14.ベッドの血痕とメモは秘密の暴露か

  2. 博多城山ホテルのべツドの血痕とメモと五千円札は秘密の暴露か

  (1)原判決の判示

 この点につき、原判決は次の通り判示する.

      「次に、犯行場所について検討すると、原判決が挙示する関係各証拠によれば、被告人は、昭和60年8月23日に佐々木検事の取調べを受けた際、佐藤が昭和55年7月24日に宿泊した場所として福岡市博多区中洲のホテルの図面を描き、昭和60年8月29日の警察官の取調べにおいて、始めのうちは太宰府山中の小川で頭部を石で殴打し更にビニール紐で首を締めて殺害した旨供述していたが、調べが被害者の陰茎が切除されている点に及びかけるといきなり前言を翻し、被告人が前記ホテルの6階の部屋に行ってみたら既に佐藤が頭から血を出してベッドの上で死んでいたというのが真相である旨供述し、佐藤が死亡しているのをみてとっさに佐藤の財産に目がくらみ、死体を処分し佐藤の財産を自己のものにしようと邪な考えを起こし、古い間口の非常に広い店で段ボール箱等を入手し、死体をビニール紐で縛り血で汚れた寝具頬と一緒に箱に詰め、太宰府の山中に運んで遺棄した、

 その際、二台あるベッドのうち窓際のほうのベッドの枕元の左側に多量の血が付着していたので、部屋の中に「汚してすみません」 と記載したメモと5千円紙幣1枚を置いてきたことなどを説明し、そのホテルの外観や佐藤が死んでいた部屋の様子、さらに佐藤の死体を緊縛してダンボール箱に詰めた様子等を白紙に書いて提出したこと、被告人の右供述や作成した図面に基づき裏付け捜査をした結果、福岡市博多区中洲5丁目の博多城山ホテルが被告人の供述に最も近い位置、外観を呈しており、その414号室において、被告人が供述したとおり、昭和55年7月ころベッドが多量の血で汚れ、5千円紙幣と謝罪の言葉を書いたメモが置かれ、同室からベッドのシーツ、毛布、ベッドパッド及び枕が紛失していた事実が存在したことが判明し、前記の被告人の供述が裏付けられたことが認められる。

 なお、当審における事実取調べの結果によれば、警視庁捜査第4課の岩間四郎ほか三名の捜査員が、被告人が昭和60年8月30日ころに作成した中洲のホテルと題する図面及びホテルの内部の様子を描いた図面(これらの図面は、被告人が同月29日に作成したという前記の図面をやや詳しく書き直したものと認められる。)のコピーを渡され、福岡に出張してその図面に描かれているホテルの特定その他の裏付け捜査をしてくることを命じられ、その際、上司からホテルを特定するうえで参考となる事項として、被告人が、その部屋は6階の階段から一つか二つ目の部屋でツインベッドが置かれ、窓際のベッドの上に血痕があり、入口に近いベッドの上にメモと5千円紙幣を置いてきたと述べている旨、口頭で付加説明を受けたこと、福岡に着いた岩間らは中洲を中心に自動車で巡回し、博多城山ホテルが被告人の描いた図面に酷似し、他に該当するようなホテルが見当たらなかったので、右博多城山ホテルにつき血痕等に関して聞き込みをしたが、ホテル職員は心当たりがないという答えだったこと、その次第を捜査本部に報告したところ、ホテルの清掃関係を調べてみるよう指示され、株式会社シンコーが同ホテルの清掃を請け負っていたところから、当時シンコーから同ホテルに派遣されていた掃除婦を集め事情を聴取したところ、矢野トメ子がそのころ四階のツインの部屋の窓際のベッドに付着していた多量の血の清掃に苦労し、同僚の川畑千代子にベッドの掃除を手伝って貰った事実が判明し、しかもそのとき、被告人が言うように窓際のベッドのシーツ等がなくなっていてベッドマットが剥き出しになっており、メモと5千円紙幣がその隣のベッドに置かれていた事実まで判明したことがいずれも認められる。(中略)原判決がこれら一連の事実をもっていわゆる秘密の暴露に当たると判示したことに誤りはないというべきである。」(50丁表~53丁裏)

