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13.佐々木検事の証言

 ③佐々木検事の証言の検討

 秘密の暴露の核心となる8月23日及び24日の取調べはいずれも佐々木検事にかかるものであり、原判決のその点に関する認定もすべて同検事の証言によっているから、秘密の暴露の成否は同日の取調べに関する同検事の証言の信用性にかかっている。

 原判決のその点に関する判示を次に掲げる。

     「昭和60年8月23日の取り調べにおいて、佐藤と車で嬉野温泉に向かう途中太宰府の山中の小川の辺で休息し水遊びをしていると、佐藤が自分の方に向かってこようとして川の中で転倒し川底の石に頭を打ち付けて鼻と口から血を出して倒れたので、杉木立の中に引き上げ放置してきた旨を説明し、

「佐藤さんは恐らくそのまま死んでしまったものと思う。」

「しかし太宰府近辺で死体が見つかったと言うニュースや新聞報道もなかったので、どうなっているかと思っていた。」

「現在まで死体が発見されていないということは、大雨で流されたか土砂で埋まっている可能性がある。」

等と供述し、佐藤の遺体がある場所について、日本分県地図地名総欖の福岡県の地図の筑紫野市の辺りの「岩本」とか「坂部」の辺を指で示し

「大体場所はこの辺りだと思います。」

「明日にでももっと詳しい地図を用意して貰えば更に具体的に特定します。いずれにしても、佐藤さんの遺体がある場所については良く記憶しているので、図面を書いてみます。」

と言って図面一葉を作成し、右説明を受けた佐々木検事が筑紫野警察署に電話して裏付けを取ろうと試みたが、当直員しかいなくて要領を得なかったため、その日はそれ以上尋ねることを断念したこと、

翌24日、佐々木検事が被告人に太宰府の2万5千分の1の地図を示して取り調べたところ、被告人は、三群山の「航空監視レーダー局」の記載を指示し、

「これじゃないか、これに上がる道の途中に現場がある。」と言い、右地図のコピーにボールペンでそれらしい場所3箇所に丸印を付け、

「この3つの内のどれかでしょう。」と述べ、

佐々木検事の求めに応じて、佐藤を放置してきた場所について前日作成したよりも更に詳しい図面を作成したうえ、

昭和60年8月24日と作成日を記載して署名指印し、

更に佐々木検事に言われ前日作成した図面にも昭和60年8月23日と作成日を記載し署名指印したことが認められる。」(40丁表~41丁裏)

     「更に、記録によれば、佐々木検事は、8月24日の調べで、被告人に前記のとおりより詳しい図面を作成させた後、昭和55年7月25日の朝からの行動を思い出して書くように求め、被告人がそれを書いている間に今度は現場付近の筑紫野警察署御笠駐在所に電話し、同駐在所の警察官に対し、バス通りから三群山のレーダー局に上がる道の途中の左手に空き地があり、右手に石ころ河原のようなものがある場所があるかどうか尋ねたところ、同警察官は、今は造成地になっているところがかつてそのようになっていた旨回答し、造成地の右奥に小川が流れているか重ねて尋ねると、記憶にないが近場なので見に行ってくると言って自転車で確認に赴き、その結果、被告人が書いた図面にあるように小川が流れていることが判明した旨の連絡をしてきた。

 そこで、佐々木検事と代わった白石警部補が筑紫野警察署に電話して右場所の近くで変死体が出なかったか尋ねたところ、柚須原というところで5年前に白骨死体が発見されており、被害者身元不明で迷宮入りしているが、その死体発見場所が被告人が描いた図面の場所と似ていることが判明したことがいずれも認められる。」(42丁表~43丁表)

 佐々木検事の証言を検討するとき、原判決が判文に掲げなかった枝葉末節の部分が重要である。その詳細は、本上告趣意書末尾添付別表5の8月23日及び24日の欄記載の通りである。

