再審請求書

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 東京地方裁判所刑事第3部

平成23年(た)第8号 

                            再 審 請 求 書                 



                             本籍   東京都世田谷区奥沢6丁目22番地
                                  〒158-0083            
                             住所  東京都世田谷区奥沢6-22-12 公明ビルB
                                  請求人氏名     折  山  敏  夫        
                                                電話 03(6670)4411
                                                昭和18年7月6日生


 上記請求人にかかる有印私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載、同行使、詐欺、殺人被告事件につき、東京地方裁判所刑事第12部が昭和63年4月21日に言い渡した有罪判決(平成3年6月18日控訴棄却、平成7年3月29日上告棄却)に対し、請求人から、以下の理由により再審の請求をする。

添付書類 御庁刑事第12部昭和60年合(わ)第249号他事件 判決謄本
証拠 ①御庁民事第14部平成3年(ワ)第4320号伊波侃本人調書謄本
    ②御庁民事第1部昭和51年(タ)第228号佐藤キヨヱ本人調書写し
    ③御庁民事25部平成5年(ワ)第17908号国家賠償請求事件訴状謄本
    ④御庁民事25部平成5年(ワ)第17908号損害賠償請求事件判決謄本

平成23年4月8日                                                                                  
                            上記請求人    折山敏夫
東京地方裁判所 御中



請 求 の 趣 旨
 請求人は御庁が昭和63年4月21日、有印私文書偽造、同行使、公正証書原本不実記載、同行使、詐欺、殺人被告事件につき請求人に対し宣告した懲役20年の有罪判決に対し、刑事訴訟法第435条第1号、第7号、第437条、及び第448条により再審開始の決定をなし、同法第451条により確定判決の被告事件についての審理のうえ、請求人に対し、いずれの罪についても無罪の判決をなすことを求める。


 請求の理由目次
第1 確定判決の認定事実                      3
第2 確定判決の証拠構造                      5
   1.事件捜査の背景事情                    5
     2.検察が隠蔽したことが疑われる証拠            8
   3.決定的証拠が捜査途中で変更されていること      9
     4.構成要件だけの特異な判決                11
  5.一審判決の構成は次の通りである             12
    6.X線フィルムの証拠としての重要性            14 
第3 証拠物フィルムの偽造・変造                  14
  1.なぜX線フィルムと変死体が一致しなかったのか?   14 
  2.左右を反対に説明されたためか?            15 
  3.赤マジックインクの文字が書き込まれた事実      15 
  4.赤い文字が存在することの重要性            18
    5.証拠物フィルムは偽造物である                   19
  6.伊波医師の文字ではない                        19
  7.X線フィルムが他に複数枚存在していた事実        19
第4 検察官の虚偽公文書作成・行使                  23
  1.X線フィルムが公判途中ですり替えられた事実       23
  2.すり替えなければならなかった理由                 24
第5 確定判決に代わる証明(刑訴法第437条)             26
  1.捜査当局に対する損害賠償請求事件              26
  2.時効                                            26
  3.再審事由となる事実                              26
第6 財産処分事件との関連                           27
  1.確定判決が認定した財産処分の犯罪事実について   27
  2.本件死体を佐藤だと錯覚してなした供述である         27
  3.罪状認否も錯覚のもとに行われた                  28
  4.参考人の供述                                   28
  5.弁護人も錯覚していた                             28
第7 佐藤松雄の失踪の原因について                  29 
  1.佐藤松雄は躁うつ病だった                        29
  2.佐藤の激しい性格                                37
  3.特異な金銭感覚                                 39
  4.行き当たりばったりの無計画な行動                 41
  5.台湾女性を連れ歩いていた                       42
  6.何らかのトラブルにあった可能性が高い             43
  7.財産処分行為との関連                           43
第8 結語                                            46


