七、供述内容の著しい変遷
最三判昭和59年4月24日刑集三八巻六号2196頁(波谷事件)は、殺人教唆等の公訴事実についての唯一の直接証拠である被教唆者の検察官に対する供述調書の証拠価値に疑問を容れる余地がないとはいえず、被告人のアリバイの成否について幾多の疑問が残されているのに、被告人を有罪とした点で原判決を破棄した。
最高裁判決はその中で、供述の信用性に疑問を容れるものとして
「必ずしも些細とは言えない点で供述のくい違いがあり、これらを単に記憶違いということで説明し尽くすことは困難ではないかと思われる」
ことを指摘している。また、前掲最三判昭和57年3月16日(大森勧銀事件)も、
「(被告人の捜査官に対する供述の)かなり重要な点において、単なる記憶違いや不確かさ等に起因するものとはいい難い供述の変転、動揺が認められる」
旨判示している。その他、最二判昭和45年7月31日刑集二四巻八号597頁(仁保事件)も、
「供述内容がしばしば変転し、犯人ならば間違えるはずがない事実についていくたびか取消や訂正がある。終始不動の部分も、捜査官が知っていたと思われる事実についてであり、まぎれもない体験によるものか、捜査官の意識的無意識的な誘導・暗示によるものか軽々に断じ難い 」
ことを一つの理由に原判決を破棄した。このように判例は、供述の変遷を自白の信用性を判断する重要なメルクマールとしている。
本件においても、被告人の供述は、後に述べるような顕著な変遷をしているにもかかわらず、原判決は、
「所論は、前記のような被告人の供述の変遷状況からみて、その全体が措信できないものである旨主張するが、そのような供述であっても、当該供述がなされた背景事情からみてそれが信用できると思われる場合や、供述の真実性を裏付ける他の証拠が存在する場合には、少なくともその部分は虚実織り混ぜた供述における実の部分として措信することが許されるというべきである。
このような見地から見ると、取調べ開始後8月29日に至るまでの間の佐藤の死体遺棄場所に関する供述は、捜査官から太宰府山中の死休が佐藤でないことを聞かされていた被告人が、捜査官の誤信に乗じ、後記のとおり当面のアリバイ証明を目論むと共に、その場所で佐藤と別れたとかそこに佐藤の死体があるなどと供述することで捜査官を混乱させる一方、その付近から五年前に変死体が発見されていることが判明しても、同変死体は各種データの照合の結果すでに佐藤でないものとして確認ずみであることを捜査官から聞かされていたことから、自己の犯行に結びつくおそれはないものと判断したことによるものと考えられ、この被告人のシナリオによる場合には死体遺棄場所について真実を語らなければ有効にその目的を達成することができない関係にあるから、右期間の死体遺棄場所に関する被告人の供述は、信用すベき背景事情のもとでの供述ということができる…。」(27丁裏~28丁裏)
「犯人が事件の大筋を認めても、その動機とか、計画性の有無、或は犯行の一部(本件の場合、例えば被告人が特にこだわる男性器切除の事実)に隠しておきたいことがある場合には、その点に関して虚疑のことを述べる事例は珍しくなく、この場合に嘘の供述の矛盾を追及され辻褄合わせのため更に別の嘘を述べ、そのようにして供述が変転することは普通みられる現象であるから、供述の変遷が顕著であるからその全体が虚疑のものであるなどとはいえない。」(30丁表)
とのみ判示している。しかしながら、供述の変遷についての一般論としてはともかくとして、被告人の捜査段階における供述の変遷を原判決のいう理由によって具体的に説明することは不可能であると言わざるを得ない。
なお、弁護人の原審弁論においては、被告人の供述の変遷を供述心理学的な立場から取り上げ分析を試みたが、ここでは捜査状況との対比で検討する。いかに被告人の供述が捜査の展開に合わせて変転しているかが明らかになるであろう。それはまさに虚偽供述の徴表なのである。
1.自白と否認の交錯
7月16日~8月28日 否認
8月29日 自白→否認
8月30日~31日 否認
9月1日~12日 自白
9月14日~ 否認
2.否認期における佐藤の行方に関する供述の変遷
7月16日 逮捕
7月18日 「佐藤と一緒に九州へ行ったことがある」
7月25日 「佐藤を太宰府で口論の上本に縛り付けて放置してきた」