   (2)被告人の供述したホテル・血痕・メモ・五千円紙幣は捜査の結果客観的事実であると確認されたのか

  「秘密の暴露」として自白内容の真実性を客観的に保障するものであると言うためには、その事実が「捜査の練果、客観的事実であると確認される」必要がある。

 被告人がホテル・血痕・メモ・五千円紙幣の存在をいつ供述したのか自体にも(3)に述べるような問題があるが、これらが「秘密の暴露」にあたるかどうかについては、この確認の要件を満たしているかどうかが最大の問題である。

  被告人が供述したホテルは博多城山ホテルか

 被告人が供述した中洲のホテルが博多城山ホテルではないことは、弁護人の控訴審弁論要旨224~233頁に詳論した通りである。

 即ち、被告人の作成したホテルの図面は、昭和60年8月22日付図面(一審弁8号証)、8月23日付図面(一審乙40号証裏)、8月29日及び同月30日に作成したと検察官の主張する図面(原審検57号証添付図面)の4枚であるが、これらの共通の特徴点は、

 a  川の左岸に位置すること

 b  三叉路の角地に位置していること

 c  五階建以上の鉄筋ホテルであること

 d  ホテルの川に向かっていない面の歩道に植え込みがあること

 e  川に向かっている面よりも向かっていない面の方が長い長方形のホテルであること

 f  川に向かっていない面にホテルの入口の一つがあること

てあって、これらは一貫している。ところが、城山ホテルは

 A 川には面しているが左岸ではなく、右岸にあり、

 B 三叉路の角地には位置しているが、域山ホテルの地理的特徴として誰もが指摘するのは三叉路ではなく那珂川にかかる西大橋の北東角地の十字路の交差点に位置することであり、

 D 川に面した歩道に植え込みがあり、

 E 川に面した方が長い長方形であって、

 F ホテルの入口はすべて川に面した方にある。

 かろうじて合致しているのは、BとCのみである。もっとも、各特徴点は概略一致しているではないかとの反論もあり得ようし、実際、原判決は弁護人の右のような指摘に対して何ら応答していない。しかしながら、これらの特徴点の不一致は無視しさることは許されないのである。

  なぜなら、aについては、城山ホテルは博多駅及び福岡空港の北西に位置しており、かつ城山ホテルの入口に面している道路は南から北への一方通行路であるから、城山ホテルヘ向かう者は南から北ヘアブローチすることになる。そうすると、城山ホテルに来る者は那珂川を左に見て川の右側にホテルを見ることになるから、ホテルの所在図を描くときはホテルの左側に川の図を描き、その逆はあり得ない。

  def、については、いずれもホテルと川との位置関係についてホテルの正面が川に面していないことを表している。

 ところで、ホテルが川に面した構造になっているかどうかはホテルのイメージを全く異ならしめるものであり、通常の観光ホテルであれば川に面した立地をとるものであるにもかかわらず、あえてホテル正面が川に面していないように描いているのは、そこには無視し得ない立地の遅いがある。

  さらに、bについては確かに被告人の供述するホテルも城山ホテルも三叉路の角地に位置しているのであるが、城山ホテルの所在図を描く者はむしろ那珂川西大橋の北東角地の十字路の交差点を強調するはずである。

  道路幅員にしても北東角地の十字路の方が圧倒的に広く、目印は何と言っても西大橋だからである。しかも、昭和55年7月当時は、西大橋は橋梁の架替工事中であり、城山ホテルの中腹に西大橋の仮橋がつけられているという特殊な状況にあったのであり(原審弁31号証)、これは当時城山ホテルを訪れたことのある者であれは誰もが指摘する事柄であった。それにもかかわらず、城山ホテルを指示するのに、橋との関連性も示さず、単に三叉路だけ指摘することはあり得ないことである。 