請 求 の 理 由
第1 確定判決の認定事実
 御庁が宣告した第一審判決で認定した「罪となるべき事実」は次の通りである。ただし、1項は原文のまま、2項から12項までの財産処分関連事件に関しては、簡単な概要のみを提示することとする。
 1.請求人は、昭和55年7月24日又は25日、福岡県福岡市博多区中洲5丁目3番4号所在の博多城山ホテル414号室において、佐藤松雄(当時56歳)に対し、殺意を持って、鈍器で同人の後頭部を数回強打し、よって、そのころ、同人を頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷により死亡させて殺害した。
 2.請求人は、株式会社佐藤企画代表取締役佐藤松雄(以下、佐藤という)が有限会社宗建に貸し付けていた1千5百万円につき、代理受領権限が無いのに、昭和55年8月9日ころ、宗建から佐藤への弁済金名目で騙取した。
 3.請求人は、佐藤所有に係る田園調布3丁目所在の土地、建物につき、佐藤名義の登記申請委任状を偽造して、同年9月25日、所有権移転請求権仮登記および賃借権設定請求権仮登記を行った。
 4.請求人は、住友銀行田園調布支店において、佐藤および同人の長男文高名義の定期預金を払い戻して騙取しようと企て、
     ()昭和55年10月15日、佐藤名義の定期預金元利金請求書1通を偽造して、同支店の株式会社佐藤企画名義の当座預金口座へ振替入金させ、502万余円の不法利益を得た。
  (2)同年12月6日、佐藤名義の定期預金元利金請求書1通を偽造して、同支店の株式会社佐藤企画名義の当座預金口座へ8百万円を、同銀行銀座支店の有限会社第二企業の当座預金口座に223万余円をそれぞれ振替入金させ、合計金額相当の不法利益を得た。
  (3)昭和56年7月8日、佐藤名義および佐藤文高名義の定期預金元利金請求書各1通を偽造して、同支店の株式会社佐藤企画名義の当座預金口座へ振替入金
させ、646万余円の不法利益を得た。
 5.請求人は、昭和55年12月17日ころ、佐藤名義の委任状を複写して公正証書作成委任状を偽造し、債権者矢ケ崎喜一、債務者佐藤とする金額6百万円の金銭消費貸借契約公正証書を作成し、行使した。
 6.請求人は、前記3の土地建物につき、なんらの権限も有しないのに、これを処分し得る正当な権限を有するかのように装い、山根清美および知英子に売却すると申し向け、その売却代金名下に同年12月19日ころから同59年12月18日ころまでの間、8回にわたり、現金合計2千万円、小切手3通(額面合計2千百万円)の交付を受けるとともに、同56年7月22日、代金のうち4千万円の支払いに代えて、山根清美、知英子所有に係る渋谷区初台の土地建物を被告人あてに所有権移転登記させて騙取した。
 7.請求人は、前記3の土地建物につき、佐藤松雄名義の登記申請委任状を偽造して、昭和56年3月12日ころ、売買を原因としてその所有権を佐藤から山根清美および山根知英子に移転するための登記申請手続きを行い、不動産登記簿原本に不実の登記をし、行使した。
 8.藤本精一と共謀の上、
  (1)請求人は、昭和58年2月18日ころ、佐藤松雄作成名義の住民異動届1通を偽造し、川崎市多摩区宿河原1003番地1サニーパレス多摩107に住所を設定した旨の内容虚偽の届けをして、住民基本台帳原本に不実の記載をさせた。
  (2)請求人は、前同日、佐藤松雄名義の印鑑登録申請書1通を偽造し、川崎市多摩区役所において、不法に佐藤の印鑑登録を行った。
 9.請求人は、佐藤所有に係る渋谷区宇田川町79番地1および2所在建物につき、佐藤松雄名義の登記申請委任状を偽造して、昭和59年3月30日、譲渡担保を原因としてその所有権を佐藤から請求人に移転するための登記申請手続きを行い、不動産登記簿原本に不実の登記をした。