7月26日 「放置してきた場所から死体は見つかりませんか」
7月27日 「太宰府でけんかになり軽い傾斜地で佐藤を突き落とした」
7月28日 「太宰府に佐藤を放置した。僕の言った場所から佐藤の死体が出ると思う」(以上原審検31、34号証。以下特に断りのない限り同様)
8月 4日 「太宰府の丘の中腹で佐藤を放置」(一審弁1、4号証)
8月 5日 「変死体の照会をもう一回やってください」
8月13日 「佐藤を太宰府に放置してきたし、その後集中豪雨もあった。埋められてしまったかも知れない。太宰府付近の変死体を調べてくれましたか」
8月14日 「佐藤は死んでいると思う。前に地図に書いた場所に放置してきた」
8月15日 「今まで話した所に佐藤の死体があることは間違いないと思います」
8月19日 九州の件は撤回する旨の調書作成。その直後、九州の件頼みます」
8月22日 「太宰府小川で転倒した佐藤を放置してきた」(一審弁7号証)
8月23日 「太宰府の小川で佐藤は転倒し顔中血だらけだった。佐藤はそこで死んだと思う」(一審佐々木証言)
右にみたように、佐藤の行方に関する供述は、最初は「一緒に九州に行ったことがある」→「そこで佐藤を放置した」→「そこに佐藤の変死体が出ると思う」→「そこで佐藤は転倒した」→「佐藤は転倒して顔中血だらけだった」と、被告人にとって不利益な方向に進化していく。
(1)原判決の検討
原判決は、この説明として次のように判示する。
「取調べ開始後8月29日に至るまでの間の佐藤の死体遺棄場所に関する供述は、捜査官から太宰府山中の死体が佐藤でないことを聞かされていた被告人が、捜査官の誤信に乗じ、後記のとおり当面のアリバイ証明を目論むと共に、その場所で佐藤と別れたとかそこに佐藤の死体があるなどと供述することで捜査官を混乱させる一方、その付近から5年前に変死体が発見されていることが判明しても、同変死体は各種データの照合の結果既に佐藤でないものとして確認ずみであることを捜査官から聞かされていたことから、自己の犯行に結びつくおそれはないものと判断したことによるものと考えられ、この被告人のシナリオによる場合には死体遺棄場所について真実を語らなければ有効にその目的を達成することができない関係にあるから、右期間の死体遺棄場所に関する被告人の供述は、信用すべき背景事情のもとでの供述ということができる…。」(27丁裏~28丁裏)
しかしながら、これは合理的な説明になっていない。何故なら、真実被告人が佐藤を殺害していたのであれば、太宰府山中の変死体が佐藤であるこ.とは客観的事実であって、それは何よりも被告人自身が一番良く知っている事実なのである。
したがって、現時点では佐藤であることの確認がとれていなくても、それは単なる捜査ミスなのであって、捜査を尽くせば佐藤であることはいずれ判明することである。それにもかかわらず、単なる「捜査官の誤信」に乗じて、未だ捜査官も知らない佐藤の所在を明かすことなど、真犯人の行動としてあり得ないといわざるを得ない。佐藤の死体の所在を明らかにすることは、自白するに等しいことなのである。
しかも、原判決のように捜査を撹乱するのであれば、何も佐藤の死体の真の所在を明らかにすることなどせず、全くの別の場所で、なおかつ確認のとりにくい場所、例えば東京湾であるとかを供述すれば足りる。捜査を撹乱するために真実を話したのでは、全くの捜査の撹乱にならないのは百も自明である。
原判決の言う
「死体遺棄場所について真実を語らなければ有効にその目的を達成することができない関係」
など、どこを採しても出てこない。被告人が「その付近から5年前に変死体が発見されていることが判明しても、同変死体は各種データの照合の結果既に佐藤でないものとして確認ずみであることを捜査官から聞かされていたことから、自己の犯行に結びつくおそれはないものと判断した」とすれば、それは被告人が真実変死体が佐藤であることを知らなかったからに他ならない。
変死体が佐藤であることを知っている真犯人であれは、これ幸いとばかり、捜査の方向を太宰府以外に向け、太宰府には一切捜査の方向を向けないはずである。被告人が真犯人であれば、そして佐藤殺害を否認するのであれば、佐藤の死体の所在だけは何がなんでも明らかにしてはならないのである。
(2)変遷の理由