 これまで検討してきた捜査の進展状況に照らしてその信用性を検討する。

 a 8月23日の佐々木検事の取調べは何時からなされたか。

 佐々木検事は、その日の取調べは午後6時過ぎから開始した旨供述し(佐々木一審第7回公判・記録413丁裏)、同検事作成の捜査報告書(原審検18号証)にもその旨の記載がなされている。しかしながら、他方、加藤刑事作成の取調日誌(原審検35号証)によると、同日の検事調べは午後1時から開始されている。

 b 地図上の特定は8月23日に初めてなされたのか

 佐々木検事は、8月23日に初めて被告人が太宰府の山中で佐藤が転倒したこと、地図上でその場所が筑紫野市付近であることを供述したかのように証言しているが、これまで検討してきたところからも明らかな通り、佐藤転倒の供述も地図上の特定も、遅くとも前日の8月22日になされているのであって、この点において既に佐々木検事の供述は信用できない。

 佐々木検事は意図的に8月23日が供述の転換点であるかのように見せ掛けている。

 c 8月23日付現場図面(一審乙40)は同日に作成されたのか

 佐々木検事は、8月23日付現場図面は同日に作成された旨証言するが、同検事自身、同日に被告人の署名押印と日付を記入させたものでないことは認めている。そうであれば右現場図面が同日に作成されたことの客観的裏付は何もない。

 また、加藤刑事作成に係る取調日誌(原審検35号証)によれば、8月24日の欄には「九州図面作成」の記載があるのに、8月23日の欄にはその旨の記載はない。佐藤の死体らしきものを「放置した場所(埋まっている可能性あり)」との記載まであり、8月24日付現場図面とほとんど同じ内容の図面が初めて作成された日に「九州図面作成」が話題にならないはずがない。

 そもそも右現場図面が真実8月23日に作成されたものだとすると、前日の捜査会議の結果を踏まえての現場図面作成であって、しかも図面にはわざわざ人が横たわっているように描いた上で、 「放置した場所(埋まっている可能性あり)」とまで記入し、いかにもそこに佐藤の遺体が放置されていることを示唆するかのような内容になっているのであるから、当然に即座にその図面に日付と被告人の署名を求めるはずであって、それを忘れるはずもなく、ましてや翌日まで待って日付を記入させる必要は何もない。

 さらに、佐々木検事は、8月24日付現場図面の「佐藤松雄さんを放置してきた場所(埋まっている可能性あり)」との記載について次のように弁護人の質問に対して供述している。

    「現場の略図ですけれども、この中の中央の下のほうに、佐藤松雄さんを放置してきた場所 (埋まっている可能性あり)と書いてありますね。この図面に関して、被告人が書き終わりましたあと、かっこ書きはなかったわけなんです。

 それで私が、佐藤さんは埋まっている可能性があるんだなとこういうふうに言って聞きましたところ、被告人が、埋まっている可能性もありますと、こう言うものですから、じや、埋まっているなら埋まっているということできちっと書かないと、これは裏付けの点でも困るから、埋まっている可能性もありときちんと書いてくれ、こういうふうに言いましたところ、被告人が、はい、わかりましたと言って、埋まっている可能性もありと、こういうふうに書きました。」(佐々木一審第8回公判・記録723丁裏)

「その次の8月24日の図見てください。8月24日の図の内、先ほどの話にも出たんですが、真ん中より下位に、「佐藤さんを放置してきた場所(埋まっている可能性あり)」ということばがありますね。