 さらに、8月22日付図面(一審弁8号証)について言うならば、同図面には、「佐藤が『ここが中洲だ』と言った後、駐車を指示し、15分程車から出た場所」の所在図のほかに、アーバンホテルの所在図と、「福岡インターチェンジを昇って太宰府インターチェンジを降りる途中にパーキングエリアあり、そこに立ち寄って用便をする」旨の記載があわせてなされている。

 そのうち、アーバンホテルの所在図については、博多駅とレンタカー営業所とアーバンホテルの位置関係は正確に描かれているし、また九州自動車道についても福岡インターチェンジと太宰府インターチェンジとの間にパーキングエリアがあることも事実であって、被告人の地理感覚・方位感覚が極めて正確であることを示している。しかるに、「ここが中洲だ」として記載されたホテル所在図だけは、これが城山ホテルであるとすると、ホテルと川との位置関係が左右逆になり、ホテル入口の位置も川に面していないことになって、これだけが事実と相違していることになる。

 しかし、同一の図面に描かれた三つの場所のうち、一つだけが事実に反しているというのは信じられないことである。 

 以上述べてきた通り、被告人の供述したホテルは博多城山ホテルとは異なると言わざるを得ない。

 そもそも被告人が描いたホテルの図面はいずれもホテルの周辺だけを描いたものであって、地図の上に特定されたものではないから、被告人の供述するホテルが城山ホテルであるかどうかは被告人の描いた図面の特赦点がすべて現実に合致しない限り、「似ている」という程度の粋を越えないものであって、到底「客観的に特定・確認し得た」とは言えないものであることは明らかである。

 このことは佐藤の死体遺棄現場を描いたとされる現場図面についても同様に言えることである。

 

 血痕・メモ・五千円札は確認されたか

 被告人の血痕・メモ・五千円札に関する供述の内容を被告人が8月30日頃作成した中洲のホテルと題する書面(原審検52号証)で確認すると、

 a  ホテル6階の、ホテル端に位置する階段から二つ目の、ツインのベッドの置かれている客室において、

 b  窓際のベッドの枕元及びそこと窓との間の床に血だまりがあって、そのベッドの足元付近の床にも血が落ちている、

との内容になる。

 被告人が作成した図面には、メモと五千円札のことは記載されておらず、メモと五千円札は被告人が口頭で述べた(被告人が何時それを述べたかについては後に述べる通り問題がある)というだけのものであるが、原審岩間証言及び岩間が右図面に書き込んだ記載部分(原審検52号証) に従うと、

 C  入口寄りのベッドの枕元付近にメモと五千円札を置いた、

との内容になる。

 

 さて、それではこれらの事実が捜査の結果、客観的事実として確認されたのであろうか。

 まず、客室の階数(a)については、一審判決・原判決が認定したのはホテル6階ではなく、4楷の414号室の血痕にすぎない。

 原判決はこれを単なる被告人の記憶違いとして排斥しているが、犯人であれば客室から白昼堂々とエレベーターを使用して佐藤の死体を1階まで搬出するのであるから、その間、第三者がエレベーターに乗り込んでこないか不安におののきながらエレベーター内の階数表示を凝視していたはずであり、その階数を勘違いすることなど絶対にあり得ないのである。

 

 次に、血痕付着態様(b)については、ホテル清掃員である矢野トメ子らが目撃した旨証言するものにしか過ぎず、客観的事実として血痕が確認されているわけでもない。

 しかも、被告人の供述する血痕が確認されたものではないことは、次の通り原判決も認めている。

 

