査し被害者の身体的特徴等を公開してその身元確認に努めたが、身元が全く確認できずやがて事件は迷宮入りしてしまったこと。

  一方、佐藤に関しては、昭和58年2月ころ、北陸銀行渋谷支店に情報収集に立ち寄った警察官が銀行係員から佐藤松雄が昭和55年7月ころから姿を見せなくなり代理人と称する者が預金を下ろしに来たりして不審があると聞き込み、その翌年から佐藤の所在調査やその財産の移動状況     等の捜査に取り掛かり、同人が死亡している疑いが出てきたので、身元不明者写真便覧によって調べたり、佐藤が治療を受けた歯科医から資料の提供を受けて捜査したがその生死や所在を確認するに至らなかったこと。

  このように本件死体と佐藤との関連が判明しなかったのは、本件の内偵捜査が開始されたころは九州の殺人事件は被害者不明でとうに迷宮入りしていたうえ、佐藤の離婚した妻が供述する佐藤の血液型がA B型なのに(後になって佐藤の手帳の記載から同人がA型であることが判明した) 公開捜査の変死体がA型であったという事情等によるものであることが認められる。

  被告人は、原判示第八、第九の私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載の容疑等…によって、昭和60年7月16日に警視庁に逮捕され、逮捕直後の被告人の弁解は、佐藤は所在不明でなく住民登録をした場所に実際に住んでいるというのであったが、間もなく同人が昭和55年7月中旬ころ台湾女性二人と羽田から台湾に向かい、それ以降連絡がつかなくなっている旨述べ、

  その後、同人と会った最後が昭和59年であるとか昭和57年であったとか供述を二転三転させながらも、同人の所在不明を認める点では一貫した供述をしていた。

  昭和60年7月下旬になると、昭和55年の7月25日に博多のアーバンホテルで佐藤と会い、レンタカーで太宰府方面に行き、そこの山中の小川のあるところで同人と別れたきり会っていないと具体的な供述をするにいたり(佐藤と九州に旅行し太宰府の山中で別れてから消息がわからないとか、山中の河原でけんかになり、木に縛りつけるなどして佐藤を置いてきたなどと供述し、その後佐藤が太宰府の山中で死んでいると思うなどと述べて、佐藤の死体が同所にあることを匂わせる供述をした。26丁)、

   博多のホテルの宿泊事実とかレンタカーの借り受け事実等について裏付捜査をして貰えば、逮捕状にあるように同年7月15日ころから佐藤が所在不明になっているというのが間違いであることがはっきりするなどと申し述べた。

   しかし、捜査官が容易にその供述をを信用しなかったため、被告人は、更に、昭和60年8月4日の取調べにおいて、佐藤松雄と別れた場所であるという太宰府の山中の小川の辺りを描いた図面一葉及び被告人の7月25日の行動内容を細かく記載した書面を作成し、これを捜査官に差し出した」(33丁裏~35丁裏)

     「図面が作成された直後、その図面を携え九州に派遣された捜査官は、結局、図面に描かれている場所も、被告人のいうホテルやレンタカー営業所の所在地も捜し当てることができずに帰京した…」(36丁裏)

     「昭和60年8月23日、24日の取調べで佐々木検事に対し、太宰府の山中の小川で佐藤が転倒し鼻と口から血を出しているのを、杉木立に引き上げ放置してきたので、その遺体は杉林の中にある旨を述べて死体遺棄の事実を認めて、その遺棄現場の図面を書いて提出したが、

  これが手掛りとなって佐藤の死体が発見されたことを被告人に初めて知らせた同月29日の取調べにおいて(もっとも、それ以前に、九州出張から帰った加藤刑事が被告人にそのことを仄めかした事実があるようである)、白石警部補に対し、太宰府の山中の河原で佐藤を石で殴打し首をビニール紐で締めて殺害した旨いったん供述したが

  尋問が佐藤の男性器切除の点に及びかけるや突如供述を翻し、中洲のホテルに行ったら佐藤が死んでいたので、佐藤の死体を段ボール箱に詰めて太宰府の山中に捨てたという死体遺棄事実の供述に変わり、

  その際に死体の緊縛、梱包、運搬状況に関する詳細な供述をしていた」(原判決26丁表~27丁表)。

 原判決の認定した以上の事実によっても、

佐藤の死体は既に昭和55年8月13日に発見されていて、地元警察の捜査が開始されていたこと、

 右事実は地元の西日本新聞が写真、地図入りでそのことを報道していたこと(37丁裏)、

 昭和59年から捜査官は本件の内偵捜査に入っていたこと、

 被告人の逮捕よりも前に佐藤について身元不明者写真便覧や歯科医師からの資料によって身元不明者の中から佐藤の割り出し作業を行っていたこと(原判決は指摘していないが、身元不明者写真使覧の中に佐藤が含まれていたことは記録の上で明瞭である)、

 被告人は逮捕されてしばらくたった昭和60年7月下旬には博多のホテルの名前や太宰府と、いう地名を具体的にあげて佐藤の所在を供述していたこと、

 捜査官が最終的に佐藤の死体遺棄場所を確認する8月24日までの間に被告人は8月4日、同月23日と3度にわたって同じような現場図面を作成していること、

 そして8月4日の後(記録によれば8月5日から7日までの間)捜査官が九州へ裏付捜査に赴いていること

が窺われるのであり、これらの事実からだけ考えても捜査官は被告人の8月24日の供述を待つまでもなく、佐藤の死体に行き当たり得たのであって、8月24日まで佐藤の死体遺棄場所を発見し得なかったなどということは到底信じ得ないことである。


