16.自白の変遷

4.自白期における佐藤殺害前の行動に関する供述の変遷  

 8月 日   三井アーバンホテルで佐藤と会い、太宰府へ行った

  822    三井アーバンホテルで佐藤と会い、佐藤はボストンバッグを持っていた「ここが中洲だ」と言って停車太宰府の河原に行った(河原放置)

 824日   三井アーバンホテルで佐藤と会い、一緒に中洲のホテルに行った佐藤はホテルからボストンバッグを持ってきて、太宰府の河原に行った(河原放置)

 829日   三井アーンホテルに行ったが、佐藤は泊まっていなかったので、もう一つのホテルに電話した。佐藤が泊まっているということだったので、レンタカーに乗って行った佐藤だと言って鍵をもらい、部屋に行ったところ、佐藤は死んでいた(死体遺棄期)

 9月 1日   三井アーバンホテルに行ったが、佐藤は泊まっていなかったので、もう一つのホテルに電話した。佐藤は階の部屋に泊まっているということだったので、その部屋を訪ねた(ホテル殺害初期)

 9月 2日   三井アーバンホテルで佐藤と会い、一緒に中洲のホテルに行った佐藤と一緒に階の部屋に行ったところ、部屋に血痕がついていたので後始末をした後、太宰府の河原に行った(河原殺害後期)

 912日   三井アーバンホテルで佐藤と会い、一緒に中洲のホテルにいった(ホテル殺害後期)。 

 参考までに否認期における(8月24日までの)供述も合わせて記載した。弁護人が弁論要旨で右の点の変遷を指摘したにもかかわらず、原判決は何ら判断を加えず、何の説明もしていない。 

 ところで、どこで佐藤と落ち合ったかは、記憶の混同が生じ易い些細なことであろうか。答えは否である。

 右の変遷を見てみると、三井アーバンホテルで佐藤と会ったとする供述をA、中洲のホテルで佐藤と会ったとする供述をBとすると、8月4日~8月24日A、8月29日~9月1日B、9月2日~9月12日Aという具合になり、供述の骨格はA、即ち三井アーバンホテルで佐藤と会ったとするものであって、一時期だけ供述Bに変更されていること、及びホテル殺害の自白をした時はいずれもその直前の供述をベースにしてホテルでの殺害を付け加えただけの形となっていることが分かり、決して無意味に変遷しているわけではない。 

 しかも、供述B、即ち三井アーバンホテルには佐藤は泊まっていなかったので、中洲のホテルヘ行ってそこで佐藤と会ったとするためには、まず客観的事実として中洲のホテルに予め佐藤が宿泊していなければならないし、被告人自身の行動としても自らホテルに電話をした上で客室まで訪ねていかねばならなくなるのに対して、供述A、即ち三井アーバンホテルで佐藤と落ち合ったとすると、供述Bに現れる客観的事実及び被告人の行動は不必要となる代わり、佐藤と落ち合ってから共に行動するという体験が生じてくる。

 これらは客観的事実としても、体験としても全く異なるものである。 

 さて、それではこの供述の変遷はいかなる理由によるものであろうか。これも捜査の進展状況と密接に関連していると言わざるを得ない。即ち、供述BからAに変更された時は9月2日であって、岩間警部補らが福岡裏付け捜査に赴いた2日目なのである。

 岩間警部補らの裏付け捜査によって、9月1日のうちに中洲のホテルが博多城山ホテルであるとの特定がなされた。

 同警部補は同日中に昭和55年7月の宿泊カード・宿泊精算書・予約カードの提出をホテルから受けて、東京の捜査本部に佐藤及び被告人の宿泊の事実について裏付けの確認を求めた(原審岩間第12回公判速記録12丁裏~14丁表)。おそらく翌2日の昼過ぎには佐藤の宿泊の裏付けがないことが判明していたであろう。

 佐藤の宿泊の裏付けがない以上、中洲のホテルに電話して、佐藤の部屋を訪ねることは不可能になる。したがって、犯行ストーリーとしては、供述Bは成り立たなくなり、供述も変遷させられるに至るのである。 

 5.自白期における佐藤の死体緊縛に関する供述の変遷 

 8月29日  ホテルで佐藤が死んでいて、死体が硬くなっていたので、死体を緊縛して小さくした(死体遺棄期)。

 9月 1日  佐藤殺事後、死体を段ボール箱に入れるためには小さくたたまなければいけないので、緊縛した(ホテル殺害初期)。

 9月 2日  佐藤殺事後、死体を車に積むのに、そのままでは積みにくいので、縛ってから積もうと考えた(河原殺害後期)。

 9月12日  佐藤殺事後、死体を段ボール箱に入れ易いようにするため、緊縛した(9月14日付署名拒否の検察官調書による。ホテル殺害後期)。

 原判決は、右の変遷についても全く一顧だにしていない。この変遷はいかなる理由に基づくものであろうか。

 まず、死体緊縛の供述が初めて出てくるのが太宰府山中の変死体の状況が詳細に判明した8月29日であることに注意されるべきである。

 次に、動揺変転極まりない自白のうち、唯一この死体緊縛の事実・方法の供述のみが一貫していることに注意すべきである。即ち、死体緊縛の事実は客観的事実であるから、捜査官に判明したときから供述に出現し、それ以来一貫しているのであって、誘導の端的な証拠である。