 「前記矢野が血痕を見たのは昭和55年7月ころというだけで日についての記憶はなく、

 しかも血痕が広い範囲にベっとりと付着しベッドマットに染み込んでいたという状況から吐血ではないかと思ったと述べていること、

 同女の見たという血痕はベッドの向かって、左端上部にあり、被告人が供述する血痕はベッドの向かって右端上部にあってその位置が符合しないこと、

 佐藤の身体の損傷として頭部打撃による頭蓋骨骨折と男性器切除が確認されているが、そこからの出血量は前記木村証言から10ミリリットルないし14ミリリットル程度と推定され、矢野が見たと供述するほど多量ではない疑いがあること、

 当審証人山崎マツコの供述によれば、同女も同年9月ころ右414号室の床上に30センチメートル×30センチメートル大の吐血と思われる血痕があるのを見たと言い、

 同ホテルのフロント主任今永幹雄の供述によってもホテルのベッドが血で汚れているのは珍しいことではないことが窺われること、

 原審証人川畑千代子が矢野に言われ414号室のベッドの血の清掃を手伝ったことがあるが、血がいっぱいついているという印象ではないと供述していること

などに徴すると、矢野が証言した血痕の状況が果たして本件の7月25日のものか或は別の機会のものか必ずしも判然とせず、同女に記憶の混乱がある疑いがないとはいえない」(52丁表~53丁表)

 

 最後に、メモと五千円札(C)はどうか。

 これも単に矢野が目撃したと言うにすぎず、客観的にその存在が証明されているわけではない。

 しかも、原審検52号証の「メモと五〇〇〇」の記載が被告人の供述に基づくものであるとすると、その位置はベッドの枕元あたりであるのに対し、矢野が見たメモと五千円札は「部屋を入って手前のベッドの足元の、部屋の入口のほう」にあった(一審矢野公判速記録第1回5丁)と言うのであるから、位置がずれている。

 とりわけ血痕・の清掃は川畑もこれを手伝ったのに、メモと五千円札の件は何も証言していない。

 矢野は川畑に

「お客さんがこんなにして、お金とメモを置いてありますって見せまして、一人ではこわいから手伝 って下さいませんかとお願い致しました。」(一審矢野公判速記録第1回11丁表)

と証言しているのに対し、川畑はこれを全く覚えていないのであって、矢野証言は裏付に全く欠けるのである。

 要は、矢野が供述しているというに過ぎない。

 

 それでは、矢野の供述は信用できるのかというと、弁護人の控訴趣意書78頁以下に詳論したとおり、矢野は証言時においても既に5年以上も前の出来事(それもホテル客室の清掃の中ではよくある日常的な出来事の延長線上の出来事)について、確たる根拠もなく「414号室だから414号室だ、なくなっていたからなくなっていたのだ等と」証言しているにしか過ぎず、あげくのはてには確たる理由もないまま、一回目と二回目の証言とで部屋にあった灰皿の大きさについて供述を変更しているのであって、到底「秘密の暴露」の裏付けとして信用し得るものではないのである。

 

 はたして次に引用するような証言が被告人の自白の信用性を高めるものとして受け入れることができるのであろうか。

 そこにあるのは単なる思い込みではないか。

 

弁護人

先程、証言で五五年の七月という話が出ましたね。

    はい。

七月であるということは、どうして記憶してるんですか.

    それが、なかなか思い出せませんでしたけど、毎日忙しいときでしたから、何月でしたかねって考えておりましたら、栗原さんが、私が日報書いてるよつておつしやいましたから。見せていただきました。