さて、このように原判決の説明は全く合理的な説明になっていないのであるが、捜査官は太宰府の話を信じておらず、東京方面で佐藤を殺害したとの想定の下で捜査を進めていたにもかかわらず、捜査官の誘導なしに、佐藤の行方に関する不利益供述をしたことをもって、その供述は信用できる、ということになるのであろうか。答えは否である。
真実、佐藤を殺害したのであれば、そして警察の誘導なしに不利益供述をするのであれば、端的に佐藤殺害を自白すれば足りるのであって、何も佐藤を放置したとか、そこに佐藤の死体があるなどという供述をする必要はない。
佐藤の死体の所在自体が判明していなかった本件においては、それを明らかにすることは自白するに等しく、そこまで供述しながらあえて自白まではしないことを首是しうる合理的な事情は何もないからである。それにもかかわらず、佐藤の行方に関する婉曲的な供述をしたのは、佐藤を殺害していないからである。
また、逆に佐藤殺害については強く否認していたのであるから、あえて自白の根幹部分である佐藤の行方に関する不利益供述をする理由はない。それにもかかわらず、佐藤の行方に関する不利益供述をしたのは、それが自己の利益につながるからである。
被告人の供述態度を合理的に説明しうるのは、
「自己のアリバイを証明するためには、あえて警察の注意を引き付けるような不利益供述をして、九州方面の捜査をさせるしかなかった」
という被告人の弁解のみなのである。
また、さらに付言するならば、佐々木検事は、この太宰府の話の変遷について、
「ただ単にそこで別れてきたというのであれば、あまりにおかしいじゃないかということで、被告人としては色々考えて少しでももっともらしい話をしなければいけないということで、だんだん供述を変えてきたんじゃないか」(佐々木一審第8回公判記録714丁裏)
と述べるが、これも真実でない供述経過の徴表である。何故なら、真実であれば「もっともらしく」する必要はないのであって、「もっともらしく」しなければならなかったのは、それが真実ではないからにほかならないからである。
3.自白期における犯行場所・凶器・犯行態様に関する供述の変遷
8月29日 太宰府の山中の河原で石で殴打し首をビニール紐で締めて殺害した(これを「河原殺害初期」と呼ぶことにする)→(尋問が佐藤の男性器切除の点に及びかけるや突如供述を翻えし)中洲のホテルに行ったら佐藤が死んでいたので佐藤の死体を段ボール箱に詰めて太宰府の山中に捨てた(これを「死体遺棄期」と呼ぶことにする)
9月 1日 中洲のホテルで花瓶様のもので佐藤を殴打して殺害した(これを「ホテル殺害初期」と呼ぶことにする)。
9月 2日 大宰府の河原で石で殴打して殺害した(これを「河原殺害後期」と呼ぶことにする)。
9月12日 中洲のホテルで直径が20センチメートルくらいのガラスの灰皿で殴打して殺害した(これを「ホテル殺害後期」と呼ぶことにする)。
(1) 原判決の検討
原判決はこの供述の変遷について次のように述べる。
「犯人が事件の大筋を認めても、その動機とか、計画性の有無、或は犯行の一部(本件の場合、例えば被告人が特にこだわる男性器切除の事実)に隠しておきたいことがある場合には、その点に関して虚構のことを述ぺる事例は珍しくなく、この場合に嘘の供述の矛盾を追及され辻褄合わせのため更に別の嘘を述べ、そのようにして供述が変転することは普通みられる現象であるから、供述の変遷が顕著であるからその全体が虚構のものであるなどとはいえない」(30丁表)
しかしながら、原判決の右判示によって、この供述の変遷を合理的に説明することができるのであろうか。犯行場所・凶器・態様は犯罪事実の根幹部分である。原判決の論法によれば、犯行場所・凶器・態様について虚偽を述べることで被告人は何を隠しておきたかったというのか。
右のような説明をするのであれば、裁判所は具体的に何を隠しておこうとして犯罪事実の根幹部分の変遷が生じたのか具体的に説明すべきである。それができないにもかかわらず、原判決のような一般論で事たれりとするのは、議論のすり替えに他ならず、被告人の人格に対するいわれのない誹謗中傷と言われても仕方のないものである。
また、一審判決・原判決の認定では、9月1日の時点で一旦真実を述べたことになるにもかかわらず、2日以降それを覆したのは、何を隠しておきたいからということになるのであろうか。一旦真実を話した以上、もはや隠すことにはならないではないか。