   はい。

最初、被告人は、この括弧書は記載しなかったわけですか。

   そうです。

埋まっている可能性もあるじゃないかと言ったのは証人が被告人に言ったわけですか。

   いえ、これはですね、わたしの方から言ったというよりも、話をしている中でですね、この、今までみつかっていないということは、じやどういうことなんだと、君は、ただ置いてきたと言うんだったら、これは、あの、見つかるじゃないかという話をしたわけです。で、それで、被告人に埋めてきたんじゃないかとこういう質問をしたわけですね。そういたしましたら、被告人は、いや、絶対埋めてきていませんから、あの、ここにあるはずですということだったんですね。で、しかし、それじゃ、あの、話がどうもおかしいと。で、この杉林は人は来ないのか、というようなことで話をしましたら、いや、きちんと杉が植えてあるところで、要するに植林してあるところだというわけですね。そうすると、あの、あまり人がまあ、五年間の間に一度も入らないなんてことは考えられませんから、そうすると、あの、人が入った可能性があると、それにもかかわらず見つかっていないというのはどういうことなんだと、そういう話をしていましたところ、まあ、埋まっている可能性もありますね、というようなことで、そういう、まあ、ことになったわけですね。」(同727丁裏~729丁表)

 これによれば、被告人は8月24日付現場図面を一通り描き終わってから、「佐藤松雄さんを放置してきた場所(埋まっている可能性あり)」との記載を書き加えたことになる。ところが、8月23日付現場図面にも「放置した場所(埋まっている可能性あり)」との記載があるのはどのように考えればよいのか。

 真実、8月23日付現場図面が同日に作成されたのであれば、佐々木検事が供述するような8月24日付現場図面の記載に関するやり取りはおよそ生じようもない。同検事の供述に照らせば、8月23日付現場図面も24日に作成されたことになるのである。

 佐々木検事の次の供述からも、同様のことが指摘できる。

「先程証拠に提出しました弁第1号証から四号証までは60年8月4日に被告人が書き、弁第5号証から8号証までは60年8月22日に、被告人が55年7月25日のことを書いているわけですけれども、従前からこういうふうなことを詳しく書いているにもかかわらず、60年8月23日の日は裏付けをしなければいけないと思った理由はあるんですか。

   ………。今の23日のことですか。

ああ24日です。24日に裏付けをしなければいかんと………。

   それはですね、一つには、死体がここにあると思いますと彼が言ったからです。」(同719丁)

 これによれば、被告人が佐藤の死体の供述を始めたのは8月23日ではなく、24日ということになる。ところが、8月23日付現場図面にも「放置した場所(埋まっている可能性あり)」との記載があるということは、やはり右現場図面が24日に作成されたことを示唆しているのである。        .

 8月23日付現場図面の作成経過に関する被告人の公判供述の内容は、8月24日に同日付け現場図面(一審乙41号証)の作成前に下書として作成し、9月になってから他の図面と一緒に日付を記入したというものである。

 実際、8月23日付現場図面はその内容としては8月24日付現場図面とほとんど変わらず、かえってそれをラフに描いた体裁になっていること、8月23日付現場図面の裏側には中洲の川のほとりの6F建以上の鉄筋ホテルの図面が描かれていて下書き的に使用されていること、

8月23日付現場図面の日付及び署名の字体は8月24日付現場図面の日付及び署名の字体と異なっていてそれよりも崩した字体になっていて、9月3日付図面(一審乙44・45号証)の字体に似ていること、

に照らせば、被告人の弁解は十分に信用できるものである。

 d . 8月23日の裏付け捜査はどこまでなされたのか

 佐々木検事は、取調べを一時中断して別室から筑紫野署に電話して、当直警察官に「筑紫野市内に坂部、岩本という場所がありますか」と尋ねたところ、「筑紫野市内に坂部、岩本という場所はありません」との返事だったので、その日には被告人の供述の裏付けはできなかったというのであるが、これも信用できない。

 なぜなら、警察署の当直員は最低でも4、5人はいるはずで、一人が知らなかったからと言っても、残りの者も知らなかったということはあり得ないし、そもそも当直員は、たとえ転勤して間もなくであっても、緊急時に対応するために当直をするのだから、当直員が管内の地名を知らないということ自体があり得ない。

 しかも、当直員がいる近くには管内の地図が必ず貼り出されているはずである。

 それも、裏付けをとるためにわざわざ東京地検の検事が直に筑紫野署に架電しているのだから、筑紫野署の当直主任(階級としては警部補以上)が電話の応対に出るはずであって、地名すら知らないということはおよそあり得ないし、架電した佐々木検事としても、坂部・岩本という地名があるのは確かなのだから、当直員に地名を知らないと言われただけで裏付けを諦めるということは捜査の常識からしてあり得ないことであるからである。