その日報を見て、どうして七月だとわかったんですか。

    私が4階をしまして川畑さんが5階をしてありましたから、すぐにわかりました。

このホテルは同じような部屋の造りですね。

    はい、そうです。

なぜ、あなたが血を見たのが4階であるということが断定できるんですか。

んですか。

    そういう血がつくということは、まずございませんから。

それはわかるんだけれども、血がついていたという記憶はあるんだろうけれども、それが4階であるということが、なぜわかるかということをお聞きしてるんです。

    4階をしていたときに血がついて私がこわかったのと、川畑さんに手伝ってもらったのとで、すぐに分かりました。

例えば、55年の10月であれば、あなたが5階をやってて川畑さんが6階をやってるでしょう。

    はい。

もしかしたら、そのときのことかもしれないんじゃないですか。

    いや、そういうときには、そんなに川畑さんに上のほうに頼みに行ったりは致しません。割と、下のほうは下のほうで3、4、5と手伝い合っておりましたから。

そうすると、あなた自身の記憶で7月だというんじゃないけど、栗原さんのメモを見て考えてそういうふうになったわけですか。

    そうですね。それと、私が毎日忙しかったのは山笠とかいろんな忙しいときのきっかけとかをずっとくっていって、やはりそうだと思いました。

警察からは、その血を見たのが55年の7月ではないかというふうに尋ねられませんでしたか。

    いや、いつごろか覚えてありますかと言われましたから、もう私も主人のことは言いたくありませんでしたけど、主人が亡くなる前ではありませんでしたと、主人が亡くなった月を伝えました。

4階にはいくつか部屋があるんですが、414号室だということはどうしてわかるんですか。

    いや、414号室をしているときに血がありましたから。

ですから、それが5年も前の話なんだけれども、414号室だということがどうして分かるのか。あなたの記憶の中では、ただ、血を見たということだけを覚えているんじゃありませんか。

    どういう意味でしょうか。

要するに、ご主人が亡くなった後にベッドに血がついている部屋を掃除したことがあるという記憶はあなた自身にあるのかも知れないけれども、それが414号室のことだったということをはっきり断定できる根拠があるんですか。

    はい、ございます。小さい部屋とか、ほかの部屋ではございませんでしたし、私の主人も少し血をはいて亡くなりましたから、その後、すぐ血を見ましたから、よく記憶にございました(注・矢野の夫の死亡は昭和55年2月)。(一審矢野公判速記録第1回20丁表~21丁裏)

 

 それにもかかわらず、原判決は、前述した通り、血痕の状況については

    「果たして本件の7月25日のものか或は別の機会のものか必ずしも判然とせず、同女に記憶の混乱がある疑いがないとはいえない」

としながら、メモと五千円札については

    「ベッドの上に謝罪のメモと5千円紙幣が置かれていたという事例はかなり特異なことであるから、矢野がいう血痕の状況そのものはそのときのものでないとしても、血痕でベッドが汚され、謝罪のメモと5千円紙幣が置かれていたというのは事実と思われる」(53丁)

と判示した。

 

 しかしながら、「特異」 と言えば、メモと五千円札よりも、吐血ではないかと思われるほど血痕が広い範函にべっとりと付着しベッドマットにも染み込んでいたという状況の方がよほど「特異」ではないか。

 とりわけメモにお礼のことばが書いてあったり、お金が置いてあったりすることは、掃除をしているとよくあることは矢野も認める通りであり(一審矢野公判速記録第1回29丁表)、メモに記載されていた文言にしても格別に「特異」な文言で明瞭に記憶していると言うのであればともかく、

「掃除とか洗濯をしてくださいとか、その代にして下さいとか、書いてあったような気が致します」

(同5丁裏)

という程度で、正確な表現は覚えていないというのであるから、血痕の状況と切り離して、メモと五千円札だけが信用できるということにはおよそならないと言わねばならない。

 

 さらに、付言するならば、矢野は血とお金とメモ紙は一体のものとして記憶し供述しているのであるから、血痕が崩れればその他のお金とメモ紙も同様に信用できないと言うべきであるし、また原判決は

「前記矢野が血痕を見たのは昭和55年7月ころというだけで日についての記憶はな(い)」ことは認めているのであるから、メモと五千円札についても同様に昭和55年7月頃というだけで日時の特定はできないというべきである。