(2)変遷の理由
実は、犯罪事実の根幹部分に関する自白の変遷は、9月2日から11日までの間を除き、捜査の進展状況と期を一にしているのである。
8月29日に被告人は河原殺害初期自白に至るが、この日までに太宰府山中で発見された変死体の状況の詳細が捜査官に判明していた。即ち、8月24日に太宰府山中の変死体発見現場が特定されたのを受けて、翌25日から27日まで加藤刑事が九州の裏付捜査に赴いた。
加藤刑事は、裏付捜査の一環として太宰府の現場へ行き、30分くらい状況についての説明を受け(加藤原審第11回公判速記録17丁裏)、現場で巻尺まであてて現地捜査官から教示を受け(同22丁裏)、また筑紫野警察署では2、30分位いて記録を調査し(同18丁裏、24丁裏)、その間実況見分調書(一審甲113号証)も見、添付写真のうち二、三枚を東京まで持ち帰ってきた(加藤原審第11回公判速記録42丁表~43丁表)。
しかも、裏付捜査の期間中、太宰府変死体の捜査担当者と一緒にいた(同40丁裏~41丁表)というのであるから、当時の捜査状況・変死体の発見状況について詳細な報告を受けていたことは容易に推測される。
また、加藤刑事と同行した藤原警部補は、この裏付捜査の時点で昭和55年に変死体の解剖を担当した牧角教授に接触していたのであるから(岩間原審第12回公判速記録61丁裏~62裏)、当然解剖時の変死体の状況・特徴について情報収集していたはずである。
そして、8月27日に加藤・藤原両刑事が九州裏付捜査から帰庁し、8月28日には、午前・午後にわたって検察・警察捜査会議が開かれた(原審検31)。
この捜査会議では、九州の裏付捜査の結果が詳細に報告され、今後の取調べ方針が検討されたことは想像に難くない(なお、加藤は、この捜査会議では九州で得られた情報についての分析は最初の段階であっただけで、ほとんど時間をかけずに終わったかのように証言している(加藤原審第11回公判速記録26丁表~29丁裏)が、そんな簡単な捜査会議が午前午後の二度にわたって開かれたとは到底考えられず、加藤・藤原の九州裏付け捜査の重要性及び午前午後の二度にわたってまで行われたことに鑑みるならば、この捜査会議で変死体発見現場や変死体の状況が詳細に報告されたと考えるべきである)。
なお、一審で高橋警部・白石警部補は加藤刑事らが帰庁したのは28日であると証言し、また九州から変死体の状況についての情報や実況見分調書の写しを持ち帰ってきたこともなかった旨証言しているが、これは加藤刑事の証言に照らして到底信用できない(加藤原審第10回公判速記録5丁参照)。
以上のとおり、8月29日の取調べは捜査官において太宰府山中の変死体の状況を把握した上で行われたものであって、それに添う形で河原初期自白がなされたのである。
そこには犯行の前後の行動・動機等に関する詳細な供述は何もなく、ただ捜査官に客観的に判明している事実だけを繋ぎ合わせた自白がなされているだけであるから、仮に一審白石警部補の証言する通り、被告人が涙をぽろぽろ流しながら、腕をぶるぶる震わせて下を俯いたまますらすらと河原初期自白をしたとしても、その信用性は極めて低いと言わざるを得ない(ところで、加藤刑事は、死体の緊縛状況について、足の指や手に紐がぐるぐる巻きにされていたことは被告人の供述によって初めて分かったことで、筑紫野警察署でもらってきた写真では全然分からなかった旨証言している(加藤原審第10回公判速記録8丁)が、同人ももう一度写真を見たら、足指に何か紐様のものが残っていたことが確認できたことは認めており、写真に写っている事実について被告人が供述するまで知らなかったというのはおよそ信用できない。そもそも変死体の回りに紐が落ちていたことは現地でも当然に聞き知っていたはずである。)
ましてや、原審加藤証言によれば、加藤刑事と被告人との間で、
「本当のことを話せ」
「同じ留置場の中に福岡出身の人がいてその人が太宰府付近のことに詳しく、皆、事件のことを知っていて僕に色々教えてくれるんです」
「どういうことだ」
「死体の状況が違います。陰茎のことでしょう。死体の状況が違いますよ。僕じゃありません。そんなことするわけがありません。僕はホテルで死んでいた佐藤を捨てただけです。」