 さらに、8月23日当日は、佐々木検事の取調べに先立ち、警察の取調べが午前中なされており、そこでは金銭消費の状況ばかりか、九州関係の取調べもなされていた(原審検35号証8月23日の欄参照)のであるから、警視庁からの現地問い合わせなども当然行われていたとみるべきである。そうすると、一層、23日に裏付けがとれなかったなどあり得ない話になってくる。

 e. 2万5千分の1の地図の購入

 8月24日に太宰府の2万5千分の1の地図を購入してきたのは加藤刑事である。加藤刑事は佐々木検事と白石警部補の両名からの下命を受けて(原審加藤第11回公判速記録46丁裏)、この地図1枚だけを、これだという目星を付けて買ってきたという(同48丁裏)。

 太宰府近辺の山が入っている地図はこの1枚に限られないし、被告人の指摘する場所がどこであるのか具体的に特定されていない限り、1枚だけ2万5千分の1の地図を購入するなどということはあり得ない。何枚もの地図のうちからたった1枚だけを、これだという目星を付けて買ってきたということは、とりもなおさず太宰府の変死体の発見場所がその地図の中に含まれていることが捜査官に既に判明していたからに他ならない。

 f. 8月24日の佐々木検事の取調べ(総論)

 同日は、午後2時から佐々木検事の取調べが開始され、それ以前は警察の取調べもなかった(原審検35号証)。

 この前後の時期で午前中の取調べがなく、午後の取調べも2時まで行われなかった例はなかったのであって、取調べ開始時期が異常に遅くれていること、及び前述の2万5千分の1地図の購入状況などとも照らし合わせると、午後2時までの間に取調べのための徹底した下準備がなされていたと考えられ、取調べ前にはほぼ場所の特定ができてきていたと考えるべきである。

 佐々木検事の証言によると、午後2時に取調べを開始した後、

被告人に2万5千分の1の地図を示して現場を確認し、

地図のコピーに3か所丸印を付け、

同日付現場図面を作成させ、

8月23日付現場図面に日付と署名を記入させ、

午後3時半ころに警視庁の別室から御笠駐在所に電話して現場の確認をし、

午後4時頃には筑紫野警察署に電話して変死体の確認をした

ことになるが、わずか1時間半弱の時間で2万5千分の1の地図上で場所の特定をし、一審判決が「現実に現場を詳しく見て歩いた者でなければ容易には再現できないほどに、細部にわたり見事にまで符合している」という8月24日付現場図面まで作成する(しかも佐々木検事の証言によっても、右現場図面の作成に当たっては、図面に記載されている「埋まっている可能性あり」「段差」「下草」等については検事と被告人との間のことばのやり取りを経た上で記載されている)ことが現実に可能なのであろうか。

 これは捜査機関において既に変死体発見場所を特定し、現地に確認が取れていない限り、時間的に不可能な話である。佐々木検事の証言を信用するならば、取調べ開始前には場所の特定が完了していたことになる。         、


 また、当日の取調べは午後10時過ぎまでなされているが、佐々木検事の証言によると、変死体遺棄現場の確認は遅くとも午後5時頃には完了しているはずであるから、その後の5時間は何がなされたのであろうか。

 佐々木検事の証言によれば、佐藤の死体遺棄現場が被告人の供述によって初めて判明したのであり、しかも、被告人は前日から涙まで流して捜査に協力して、自発的に秘密の暴露までしたということになるのであるから、何をさておいてもさらに取調べを進め、一気に自白をとろうとするのが当然ではないか。

 時間も5時間もある。まさに、自白獲得の正念場、格好の機会ではないか。それがなされなかったというのは、信じ難い話である。この取調べ終了時刻の遅さは、「i. 現地の警察署・駐在所に架電した際の状況」でも述べる通り、現地との調整作業が繰り返しなされたことを示しているものにほかならない。

 g. 8月24日付け地図(一審乙42号証)

 被告人は「佐藤松雄さんの遺体があると思われる場所」として、太宰府の2万5千分の1の地図の3ケ所に丸印をつけ、「この3つのうちのどれかでしょう。」と指示したというのであるが、これは極めて不日然である。この不自然さは誠に理解し難いものであり、弁護人は再三にわたってその不自然さを指摘したのに、原判決は何らこの点に答えていない.