第2 確定判決の証拠構造
 1.事件捜査の背景事情
 厚生労働省の文書偽造事件をはじめ最近のいくつかの事件で、いわゆる特捜検察の、シナリオに当てはめて証拠収集するという従来からの捜査手法が問題になってきた。検察は自らの描いた事件シナリオに合わない証拠を隠蔽するだけでなく、必要なら証拠まで偽造・改ざんすることが証明されたためである。
 検察側の提出証拠は原則として特信性があり、真実だとみなしてきた刑事裁判における従来の常識は疑ってかかる必要がある。
 本事案はいわゆる特捜事件ではなかったが、警察から事件が送致されてから検察が担当するという通常の経緯をたどらず、警察と検察が長期間にわたって協同して捜査に携わってきた事件である。
 例えば確定審で明らかになった証拠上からも、次のような検事調書の日付が明らかになっている。
    ①山田哲郎に対する幕田英雄検事の昭和60年4月16日付検面調書(検13)
    ②小田茂に対する幕田英雄検事の昭和60年4月16日付検面調書(検14)
    ③網谷幸雄に対する町田幸雄検事の昭和60年7月12日付検面調書(検96)
    ④木村キヨヱに対する大野崇検事の昭和60年4月16日付検面調書(検182)
    ⑤佐藤正三に対する町田幸雄検事の昭和60年4月12日付検面調書(検193)
    ⑥山本節子に対する町田幸雄検事の昭和60年7月5日付検面調書(検194)
    ⑦大原ルリ子に対する町田幸雄検事昭和60年7月10日付検面調書(検196)
    ⑧高田笑子に対する梅村裕司検事の昭和60年4月16日付検面調書(検197)
 警視庁による本件の強制捜査への着手日は昭和60年7月16日だから、検察は警察から事件が送致される以前から捜査に携わり、積極的に事件参考人からの供述書を作成していたことが明白だ。しかも、複数の検事が分担して取調べ調書作成に当たっている。
 即ち警察が強制捜査に入るずっと以前から本事件に関し、検察側としてはすでに町田幸雄主任検事以下の担当チームが編成されていたことを表している。警察を指揮したり協同して捜査活動に従事していたのだから、当然のことながら検察捜査の常道として、予め事件のシナリオが作成されていたことが考えられる。
 特捜事件と同様な検察の予断捜査が展開されていたため、警察の捜査をチェックするという本来の機能が失われ、むしろ検察主導の取調べ捜査が行われた。
 また本事件に関しては、縄張り意識の強い警察組織側として普通では考えられない捜査体制が取られている。
 先ず、この種の凶行事件では通常、警視庁捜査第1課が担当するはずなのに、なぜか組織暴力団担当の捜査第4課が扱った。始めから特異事件として別扱いされて捜査が継続されていたことが明らかである。
 次に、福岡県警筑紫野署に本件変死体についての殺人事件捜査本部が置かれていたにもかかわらず事件を移管せず、警察組織上層部の話し合いで、警視庁がそのまま継続して担当することになった。県をまたいでの管轄違いの殺人事件を警視庁が横取りしたことは異例という外なく、警察組織としてのよくよくの理由があったと考えるしかない。
 本件はすでに東京地検が本格的な捜査に着手していて、シナリオ通りに証拠を取捨選択したり捏造していたりしたために、ここまでせっかく作り上げてきた複雑な証拠構造が狂う恐れもあり、捜査途中で事件を福岡へ移管することはできなかったと考えられる。
 本事件は警察よりも検察が主導して捜査に当たったことは、後述するように、検察官の伝聞証言と、検察官により捏造され、すり替えられたX線パントモフィルムが立証の基本であることで明らかである。佐々木善三検事の嘘の伝聞証言と右偽造フィルムの存在がなければ、事件は成り立たない。
 特捜事件の場合と同様に、検察側証拠はシナリオに反する証拠を隠し、シナリオに都合のよい証拠をでっち上げる手法が使われているので、御庁は証拠を吟味するに当たり、特に慎重にしていただきたい。 
   2.検察が隠蔽したことが疑われる証拠
   検察が捜査の過程で当然に入手したであろうと想定される、請求人無罪の証拠が相当数存在するはずであるのに、それが隠蔽されている。その中の何点かを指摘する。
   ①佐藤松雄名義の郵便局小切手の発行依頼書
    昭和55年7月30日渋谷郵便局長振出の佐藤松雄自己宛小切手について、確定審は、請求人が現金を持参して小切手作成を依頼したと認定している。しかし郵便局として、現金を預って他人名義の自己宛小切手を作成することは出来ないシステムになっている。
 佐藤松雄本人が小切手発行依頼をしたのであれば、7月25日ごろ殺害されたという本事件は成り立たない。
 事件直後に請求人が佐藤松雄本人の生存を偽装したのかどうかは筆跡で判るのだから、このように重要な有罪の状況証拠になる佐藤松雄名義の郵便局長宛「自己宛小切手発行依頼書」を検察が押収していないはずが無い。シナリオに合わないために検察によって隠蔽されていると疑われる。
   ②搭乗者名簿
    佐藤松雄と請求人が何日の何時の飛行機で博多へ向かったのかが大きな争点だった。請求人が7月25日に羽田を出発した時刻次第ではアリバイが成立する。
 捜査当局は航空券の発行控えや搭乗者名簿などを入手しているに違いないが、判明した時刻がシナリオに合致しないのでこの証拠を隠蔽していると疑われる。 
   ③城山ホテル宿泊者名簿
    犯行現場とされている博多城山ホテルに関して、佐藤松雄および請求人がそこに宿泊していたとするなら、予約者名簿、宿泊者名簿、ルームサービス記録、領収書控えなどの商業帳票類などで確実に痕跡が残るはずである。
 実際にはそれらの帳票類は佐藤松雄の宿泊事実がなかったことを証明してしまうので、検察はこれらの帳簿類を紛失されたように偽装し、無実の証拠を隠蔽したと 疑われる。
   ④佐藤松雄の身体計測書
    佐藤には過去に逮捕歴があるので、当然のことながら捜査当局はその逮捕時に計測された佐藤松雄の詳しい身体データを持っている。身長や体重などの基本的なデータは肉親・知人証言からの推定値を持ち出すまでもなく、捜査側として正確な実数値を認識していた。
 しかしこの数値が本件変死体と異なっていて、公表すれば佐藤の死体であるという検察のシナリオに合致しなくなってしまうために、身体計測書の存在を隠蔽した疑いがある。
   ⑤台湾2女性の消息
    消息を絶ったころの佐藤松雄は台湾人の二女性を伴って放浪していたが、台湾訪問も計画していたので、彼女たちが一番詳しく事情を知っているはずだ、というのが逮捕当初からの請求人の弁明だった。東京の住所と共に台湾の連絡先が記載されたトキ、フミの二名の名刺を、請求人が常時所持していたので、逮捕後すぐに刑事に提出し彼女らからの事情聴取を依頼している。
 この台湾女性に関する調査が行われたはずなのに、その結果が証拠提出されていない。佐藤松雄の最後の消息を最も良く知っているはずの二人の参考人調書も提出されていない。
 3.決定的証拠が捜査途中で変更されていること
    請求人が別件で逮捕され、相当の取調べが進んだのちのある時点で、検察はそれまでの捜査方針を大幅に変更して、事件のシナリオを書き換えた。本件死体を佐藤であるとする新たなシナリオを決めた後、今まで収集していた捜査資料のうちで、変更後のシナリオと矛盾する証拠をすべて隠蔽するか、または収集データをシナリオに合致するように改変している。
 勝負がついてから土俵の線を書き直したに等しい卑怯なやり方で、このように途中で変更された証拠の吟味は特に慎重に行っていただきたい。おもな変更項目には 次のようなものがある。
   ①血液型
    佐藤松雄の血液型は、それまで家族などの証言を基にしてAB型とされていた。しかし、本件死体を佐藤だと決定してからは、それに合わせてA型であると変更している。
   ②体型
    本件死体の現場検証での実測身長は152センチメートルだったので、筑紫野署の殺人事件捜査本部の身元照会依頼書では余裕を見て推定150~155センチとして捜査していた。この数値は家族知人の証言する佐藤の身長とは矛盾する。