②原判決の認定からもれた捜査の進展状況

 原判決は、8月5日から7日かけての福岡裏付捜査の後、8月23日の佐々木検事の取調べまでの間の捜査状況をあえて判示していないが、佐々木検事の証言を検討する上で重要であり、かつ記録の上で明らかな事実として次の点を指摘することができる。

 まず、この当時の捜査機関の認識としては、

    「被告人の取調べに当たった検察官及び警察官は、被告人が本件犯行当日ころ福岡にいたとは全く考えておらず、逮捕後まもなくのころから被告人は一貫して、そのころ佐藤と一緒に九州に行っていたと供述していたにもかかわらず、むしろ東京都内における佐藤殺害を想定し(ていた)」(一審判決43丁裏)

 しかし、被告人があまりに太宰府にこだわるので、8月4日の取調べで太宰府山中の現場図面や昭和55年7月25日当日の被告人の行動を書面に作成させたうえ、8月5日から7日にかけて秋山一雄警部補及び関谷秋信巡査部長が九州へ裏付け捜査に赴き、

三井アーバンホテルの捜査、

福岡市博多区中洲付近の10階建以上のホテルの捜査(この中には博多城山ホテルも含まれていた)、

レンタカー会社及び屋上駐車場の捜査、

太宰府の捜査、

昭和55年7月当時の気象状況、

柔剣道大会、

被疑者が宿泊した広島ステーションホテルの捜査、

博多駅から広島止まりの新幹線の捜査

が行われた(原審検40号証、43号証)が、被告人の弁解についてはほとんど裏付けが得られなかった。

 そこで、捜査官は、九州の話は事実ではないと判断し、8月19日に九州の件は撤回する旨の調書を作成した(一審証人高橋弘・一審第4回公判速記録131丁裏~132丁表、原審検31号証)が、その直後には、加藤刑事に対してだけは被告人は「その調書は嘘ですから九州のことを頼みます」と述べ、九州の件に執拗にこだわった (原審検31号証)。

 8月21日になっても、被告人は加藤刑事に対しては九州の件にこだわった供述を繰り返したため、同刑事においても九州の件を再度捜査する必要があると考え、手帳にも「九州要」との記載をなした(原審検31号証)。

 そして、8月22日には検察庁で捜査会議が開かれ、被告人の弁解する九州の方へ捜査の方向が変更された(原審証人加藤栄三第10回公判速記録57丁。なお、一審証人高橋弘第3回公判速記録17丁表では、日付については8月23日と間違えて供述しているが、その会議内容については被告人の弁解の真偽を確認するために地図を示して具体的に場所を特定してその場所を捜査してみようという結論になった旨明確に述べられている)。

 捜査会議を受けて、同日は再度九州関係の聴取がなされ(原審検35号証)、8月22日付自供書(一審弁5~8号証)が作成された。右自供書の内容は、

7月24日夜に佐藤から電話があり、博多に来るように言われ、

翌25日朝、福岡へ行き、

レンタカーで三井アーバンホテルに行って佐藤を乗せ、中洲(のホテル)へ行き、

太宰府へ行った、

その山中の河原で佐藤が転倒したのを放置して福岡空港へ戻ったが、

最終便に乗り遅れ、新幹線で東京へ帰った

との内容である。

 自供書には、

「佐藤氏が『ここが中洲だ』といった後、駐車を指示し、15分ほど車から出た所」と記してホテルの所在図が書かれ、また

「福岡インターチェンジを上って太宰府インターチェンジを降りる途中に、パーキングエリアあり、そこに立ち寄って用便をする」との記載がある。

 以上から明らかなことは、8月23日の佐々木検事の取調べは、8月22日の警察検察合同捜査会議での捜査方針の変更を受けて行われたものであるということである。

 そもそも19日に九州撤回調書まで作成しておきながら(あえて調書化までしているところからすると、単に取調官の裁量として調書にしたのではなく、捜査会議の方針を受けて九州の件を撤回させたと考えるべきである)、その数日後には再度捜査方針を元に戻しているというからには、その間にそれなりの新たな資料が収集されたからにほかならないと考えるべきであろう。

 そして、捜査方針の変更を受けて、その日のうちに九州関係の取り調べを行い、自供書まで作成しているからには、当然警察においてその点の裏付捜査を行っていると考えるべきであるし、地図も示して被告人に現場を特定させるような作業も行っていたと考えるのが自然である。

 実際、加藤刑事は、8月22日ころ被告人に対して分県地図を示して取調べを行っていたと述べており(原審証人加藤栄三第11回公判速記録1丁裏)、8月19日頃には太宰府付近が大きく載っている地図がないか探したこともあると述べている(同51丁表)。

 とりわけ加藤刑事は、自分だけが8月19日に九州撤回調書作成直後、被告人から「あの調書は嘘ですから九州のことを頼みます」と言われていたのであるから、九州関係に深く着目したはずである(加藤第10回公判速記録47丁表)。

 だからこそ、加藤刑事は、手帳の8月21日の欄に「九州要」との記載までし、自らで太宰府の2万5千分の1の地図を購入し、8月25日の九州の裏付捜査も自ら積極的に参加していったのである (加藤第11回公判速記録14丁表)。

 8月22日の検察庁との捜査会議でも、九州方面の捜査を積極的に主張し、捜査の方向性を九州へ向けたのは加藤刑事だったのである。

 そうすると、加藤刑事は自ら裏付関係で筑紫野署その他に架電したことはないと否定している(同52丁表)が、むしろ積極的に裏付けに動いていたと見るほうが自然である。

 そうでなくとも、他の裏付担当者が筑紫野署周辺に架電して裏付に当たっていたことは容易に推測されるのてあって、加藤刑事自身それを認めている(同所)。

 8月23日の佐々木検事の取調べは、このようにして収集された相応の捜査資料を踏まえながら、行われたものと見るべきである。

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