 まず、取調官の側にとって、地図上に丸印をつけさせるのは場所を特定するためであって、場所を特定するというからには、丸印は1つでなければ特定したことにはならない。これまでの捜査史上で、丸印を何箇所も付けてそれで場所を特定したという図面があったであろうか。

 佐々木検事は「幅広くやっておかないと該当する地形がなかったということになると、またやり直しになるので、ある程度幅広く丸を付けて貰った方がいい」(佐々木一審第8回公判・記録726丁表)

という説明をするが、それであればそれらを含む大きな丸を1つつければ足りるのであって、丸印を3つもつけたことについておよそ説明になっていない。

 また、「被告人は、地図の実線部分が道路なのか点線部分が道路なのか分からないので、まあ道路と思われる部分に丸を付けますということで、丸をつけた」(佐々木同・記録725丁裏)というが、それであればやはり小さな、限定的な丸印を3つつけるのではなしに、大きな丸を1つつければいいのである。

 そもそも3つある丸印は地図の実線部分が道路なのか点線部分が道路なのか分からないということで説明がつくものなのであろうか.一審乙42号証を見るならば、そのうちの上の2つの丸印は近接していて、点線部分と実線部分に付けられているが、下の1つは距離的にも離れていて、隣の集落である「本道寺」に付けられているのであって、点線部分と実線部分のどちらが道路か分からないということではおよそ説明が付かない箇所に付けられている。

 しかも、佐々木検事の供述によると、検事が架電した際に御笠駐在所員の話では、「本道寺」からは白骨死体が出たことがある(しかし、実際には白骨死体は本道寺では発見されていない)ということになると(佐々木一審第7回公判・記録434丁表)、それは佐々木検事の誘導を端的に物語っているというほかないのである。

 h. 8月24日付現場図面(一審乙41号証)

 8月24日付現場図面は佐々木検事の誘導によるものであって、その端的な証拠が「70cm~1m位の段差あり」との記載である。このような段差は昭和55年当時には存在せず、右現場図面作成時の現況を示しているのである。

 この点は原審の検証によっても明らかであったにもかかわらず、原判決は

      「原審証人大塚保美の供述及び死体発見当時の現場写真によると死体のあった杉林はそこに至る平地よりも一段と低くなっていたことが窺われ、図面に描かれた「段差」という場所付近に、昭和55年当時段差と表現しても不自然でないような高低差のあったことが認められることに照らしても、右段差の記載を根拠に佐々木検事による誘導をいう所論も失当である。」(45丁表)旨判示した.

 しかしながら、原判決判示は明らかに、故意的といってよいほど誤っている。原審大塚保美の証言の関係部分を掲記すると、次の通りである。

「検察官

写真19のどのあたりが死体発見現場ですか。

    写真の左の石のやや左側を左斜め下に降りていく格好でした。

勾配はどうでしたか。

    測量機がなかったので、はっきりした数字で角度をいうことはできませんが、現在の南側取付道路北側のスロープ状態が、当時、南側取付道路から死体発見現場まで、ずっと続いていく感じでした。(尋問調書3丁表)」

「写真から、あるいは、実況見分をされた際のときの記憶から考えて、南側取付道路と死体発見現場までの高低差は、どの位あったと考えられますか。

    スロープ状になっていたので、高低差がどの位かよく記憶していませんが、段々畑のように少しずつ下がっていました。

杉林の入口を写した写真20では、杉の幹は写っていないのに、写真23では杉の幹が写っていることから考え、少なくとも写真3に写っている杉の幹くらいの高低差があったのではありませんか。