 ところが、客観的事実からは推測できない死体緊縛の動機については、無視できない変遷を示している。 

 死体緊縛の供述がなされた最初の時点においては、ホテルに行ったら既に佐藤は死んでいたというものであるから、死体緊縛の必要性についても、すでに佐藤の死体は硬直していたので小さくするために縛ったということで、それなりの合理性があった。とりわけ、片膝ずつであるとか、腰と大腿部をくっつけるとか、関節毎に固定する方法は、死体の硬直を前提にすれば一応の合理性があった。

 ところが、自ら殺害したことを前提とし始めると、死体緊縛の合理性がなくなってくるのであり、ましてや河原で殺害したということになると、死体緊縛は必要性がないどころか、死体緊縛の事実自体が河原での殺害という行為と矛盾した行動になってくるのである。

 9月2日の供述に至っては、ストーリー自身が破綻しているとしか言い様がない。 

 6.自白期における段ボール箱に関する供述の変遷 

 8月29日  佐藤殺害後、段ボール箱をかけて逃げてきた(河原殺害初期)。

 8月29日  ホテルで佐藤が死んでいたので、段ボール箱を買ってきて箱詰めにした(死体遺棄期)。

 9月 1日  ホテルで殺害後、近くの雑貨屋で段ボール箱を買ってきて箱詰めにした(ホテル殺害初期)。

 9月 2日  段ボール箱はそばにあっただけで、それに詰めたということはない(河原殺害後期)。 

 9月12日  ホテルで殺害後、近くの荒物屋で段ボール箱三個を買ってきて箱詰めにした(9月14日付署名拒否の検察官調書による・ホテル殺害後期) 

 原判決はこの変遷も全く問題にしていない。

 しかしながら、段ポール箱の供述が出てきたのは死体緊縛と同じ8月29日であり、その時点では既に加藤刑事らによって確認されていた太宰府山中の変死体に関する実況見分調書(一審甲113)には、変死体の東側直近に廃棄物のダンボールがあったことが明記されており、実況見分調書添付写真24には変死体のそばの段ボール箱がはっきり写っている。

 段ボール箱の存在が客観的事実であるからこそ、8月29日以来とにかく段ボール箱の存在についての言及がなされているのである。しかし、その説明には一貫性がなく、河原殺害自白における段ボール箱の位置づけに至っては、とってつけたとの印象を免れない。 

 7..全体としての供述についての検討                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 

 以上の検討から明らかな通り、供述の変遷の個別的側面については、いずれも記憶違いであるとか、犯行の一部について隠しておきたいことがあるとかいう理由では到底合理的な説明がつかないことが明らかとなった。

 むしろ、供述の変遷の重要な節目の部分では、捜査の展開状況に応じて被告人の供述が変遷していることが判明した。

 それでも、被告人の供述は全体として信用できるのであろうか。もう一度、被告人の供述の全体を振り返ってみる。 

 まず、否認期から自白期を通して一貫しているのは、

7月25日早朝に羽田を出発して福岡空港に到着したこと、

博多駅前でレンタカーを借りたこと、

三井アーバンホテルと中洲のホテルを訪ねたこと、

福岡インターチェンジから九州自動車道に入り太宰府インターチェンジで降りて太宰府山中の河原に行ったこと、

レンタカーを返したのは東京行き飛行桟の最終便の発った後で、レンタカーの営業時間終了後ビル屋上の駐車場に返車したこと、

最終の広島行きの新幹線で広島に一泊したこと、

であり、この供述の枠組はほぼ8月4日の時点で完成している。 

 右の枠組の中に、佐藤の死体の状況が詳細に判明した8月29日から9月12日まで佐藤殺害部分が付け加わる。しかし、自白期において一貫しているのは、

佐藤の頭部を殴打したこと(但し、死体遺棄期を除く)、

佐藤の死体をビニール紐で緊縛したこと、

佐藤の死体を太宰府山中の河原に遺棄したこと、

佐藤の陰茎を切除したこと(但し、河原殺害初期及び死体遺棄期を除く)

のみであり、これらはいずれも客観的証拠から推測される事実ばかりである。その他の事実については捜査の状況に照合しながら、変転極まりない供述がなされている。 

 これらの供述の流れを全体として俯瞰するならば、被告人の自白にはおよそ証拠価値がないと言うべきである。

 検察官の立場からしても、被告人は捜査の結果判明したことだけはやむなく自認するものの、それ以外は頑迷に否認し、捜査を撹乱しようとしているとしか説明がつかないであろう。それであれば、被告人の供述の価値としては、被告人が不利益事実を承認したことがあるというにとどまるのであって、それ以上の独自の証拠価値は無いというべきである。

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