 そこで従来までの家族や知人の証言を変更した。確定審ではさらに進んで、何の根拠も示さずに、発見時に死体の測定間違いがあったと推定している。
 念のため体重についても補足する。
 確定審の判示では「佐藤の体重は、同人の身長、肥満度からすると65キロ前後であったと推定される(92丁)」というのであるが、死体詰め段ボール箱を乗用車へ積めるかの実験検証(弁護人証拠カード36番)において、実験者松原弁護人、山田弁護人、新矢悦二裁判長のいずれもが車載搬入できなかった事実を踏まえ、控訴審における検証再実験では現場での不意打ち変更で56.5キロのダミー人形が使われたのである。
 「佐藤の155ないし158センチメートルという身長や解剖結果による腹部の皮下脂肪圧1.5センチメートルというデータから予想される肥満度に照らして右重量は妥当なものである」と、控訴審判決(31丁)で変更して判示している。
   ③デンタルチャート
    本件再審請求の核心ともいえる事項である。後述する通り伊波侃歯科医師がX線パントモフィルムの裏表についての証言を翻した際に、作成していたデンタルチャートを新しく変死体の歯牙に合致するように作り変えている。
 即ち、右伊波は昭和60年7月20日、佐藤の歯牙を示すというデンタルチャートを作成し証拠提出していたが、この内容はもとより本件変死体の歯牙とは一致していなかった。
 捜査当局が事件シナリオを変更した後の同年8月27日、右伊波は当局の求めに応じて新たに変死体の歯牙と一致するデンタルチャートを作成して、これを佐藤名義のデータと称して再提出している。
   ④死後推定期間
    牧角三郎九大法医学教授の鑑定書(検121)によれば本件変死体の死後経過時間は「死後少なくとも2,3ヶ月を経過しているだろうと推測される。山中に放置された死体という特殊環境を考慮すると、半年以上経過している可能性もないとはいえない」とされていた。この鑑定結果は本件変死体が佐藤である事実とは矛盾する。
 そこで捜査当局のシナリオが変更された後の昭和60年9月3日、右牧角の証言(検122)は次のように変更された。
「このたびマスコミ報道、警察などの説明により死後3週間ぐらいだと分かり、当時の解剖写真を再び検討すると(中略)見方により3週間程度とも考えられます」
 捜査当局の誘導により、証言はシナリオに合わせて、かくもた易く変更されるのである。 
 4.構成要件だけの特異な判決
   本事案の確定判決が認定した殺人の犯罪事実は、「罪となるべき事実1」を読めば判るとおり、殺人という重大な犯罪事実について、犯行日時もはっきりせず(昭和55年7月24日の犯行説はアリバイの発見により控訴審で否定された)、凶器も特定できず、犯行の動機も不明、犯行前後の情況も全く特定できていないという特異なものであった。
 要するに、いつやったか、なぜやったか、どうやってやったか、一切不明だがとにかく、お前がやったことは間違いないという乱暴な決め付けである。
 一方で、確定判決が佐藤であると認定する本件変死体が発見された現場の情況は、死体が全裸で放置されていること、緊縛されていること、その緊縛紐の一部が焼き切り離されていること、陰茎・陰嚢が切り取られていること、など、明らかに性的な猟奇殺人事件といえる特殊な状態だった。
 また、犯行場所とされているシティホテルにしても、人を殺してその死体を運び出すにはこれほど不向きな場所はなく、常識的に見て、ここで人を殴り殺そうと計画する者は一人もいないであろう。それにもかかわらず、24時間、客の出入りや動静を監視しているホテル側の誰にも感知されずに暴力的な犯行が行われ、死体が運び出されたと決め付けるなら、そこにはこの事件を特徴付けるほどの重大な理由がなければならない。
 確定判決は刑法で定める最小限の犯罪構成要件のみで表現されていて、果たしてこのような事件が真実存在したならば、かならず説明されるであろう細部の事情が全く解明されていない。事件の前後の脈絡を欠いたこのような事実認定は、到底現実の犯罪事実を示したものとはいえない
 5.確定判決の証拠構造は次の通りである。
   確定判決が認定した本事案には、客観的な直接証拠が何も存在しない。目撃証人はいない。凶器は発見されていないどころか、何が凶器だったのか解明すらされていないし、他に犯罪事実を裏付ける物証らしきものはない。請求人はもちろんのこと、被害者とされる佐藤が事件現場のホテルに存在していた証拠もない。認定事実に沿うような自白調書もない。
 殺意の有無に関しては、発見された死体の頭骸骨に骨折がある以上は殺意があったに違いないと、想像だけで決め付けている。この骨折が死亡の原因になったのかどうか、故意だったのかどうか、生前に作られたのか、死後だったのかを示す証拠も無い。
 確定判決が事実認定の根拠としたのは、取り調べ検事の伝聞証言と、請求人が佐藤の財産を乗っ取ったのではないかという臆測に基づく情況証拠だけである。
    ①情況証拠
   最も重要な情況証拠として「被告人が佐藤の失踪直後から同人の印鑑類を所持していた事実は、被告人と本件犯行との結び付きを認める証拠となる」と判示するが、請求人が佐藤の実印を所持していたという証拠は存在しない。
 佐藤を殺したのだから実印を所持していたに違いない→実印を持っていたのだから佐藤を殺したに違いない、という循環ループを描いて、殺害と実印の所持という両方の事実を認定する恐ろしい論法を使って架空の結論に飛躍している。
 請求人が佐藤の預金通帳と銀行印をもっていた理由については後述する通りであるが、佐藤に対する請求人の債務を担保するためであって、佐藤殺害の情況証拠と断ずるのは誤っている。
  ②検察官の伝聞証言
   結局、本事案において確定審は、請求人の捜査段階の自白を決定的な情況証拠と位置づけて有罪認定を行ったといえるのである。
 ところがこの自白は、請求人の署名押印のある供述調書によるものではなく、請求人の取調べを担当した佐々木善三検事の伝聞証言によるものだった。本事案は刑事裁判法廷における一方の当事者である、検察官の証言を唯一の決定的証拠として有罪認定したという特異な裁判であった。
 請求人は136日間に及ぶ取調べ勾留期間を通じて、一度も検察官のいうような自白をしたことは無い。自白調書が存在しない事実が、そのような自白が無かったことを裏付けている。
 検察官は被告人と利害を反対にする裁判の挙証責任者である。その検察官が伝聞を装って一方的に被告人の供述内容を証言することが許されるならば、被告人の黙秘権は実質的に何の意味もなくなる。
 自白調書が存在してさえも、書かれた供述内容を慎重に吟味する必要があるのに、検察官から創作シナリオを伝聞証言された場合には、果たしてそのような供述が実際に存在したのかどうかの確認をできず、被告人側からはほとんど反論の余地がなくなってしまう。
くなってしまう。
 本事案で検察官の伝聞証言を基にして有罪認定したのは、請求人の黙秘権を侵害したものであり、憲法38条1項に違反している。
 6.X線フィルムの証拠としての重要性 
  確定判決は「第一 佐藤が昭和55年7月下旬ころ筑紫野市又はその周辺において何者かによって殺害された事実についての検討」において、本件変死体を佐藤松雄であると認定する理由として、若干の状況証拠に加えて「さとうまつお」名義の歯科医療用パノラマレントゲン写真フイルム(一審甲297、東京地裁昭和61年押127号の20、以下証拠物フィルムという)と変死体との歯牙形態が一致していることを挙げている。
 本事案は請求人が無実を主張し、本件変死体と佐藤松雄が別人だと主張して争ってきた事件であるから、死体の身元特定の決定的証拠となった証拠物フィルムの事実認定に占める重要性は言うまでも無い。
 証拠物フィルムの信憑性が薄れれば、本件死体と佐藤との同一性の認定が崩れ、本事件そのものが成り立たないのである。
 以下に述べるとおり、証拠物フィルムは、捜査当局が捏造した何点かの偽造物フィルムの中の1枚であり、しかも公判の途中で検察官によりすり替えられたことが判明したので、御庁はこの点に関し、特に慎重な審理をお願いしたい。
  