    スロープになっているので、撮影の角度によっては幾分違いますし、写したのが必ずしも平行ではありませんので、写真からは、一概にどの位の高低差があったのかなんとも言えません。(尋問調書4丁表)」

「弁護人

さきほど、証言の中で、段々畑という言葉と、スロープという言葉を使われましたが、どのような関係ですか。

    段々畑といっても、明確な段々ではなく、この現場付近が、北から南の方向にあるいは、西から東の方向に流れる下り勾配で、全体が谷間になっていますので、部分によっては段があったり、平地があったりし、全体的に見るとスロープになっているということです。(尋問調書5丁表)」

 右の尋問調書の引用からも明らかな通り、検察官の尋問の意図は、死体発見当時の現場写真から現地の高低差が大きいことを引き出そうとしたものであったが、大塚の証言はこれを否定するものであった。

 原判決の論法は、大塚の証言によって否定された検察官の論法そのものである。また原判決は「段差」を「高低差」にすり替えてしまっているが、大塚証言から明らかになったのは、「スロープ状」ということであって、「段差」という槻念とは相容れない状態であった。

 さらに、変死体の第一発見者である山下登は原審において次のように証言している。

「弁護人

どのような感じで杉林に降りていかれたのですか。

    だらだらという感じです。

現在南側取付道路と杉林があったというところとは、1メートル位の高さの違いがありますが、当時はどうでしたか。

    もう少しゆるやかでした。当時はこんなに土が見えず、薄暗くなっていて、杉林に入るところだけ、草が切れていて降りやすくなっていました。

この付近一帯の山の斜面という感じでしたか。

    はい。(尋問調書3丁)」

「南側取り付け道路から死体発見現場までは、今よりももっと緩やかだったということですが、山の斜面がそのまま続いているといった感じですか。

    最初少し勾配がついていて、あとは、もっとなだらかになって7メートルより先の方に続いていました。

最初の勾配というのは、はっきりした斜面でしたか。

    はい、そうです。10度か15度くらいじゃないでしょうか。

滑りそうな感じでしたか。

    いいえ、大人なら楽に歩ける位でした。

裁判官

死体発見現場と南側取付道路との間のスロープの程度は、公園にある滑り台と比べてどうでしたか。

    そんな勾配ではなく、もう少し緩やかでした。(尋問調書7丁裏)」

 山下証言からも明らかな通り、死体発見現場と南側取付道路との間は「山の斜面がそのまま統く」「だらだらした」「緩やかな」スロープにしかすぎなかったのである。

 しかも、検証当時、現在ある段差のおよその高さは80cmであった(平成元年5月30日付検証調書(四)第三の41)ところ、山下は現在よりももっと緩やかであったとして80cmもなかったことを認めているのであって、8月24日付現場図面にある「70cm~1m位の段差」とは全く異なる状態にあったことは明らかである。

 原判決の言う「昭和55年当時段差と表現しても不自然ではないような高低差」など記録のどこを探してみても見つからないのである。判決は明らかに誤っている。

 i  現地の警察署・駐在所に架電した際の状況

 佐々木検事は、別室に行って刑事に筑紫野警察に電話してくださいと頼んだところ、刑事は地形とかそういうことを尋ねるのてあれば、本署よりも地元の駐在さんの方がよく知っているんじゃないですか、駐在さんの方に聞いてみましょうということで御笠駐在所に電話した(佐々木原審第7回公判・記録430丁裏)というのであるが、これも不自然である。

 まずどうして現地に一番近い駐在所が「御笠駐在所」であると分かったのか。2万5千分の1の地図には変死体発見現場である柚須原部落近辺の駐在所は記載されていないし、そもそも「御笠」なる地名も見当たらない。