 原判決は論理としても破綻しているとしか言い様がない。

 そうすると、血痕もメモも五千円札も、いずれも客観的事実としては確認されていないのである。

 

 (2)メモと5千円の存在は捜査官は知り得なかったのか

 

メモと5千円札の供述は8月29日になされたのか

 8月29日に被告人が中洲のホテルの客室内にメモと5千円札を置いてきたと供述した旨証言しているのは一審証人白石警部補である。

 また、原審証人岩間警部補も、8月30日に九州出張の下命を受けた際、客室ベッドの上にメモと5千円を置いたと被告人が供述しているとの説明を受けた旨証言している。

 しかしながら、これらはいずれも捜査官の供述証拠に過ぎず、客観的証拠としては何もないのである。

 即ち、被告人が作成したホテルの図面のうち、メモと5千円の記載のあるものは何もない。

 岩間警部補が九州出張の下命を受けた際渡されたという「中洲のホテル」と題する図面(原審検52号証)には、血痕の記載はあるが、メモと5千円の記載はない。

 もし被告人がメモと5千円を置いてきた旨供述していたのだとすれば、図面にその旨の記載がないということはあり得ない。

 なぜなら、メモと5千円の存在はそれを置いてきた者でなければ供述できない特異な事実であり、捜査官からすれば裏付け捜査をする際に極めて重要なメルクマールになるからである。

 

 しかも、右の「中洲のホテル」と題する図面を作成させたのは、裏付け捜査のためにわざわざ詳細に作成し直したものなのである(一審高橋弘警部第25回公判速記録3丁表、6丁裏~7丁裏)から、この時点で被告人がメモと五千円の話をしていたのであれば、捜査官としては当然その旨記入させたはずである。

 

 また、白石警部補作成の昭和60年9月13日付捜査報告書(原審検57号証)は、右の「中洲のホテル」と題する図面の作成経過が記載されている報告書であるが、その中にも被告人がメモと五千円の供述をした旨の記載はなされていない。

 

 次に、原審検52号証の「中洲のホテル」と題する図面には、ホテル客室内を描いた図の客室入口寄りのベッドの上に、岩間警部補の字で赤で「メモと五〇〇〇」の記入がなされている。

 この記入が何時なされたのかが極めて重要な意味を有するのであるが、岩間警部補は裁判官から繰り返し尋問されたにもかかわらず、黒の字で記入された「川」「そんなに大きなホテルではない」との記入部分は下命を受けた際のものであるが、「メモと五〇〇〇」の赤の字の記載についてはそのときに記入したものかどうか何とも分からない旨の証言に終始している(原審岩間第13回公判速記録34丁。なお、原審主任裁判官は、この点につき断定的な証言を得られなかったため、記入の時期ははっきりしなくても、聞いた時期は九州出張前であることを何とか引き出そうとしていることが尋問態度から明瞭に窺がえる。ここにも原審主任裁判官の予断が現れている)。

 

 実際、岩間警部補の赤の字の記入部分は、「一般の客9F宴会の荷物の出入」の記載のように現地でしか記入できないものもあるのであって、同じく赤の字で記入された「メモと五〇〇〇」の記入も現地でなされたものであることは十分に考えられる。

 

 さらに付言するならば、8月29日にメモと五千円の供述がなされたのであれば、翌30日の検察官の取調べの中でそのことに言及されていて然るべきであるのに、佐々木検事はそのようなことは指摘していない。

 このことに照らしても、8月29日にメモと五千円の供述はなされていないと言うべきである。

 

 それでは、被告人のメモと五千円に関する供述は何時なされたのであろうか。

 一審佐々木検事の証言では、9月2日の河原殺害後期自白の中で初めて言及されている。

 しかしながら、同日の取調べに関する取調べ状況報告書(原審検21号証)は、9月3日付で、2日と3日の取調べ結果をまとめて作成されており、しかもメモと五千円に関する供述はその捜査報告書の本文の中にではなく、末尾の[注]書の中に記載されていることに照らすと、9月2日になされた保障もないと言わねばならない。