第3 証拠物フィルムの偽造・変造
 1.なぜX線フィルムと変死体が一致しなかったのか?
   本事案は、請求人の自白によって本件変死体の身元が判明したと判断され、このことが有罪判決の最大の根拠となった事件である。
 ところで本件変死体は、すでに請求人が逮捕される5年前に発見され、当時福岡県筑紫野警察署内に殺人事件捜査本部が設置されて、全国警察に身元照会捜査をしていた。本件変死体の歯牙などの特徴情報は、過去に発見されたまま身元が判明していない死体の情報をすべて集めた「身元不明死者写真便覧」に掲載されている。(1審高橋弘警部証言速記録6丁)
 一方で、捜査当局はすでに昭和60年1月25、26日ころに伊波侃歯科医師から、佐藤の死体との照合をする目的で「さとうまつお」名義のX線フィルムやカルテの提出を受けている。
 本件死体が真実、佐藤松雄であり、かつこのときの提出されたフィルムが証拠物フィルムと同一であったなら、それから半年以上も経って請求人が逮捕されるまで、なぜX線フィルムやカルテのデータが死体と一致しなかったのか。請求人の自白を待つまでもなく、変死体の身元がとっくに判明していなければおかしいではないか。
 2.左右を反対に説明されたためか?
   捜査当局はその理由として、同年7月20日に改めて伊波医師よりX線フィルムを任意提出し直してもらった時に、裏表を逆に表示され、伊波医師がフィルムの裏側に赤いマジックインクで「右」「左」と書き込んだために、フィルムの左右を取り違え、本件変死体と一致しなかった、と弁解する。
しかしながら、前記したように当局が伊波医師から最初にフィルムを入手したのは同年1月のことである。この任意提出の折にフィルムとカルテとを照合しながら、捜査官が伊波から正しいフィルムの裏表の判別説明を受け、正しい右側、左側の認識を得ていたことは明らかであろう。さもなければ、過去の変死体と見比べて佐藤の死体であると判別することが出来ないからである。
 だから仮に7月20日の再提出の際に、前回1月のときと違った資料説明をされ、フィルムの裏表を間違って指示されたとしたら直ぐその場で分かることだ。
 歯科医師が自分の診療所のフィルムの裏表を勘違いすること自体がおよそありえないのに、カルテと見比べれば素人が見ても一目瞭然の誤りを、捜査官の事情聴取で伊波医師が1月と7月に続けて2度も行い、刑事もそれに気付かなかったということはありえない。   
 3.赤マジックインクの文字が書き込まれた事実
   ()書かれたのが裏側であったのか、それとも正しい位置だったのかはともかくとして、7月に伊波医師が再提出する際にX線フィルムに赤いマジックインクで「右」「左」の文字を書き込んだことは、以下(2)(3)の通り、1審の公判証言より明らかである。
   (2)<検察官の証人高橋弘(捜査四課三係長)に対する証人尋問速記録>
7月20日に伊波医師から再度提出を受けたレントゲン写真というのはこれですか。
   はい、そうです。
このレントゲン写真に赤のマジックインクで右左という文字が書かれていますが、これはだれが書いたんですか。
   私は把握しておりませんが、7月20日に任提を受けたときには入っておりませんでした。伊波医師が記入したものだと思います。
伊波医師がいつ書いたかということは知っていますか.
   ・・・ちょっと、捜査を下命したことは記憶してるんですが、日時は記憶しておりません.
7月20日に任提を受けたときには入っていないと、あなた、言われましたが、それは覚えがあるんですか。
   持ってきた時点で私、見てると思いますが…
で、そのときにこの文字が入っていなかつたという記憶があるんですか。
   ………明確にはございません.
先程、7月20日に任提を受けた時点では入っていなかったと…….
   記憶してるということです.
と記憶してるんだけれども、明確ではない。
   はい。それは、それを担当しましたものに確認すればはっきりすると思います。
文字は伊波医師が入れたものと思うということですね.
   そうです。
      (中略)
検察官
前回、検察官の質問に対して答えられた供述の中で、その後、捜査記録を再検討してみた結果、訂正するという箇所がありますか。
   ございます。
それを言ってみてくれますか。
   まず、第一点は、伊波医師から任提を受けたレントゲンにマジックで日付を記入した日ですが、前回ちょっと記憶がはっきりしなかったんですが、確認しましたところ7月20日という確認がとれました。」
   (3)検察官の、証人伊波侃(歯科医師)に対する証人尋問速記録より
「前同、昭和60年東地領第5573号の符号48のレントゲン写真一枚を示した。
それは佐藤松雄さんの歯のレントゲン写真で、証人がおとりになったものですか。
   そうです。
いつごろとられたものですか。
   ……カルテも一緒に参照致しますと、レントゲンは合計四回、カルテの上ではとって、請 求してあることになっておりますが、かなり、もう5年以上たっておりますので、一応5年まで が、きちんと保存期間として定められているんですが、それ以上たってまして、ほとんど整理しちゃったもので、たまたまこれが残っておりました。それで、これは日にちを入れてませんが、左上七番が残っておりますから、左上七番を抜きましたのが、先程申上げましたように52年の10月ですから、52年10月以前のレントゲンと考えられます。
そのレントゲン写真に赤のマジックで、右左と書いてありますが、これはだれが書いたものですか。
   これは私が書きました。
いつ書いたものですか。
   ……これは、確か、警察の方がおいでになつて聞かれたときに、わかりやすく説明するために書いたものであります。
証人は.昭和60年7月20日にそのレントゲン写真を任意提出するとともに、警視庁の捜査官に対して、佐藤松雄さんのデンタルチャートといいますか、歯の図とその概要、状態を書き入れたものを提出しておりますね。
   はい。
今のレントゲン写真に右左と書いたのもそのときでしょうか.
   ええ、そうだと思います.
前回、昭和60年7月20日付、証人作成のデンタルチャート1枚を示した
それが、7月20日に証人が書いて捜査官に渡したデンタルチャートですか.
   はい。
ところで、そのレントゲン写真に書き入れた右左の文字の記載があとになって、反対だったことがわかったということがありましたか。
   そうですね。このとき、これは7月ですね、7月に警察の方がいらっしゃって御説明するときも、実を言うと、診療時聞内で、まあ、患者さんを待たせながら、口をあけさせながらの状態でしたので、ゆっくり確認もしないでチャートを書いたために、左右が間違いだったと、あとになって気がついたわけです。
いつわかったわけですか.
   これは、そのあと、また1か月後ぐらいに警察の方がいらっしゃったとき、わかったわけです。
証人は、60年8月27日に警視庁捜査4課の捜査員に対してそのことを話し、改めて、また、デンタルチャートを書いて提出しましたね。
   はい。
 4.赤い文字が存在することの重要性
   以上、検察官の主張する通りだとすれば、証拠物フィルムには、本件変死体の歯牙と左右が逆のパターンを示す位置に(裏側に)赤マジックで書かれた「右」「左」の文字がなければならない。
 この左右逆に表示された赤い「右」「左」の文字が書き込まれたフィルムこそ、伊波医師が提出した佐藤松雄の真正なX線パントモフィルムである。
 5.証拠物フィルムは偽造物である
   然るに、御庁で保管していると思われる1審の証拠物フィルムには、一見して分かるとおり「右」「左」の文字が存在しない。
 その代わりに、表側の正しい位置に黒のマジックインクで「L」「R」と書き込まれている。すなわち、証拠物フィルムは伊波医師が提出したものではないこと、佐藤松雄の歯牙を写した真正なX線パントモフィルムではないことを示している。
 6.伊波医師の文字ではない
   なお念のために付け加えれば、証拠物フィルムに書き込まれた文字について、伊波医師は以下の通り、自分の書いたものではない、と明言している。
「甲第8号(注・証拠物フィルムのコピーのこと)を示す
一五、このフィルムに7月20日の時点で赤いマジックで右、左と書いたという記憶にありますか。
      はい。
一六、(現在は)このフィルムの右下と左下にL、Rと書かれていますが。
      これは私が書いたものではありません。
一七、被告が提出したフィルムには、左右逆の位置に赤マジックで右、左と表示してあると考えて良いですか。
      はい。」       (証拠提出した平成3年(ワ)第4320号伊波侃の本人調書より)
 7.X線フィルムが他に複数枚存在していた事実
   以上の通り証拠物フィルムは伊波医師が提出したフィルムとは別物であることが明らかになったのであるが、偽造されたフィルムの存在は、1審の記録中に他にも存在する。
 捜査当局は「さとうまつお」名義のX線パントモフィルムを、少なくとも3枚作成しているのである。
   (1)前記した伊波侃証言速記録にあるとおり、伊波医師は昭和60年8月27日に捜査官の訪問を受けて、「さとうまつお」名義のフィルムを示され、書きこまれている左右の文字が逆であることを認めている。
 この日付については、他に伊波医師の検面調書(甲127)、員面調書、前記高橋弘作成の捜査経過報告書(甲142)、伊波作成のデンタルチャートなどにも記録されている明白な事実である。
 そしてこの日に捜査官の訪問を受けた時刻について、伊波医師は次のように証言した。(前記、伊波侃の本人調書)
原告
一二、先程、(フィルムの裏表を)訂正したのは7月と述べましたが、8月27日の誤りだと思いますが、そのときも診療の合間で非常に忙しかったと述べていますが、何時頃だったと記憶してますか。
      午前中に来て昼位までだと思いますが、ほっきりした記憶はありません。
甲第八号証を示す
一三、捜査官からこのフィルムは逆ではないのかと間かれませんでしたか。
      左右が逆ではないですかということで、もう一度倹討してくださいということでした。
一四、捜査官がそのときフィルムを持ってきたか記憶にありますか。
      はっきりしませんが持ってきたと思います。
 伊波医師はこのとき、重ねて念を押す請求人の質問に対し、
「医院は夕方6時に閉めるのですが、そのあとまで居残って警察から聴取されたことは一度もありません」
と断言している。
 以上の通り、前同日の昼ごろ、渋谷の伊波歯科医院に、裏側に赤い左右の文字の記された佐藤松雄名義のフィルム1枚が存在していたことは明らかである。
 これを1枚目とする。
   (2)ところで前同日、藤原孝吾警部補と加藤栄三巡査部長が福岡市中央区の河原歯科医院を訪れ、河原英雄医師に左右が逆に表示されたX線パントモフィルム1枚を示して本件死体と一致するか否かの供述を求めている(甲126供述調書)。
 このことは一審河原英雄証言速記録の記述からも明らかである。
検察官
昭和60年8月27日に、警視庁の警察官が、佐藤松雄という人の歯のパノラマレントゲン写真とカルテを持ってきて、証人の鑑定した頭蓋骨の歯と符合するかどうかの確認を求めたということがありましたか?
    はい。
その結果はどうだったんですか?
    あの、レントゲン写真を持ってお見えになったんですね。で、それの、あの、右、左を逆にすればぴったり符合するということでした。
甲297レントゲン写真1枚を示した。
これを見てください。
    ああ、これです。
いま証人が右、左を逆にすれば、と言われた意味は、どういう意味ですか?
    あの、赤で、これ右、左と書いてありますけど、実際に私が鑑定した頭蓋骨は、これを、裏表にしますと、あの、ぴったり符合するわけですね。
ということは、文字で記載された右、左を反対にすると・・・
    はい。
頭蓋骨の歯と一致するということですか?
    はい。
      (中略)
そうすると、カルテの記載と、このレントゲン写真を見比べて、レントゲン写真に表示されておる赤のボールペンで記載された右、左の文字は、間違えて反対に書かれているのだと言うことが分かったと・・。 
    そうです。
で、証人は、そのことを警視庁の警察官にも言ったわけですか?
    はい、言いました。
              (中略)
レントゲン写真を見てください。マジックで書いてある右と左が逆だと言う風に言われましたね。
    はい。
で、このレントゲン写真が、どっちが右であり、どっちが左にあるのが正しいのかと言うことを、このレントゲン写真だけから判断できないんですか?
    私はちょっと出来ません。ただ、私の場合はですね・・私の場合って、常識的にですね、名前と言うものをまともに入れると、レントゲンには逆に出てくるんです。だからレントゲン見るときに、こう、逆に見れば良いんですけど、それは病院、病院によってちがいますから・・・
そのためにLとRを入れて、右と左をはっきりさせるわけですね?
    はい。
今回、これ、してないんですが、このレントゲン写真だけからは、今の名前以外のことで、判断できないんですか?
    一寸、むずかしいですね。
 