 しかも、白石によれば、佐々木検事は図面一枚(一審乙41号証)を持ってきて、太宰府周辺にこのような地形のところがあるか調べたいから、その付近を管轄する警察署へ電話をかけてくれと言 ってきた(白石一審第25回公判・記録2207丁表)というものであるところ、一審乙41号証の現場図面自体は8月4日付現場図面(一審弁4号証)とほとんど変わらないものであって、これで現場の確認をしようというのはほとんど困難と言わざるを得ない。

 そもそも8月4日付現場図面では、8月5日から7日までかけて九州太宰府まで裏付け捜査に赴きながら、その場所を特定できなかったという経過がある。それにもかかわらず、同じような図面を用いながら、今回はその特定ができたということであれば、御笠駐在所に電話するまでに、相当の情報が収集されていたと考えざるを得ない。

 また、加藤刑事は、筑紫野署に架電するまでの経緯として、

    「前々から太宰府のこと言ってますので、白石主任にそのことを何回もお互いに話をしまして、白石主任が向こうの警察へ警察電話で連絡取って、いろいろ話をした後に、佐々木検事が電話をかけていたようでした」「(この日は筑紫野署へ)何回か電話をしたと思います」(加藤原審第11回公判速記録7丁裏~八丁表)

と述べていて、佐々木検事がいかにも被告人の図面に基づいてすぐに現場の確認がなされたかのように証言しているのとは異なって、何度も筑紫野署周辺に電話をしながら、捜査を進めていたことが窺われる。

 また、佐々木検事が御笠駐在所の駐在員に電話した内容も不自然である。

 通常、他の捜査機関に対して捜査協力を依頼するのであれば、最低限、事件の概要と協力依頼の理由を相手方に説明するのが礼儀であり、またそうしないと相手方としても協力に困ると考えられるのに、佐々木検事の証言の中にはそのような説明をしたという形跡はなく、あたかも既に意が通じているかの如くである。

 また、御笠駈在所の駐在員は変死体について「本道寺」と述べ、それは結局、「柚須原」の間違いであったようであるが、これも不自然である。地元の駐在所には当然迷宮入りになった変死体のポスター等が電話のそばに貼り出されているはずであり、変死体の場所を間違えるはずがない。

 また、その後、白石警部補が筑紫野署に電話して、変死体のことを聞いた状況も不自然である。

 既に警察としても、8月22日の捜査会議で九州方面に捜査方針を変更し、同日及び23日の取調べで被告人から場所の概略の特定は受けていたはずであり(原審検35号証によれば、22日には午前10時40分~12時10分及び午後5時20分~午後11時40分まで九州関係について取調べを行い、翌23日も午前10時45分から午後1時まで金銭消費の状況及び九州関係について取調べを行っていたことが明らかである)、またそれ以前から太宰府の変死体のことを被告人が繰り返し述べていたのだから、白石警部補が8月24日に電話して確認した程度のことはこの日を待つまでもなく確認可能であった。

 それが佐々木検事からの指示があって初めて現地に確認したであるとか、電話一本で分かることが8月24日になって初めて柚須原で変死体が発見されていたことが判明したなど茶番も甚だしい。

 当日の筑紫野署・駐在所とのやり取りは、佐々木検事の証言にあるような表面的なものではなく、午後10時過ぎにまで及ぶ、さらに詳細な事項にわたるものであったことは容易に推測される。

 以上、縷々述べてきた通り、被告人の指示によって初めて佐藤の死体遺棄場所が判明したという佐々木検事の証言はおよそ信用できない。

 捜査の状況に照らすならば、昭和60年8月24日午後2時までに捜査機関は太宰府の変死体遺棄現場にたどりついていたと言うべきであり、その日の取調べは、秘密の暴露のような形を作るための資料作成にあてられたと考えられるのである。

 少なくとも佐藤らしき変死体遺棄場所は、8月24日午後2時の佐々木棟事の取調べ開始までには捜査機関には容易に判明し得た事実であった。

 これらが被告人の供述・図面によって初めて判明したなどということはあり得ないことであって、秘密の暴露にはあたらないと言わざるを得ない。

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