 

 矢野からの事情聴取は何時なされたか

 原審岩間警部補の証言によると、矢野トメ子の供述調書は昭和60年9月3日に作成されている (これは検察側証拠として申請されていない)。

 その作成経過については次の通り証言している。

 

検察官

部屋の清掃関係の業者がシンコーであるということは、1日のうちに分かっていたことですか。

    1日か2日にまたがったかという感じもしないではないですが、それは1日であるか2日ということは特定できませんが、2日から3日と、こういう感じになるかと思います。

その清掃関係の業者の調べというのは、具体的にはどんなことを調べたんですか。

    会社へ行きまして、会社の責任者と会いまして、城山ホテルの清掃を担当している清掃員ですね、シンコーで雇っている。その人について事情を聞きたいということで呼んで貰いまして、それで、いわゆる被疑者が言うとおり、六階の客室ベッドに大量の血痕があったかどうか、そういう点について聞いております。

(中略)

そうすると、呼んで貰った清掃員ですが、何人位ですか。

    向こうも仕事の関係がありますんでね、城山ホテルの担当者については、最初、二人ですね。いずれも女の人ですが。

矢野トメ子という人を調べたことがありますか。

    あります。

その矢野トメ子さんに行き当たったのは、どのようないきさつからでしょうか。

    それは今申したとおり、清掃婦、女の方ですね、この方から聞いているかぎり、そう言えば、矢野トメ子さんが、前に、客室のベッドの上に大量の血痕があって、その掃除が大変だった、というような話をしていたという話がたまたま出たんですね。

(中略)

それで矢野トメ子さんを調べることになったのですか。

    はい.

矢野トメ子さんを、やはシンコーに呼んでもらったわけですか。

    ええ、最初はシンコーに呼んで貰いました。もうこのときは、矢野トメ子さんは城山ホテルの清掃婦じゃなく、勤めている会社は同じですが、ほかのホテルヘ派遭になっていたんですね.それで急遽呼んで貰いまして、それで事情聴取をしました。

(中略)

あなたは、その矢野トメ子さんから話を聞いて調書に取っていますね。

    はい.

その日のうちですか。

    9月3日です。

場所はどこですか。

    これは、先に聞いたときは会社で聞いたんですが、矢野さん自身がほかのホテルの仕事をやってたもんですから、仕事が終わる時間を聞いて、それに合わして城山ホテルから離れる大濠公園のところにある県警の寮、筑紫会館に呼んでやっております。(原審岩間第12回公判速記録19丁裏~26丁裏)

 

 以上の経過に照らすならば、矢野に対する事情聴取・取調べは二度にわたって、時間をおいて、さらに場所を変えて行われていることが分かる。

 そうすると、調書の作成は9月3日に行われているが、矢野に対する最初の事情聴取は9月2日のうちに行われていたと考えることができる。

 そうすると、前述した通り、被告人が初めてメモと五千円に言及するのが、早くて9月2日の佐々木検事の取調べ(同日の同検事の取調べが開始されるのが午後一時半過ぎである)、むしろ原審検21号証の記載に照らすならば、9月3日以降と考えられるから、矢野供述と時を同じくするか、矢野供述が得られた後に被告人のメモと五千円の供述がなされるのである。

 

 したがって、メモと五千円の存在についても掃査官は被告人の供述する前にそれを把握していたし、また把握し得たのであるから、およそ「秘密」の暴露ではあり得ないのである。

 メモと五千の存在は、これまで述べてきたところから明らかな通り、予め掃査官の知り得なかった事項でもなけれぼ、掃査の結果客観的事実として確認されたものでもなく、いずれの意味でも「秘密の暴露」ではあり得ないのである。

 判決の重大な事実誤認は明らかである。

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