 以上の証言記録等から、前同日、福岡市の河原歯科医院に、裏側に赤い左右の文字の記された佐藤松雄名義のフィルム1枚が存在していたことは明らかである。
 これを2枚目とする。
   (3)念のため申し添えれば、河原医師の聴取を終えた加藤栄三刑事が福岡から東京へ戻ってきたのは、前同日午後7時であった(二審検31黒色手帳の8月27日付メモ)。従って河原医師に示したフィルムを、昼間のうちに渋谷の伊波歯科医院まで届けることは不可能である。
 福岡と渋谷とに同時に同じフィルムが存在することはありえないから、裏側に赤い「右・左」文字の書き込まれたX線フィルムが少なくとも2枚存在したことになる。
   (4)渋谷にあった1枚目、福岡にあった2枚目のフィルムはいずれも裏側に赤い「右」「左」の文字が記載されていたのだから、表側に黒い「L」「R」の文字のある現在の証拠物フィルムとは別物である。
 そこで、現在の証拠物とされているものを3枚目とする。
 本事件の裁判記録上、「さとうまつお」名義のX線フィルムは3枚存在する。
 以上の経緯から判断して、捜査当局は「さとうまつお」名義のX線フィルムを複数枚偽造し、それぞれを使い分けて、伊波歯科医師や鑑定人の虚偽証言を誘導したことが明らかである。