とのやり取りがなされたというのである(原審検34号証の8月30日の欄(これは加藤証人の証言で29日の誤りであると訂正された)、また原審検31号証の8月29日の欄には「同房者の件」との記載がある)から、8月29日の取調べは変死体の状況が既に判明していることを前提に取調べがなされていたことは明らかである。
(3) 9月1日までの捜査の状況
加藤・藤原両刑事の裏付け捜査に引き続き、岩間警部補が8月30日に捜査会議の席上で高橋警部から下命を受け、藤原警部補・風間巡査部長・高橋巡査部長とともに9月1日から6日まで福岡裏付け捜査に赴いた。
岩間敬晋部補は、9月1日昼頃福岡に着くや、レンタカーで中洲に向かい、一番に城山ホテルヘ行き、その後同ホテルを中心に中洲にあるホテルの外観を何軒か見て回って、その日の内に 「夕方を待たずに中間連絡という形で」被告人の言うホテルが城山ホテルではないかということを警視庁に報告しており(岩間原審第12回公判速記録8丁表~10丁表、19丁表)、同日の日中には捜査官において被告人の供述していた「中洲のホテル」は城山ホテルであるとの特定がなされた(なお、一審証人高橋警部は、ホテルの特定は9月2日である旨供述していたが、岩間証言に照らし信用できない)。
被告人は9月1日の佐々木検事の取調時に、ホテル殺害初期自白をするに至る。
ところが、この日の同検事の取調べは午後六時から開始されているのであって、岩間警部補から城山ホテル特定の第一報が入ってからなされているのである。
佐々木検事は城山ホテル特定の事実を踏まえてホテル殺害初期自白を得るに至ったのである。ここにおいても、被告人の自白は捜査官の捜査状況の展開に即してなされている。
(4) 9月12日までの捜査の状況
岩間警部補らによる福岡裏付け捜査の結果、9月2日から6日までの間に、城山ホテル関係者7名及び客室清掃会社関係者7名に対する事情聴取、宿泊カード・予約カード等に基づく佐藤・被告人の宿泊の裏付け、客室及び客室ベッドの廃棄先におけるルミノール検査、太宰府山中の変死体のそばに落ちていたパチンコ玉の裏付け捜査、県警本部及び筑紫野警察署での事情聴取等がなされた。
そして、9月6日には取調べ主任である白石警部補・保田部長刑事・大野検事が福岡へ裏付け捜査に赴き(原審検5号証)、城山ホテル・清掃会社関係者である矢野トメ子・川畑千代子・栗原和子・島田真弓の検察官調書(一審甲135~139)等ホテル殺害自白の裏付け調書が作成された。
他方、東京では、9月5日、6日と「ダンボールテスト」が繰り返し行われた(原審検31、35号証)。「ダンボールテスト」とは、ホテル殺害自白を前提とした人体の段ボール箱への梱包及び乗用車への積込実験を意味することは言うまでもない。
しかし、この間、佐々木検事は、犯行場所は河原であるとの心証を抱いて取調べを行っていた(佐々木一審第7回公判記録450丁表、473丁裏)。白石警部補も、9月に入ってからは佐々木検事が取調べの主導権を握っていたことを認めている(一審白石・記録2254丁裏)。
この点は、一審判決も、佐々木検事が河原での犯行を確信していたことについては認めている (80丁表)。
このように9月に入ってから、九州での裏付け捜査の方向と東京での佐々木検事の取調べの方向とのずれが顕在化する中、9月9日、10日の両日にわたって、被告人に対する取調べを中断してまで徹底的な捜査会議が開かれた(原審検31、35号証)。
9月8日から10日までは、被告人の身柄拘束期間中で最も取調べ時間の少なかった日々であり、同月10日は7月16日の逮捕以来最初にして最後の取調べの行われなかった日である。そこからしても、この間に、河原殺害かホテル殺害かについて捜査官の間で事件の組み立て・捜査方針の樹立が一からやり直され、ホテル殺害へ向けて犯行ストーリーの組み換えが行われたと見るべきである。
そして、翌11日からは再び10数時間以上もの取調べが再開され、同月12日にホテル殺害後期自白がなされたのである。
以上見てきた通り、被告人の供述内容は、河原殺害の心証を持っていた佐々木検事が取調べの主導権を握っていた9月2日以降は河原殺害後期自白となり、ホテル殺害へと捜査方針が転換された直後の9月12日になってホテル殺害後期自白に至っているのであって、この間の供述の経過はまさしく捜査官の設定したストーリーに沿って、自白が変更されたことを如実に物語っていると言わざるを得ない。