第4 検察官の虚偽公文書作成・行使
 1.X線フィルムが公判途中ですり替えられた事実
   (1)第一審の開始された直後に開示された「さとうまつお」名義のX線フィルムには、裏側に赤のマジックインクで「右」「左」の文字が記載されていた。 これを請求人も弁護人も公判廷で現認している。
 前記した通り、「高橋弘に対する公判質問速記録」「伊波侃に対する公判質問速記録」「河原英雄に対する公判質問速記録」の中でも、検察官が証人にフィルムの赤い文字を示して左右が逆であったことを証言させている。この時点で、フィルムに赤い「右」「左」の文字が書き込まれていなければ、これらの証言はありえないのである。   
   (2)そのほかにも、以下に示す鈴木和男東京歯科大学教授証言速記録によれば、鈴木証人が公判廷でフィルムに逆の左右文字が記載されていたことを認めている。
 質問者である山田弁護人もその事実を確認していることは明らかだ。
「山田弁護人(「さとうまつお」名義のフィルムを示して)
警察からもらったレントゲン写真の右と左は、どういう根拠で、これが右であり、これが左であるというふうにご判断されたわけですか?
    これはですね、このフィルムを見まして、フィルムには膜目がありますね。このエマルジョンの付いている膜面と、そうじゃない部分があるわけです。これを見るわけです。
見て、どうしたんですか?
    こう、見たときに、右左と書いてありますけれども、これは反対じゃないかということは直ぐ思ったですね。それは経験的にそう思いました。」
   (3)然るに、現在御庁で保管されている証拠物フィルムには、裏側に誤った「右」「左」という赤い文字は記入されていない。表側の正しい位置に黒い文字でLRと記入されている証拠物フィルムは偽造品である。
 立証に必要な関係者の証言がすべて終わってから、控訴審が始まるまでの間に、何者かによって証拠物がすり替えられたことは明らかである。
   (4)誰がすり替えたのか人物を特定することはできないが、証拠をすり替える機会を持つのは裁判所職員か検察官しかいない状況下である。限られた中では、立証の必要に迫られた検察官あるいは事務官であると考えるしかない。
 検察官は、一審裁判所が保管していた証拠物フィルムに貼付されていた「昭60年東地領第5573号符48」のラベルと「昭61押127号の20」のラベルをはがして、偽造フィルムの裏面に張り替え、あたかも真正に提出された証拠物であるかのように装い、虚偽公文書を作成し行使した。
 2.すり替えなければならなかった理由
   (1)違法行為という危険を冒してまで、検察官がなぜ証拠のフィルムをすり替えなければならなかったか?これには、ほぼ確実な理由がある。
 捜査当局は少なくとも3枚の偽フィルムを作った。
 前記した通り、1枚目は渋谷で伊波医師に示したもの(裏側に誤った赤色の「右」「左」の文字が書かれている)。
 2枚目は福岡で河原医師に示したもの(裏側に誤った「右」「左」の文字が書かれている)。
 3枚目は偽造する際に現像液が垂れてしまったので、署内の参考資料とすることにして、表側の正しい位置に「L」「R」と記入しておいたもの。本来これは、絶対に外部に出してはいけないはずだった。
   (2)ところが、昭和60年9月2日、東京歯科大学・鈴木教授に鑑定を依頼する際に、正しく左右が指定されているフィルムこそが正しい証拠物だと科警研の係官が認識して、死体頭蓋骨との比較資料として3枚目のフィルムを出してしまったのである。
 まさか左右を勘違いしていたとするトリックで証拠物を偽装する意図があると知らされていない係官としては、正しい左右が記入されているフィルムを提出するのが普通の行為である。
 請求人はまだ鑑定書の現物を閲覧して、その事実を確認することができていないが、鈴木和男鑑定書(甲272)には3枚目のコピーフィルムが添付されて、証拠物になっていることは確実で、従って、表側の正しい位置に「L」「R」の文字が入っているはずである。御庁の保管物なので直ちに確認を取っていただきたい。
 当然のことながら、鈴木教授の鑑定資料フィルムは、伊波医師の提出した真正なフィルムではない。 
   (3)公判の始めに検事が証拠物として裁判所に出したのは、偽フィルムの1枚目か2枚目のどちらかである。
 フィルムの裏側に逆の「右」「左」の赤マジック文字が入っていることを検事自身が認めて、証人に示していたことについては前記した。
   (4)一審公判の事実審理がほぼ終了して、最後の証拠整理をしている段階で、鈴木鑑定書に添付されたフィルムコピーが3枚目のものであることに検察官が気付いた。
 このまま放って置いたらいつか鈴木鑑定書のコピーフィルムの「L」「R」文字と、証拠物フィルムの「右」「左」文字の相違が歴然とするのではないかと恐れた検察官が、これを隠す目的でフィルムをすり替えた。
 以上のごとく有罪判決が出た後に、検察官にはどうしても証拠物フィルムを3枚目の偽造物にすり替えておかねばならぬ理由があったのである。

第5 確定判決に代わる証明(刑訴法第437条) 
 1.捜査当局に対する損害賠償請求事件
請求人は、前述したごとき検察官による証拠捏造という不法行為により損害をこうむったことで平成5年9月20日、国家賠償請求を行った(証拠③御庁民事25部、平成5年(ヮ)第17908号国家賠償請求事件訴状)。
 ところが御庁は「刑事被告人は、その刑事被告事件の係属中には、その捜査段階および公判段階での検察官による証拠捏造など犯罪事実の存否の認定および刑罰権の実現に影響を及ぼす事由にかかる不法行為を理由として、国家賠償を請求することはできない」との理由で、証拠物フィルムの表側の正しい位置に黒いLRの文字を書き込んだという、証拠物偽造の不法行為の有無に踏み込まぬままで請求を棄却した。(証拠④前同事件判決)
 2.時効
   請求人は平成19年11月、懲役20年の服役を終えて千葉刑務所を満期出所し、本事件における刑事手続きをすべて完了した。
 昭和60年7月16日の本事案の強制捜査着手からはすでに22年4ヶ月が経過していて、今から当時の検察官の不法行為を確定判決で明らかにすることは時効の壁に遮られて不可能である。
 3.再審事由となる事実
   伊波侃歯科医師の提出した佐藤松雄のX線パントモフィルムには裏側の逆位置に「右左」という赤い文字が記入されていた。然るに、現在御庁が保管中の証拠物フィルムには表側の正位置に「LR」という黒い文字が記入されている。両者が別物であること、および検察官が公判の途中ですり替えたことは明らかである。
 この事実が判明したのは上告審係属後であったから、刑事訴訟手続きの中では全く検討されぬままで事案全体の事実認定がなされている。仮に、確定審段階で検察官の証拠捏造の事実が判明していたなら、本事案の判決内容が異なったであろうことが明白である。

第6 財産処分事件との関連
 1.確定判決が認定した財産処分の犯罪事実について
   確定判決の認定事実2ないし9の犯罪事実につき、いずれも佐藤から請求人に代理権及び処分権が与えられており、請求人は無罪である。
 そのうちで特に確定判決の認定事実5、8、および9について、佐藤と直接の連絡がつかぬままで行った請求人の行為に、仮に外見上の違法性が見られるとしても、それは緊急避難行為であり、佐藤の推定的承諾の範囲内の行為であった。
 2.本件死体を佐藤だと錯覚してなした供述である
   請求人は、警視庁で取調べを受けていた昭和60年8月29日に、本件変死体が佐藤であったことを告げられた(上告審の上申書参照)。
 警視庁で保存されていた佐藤の身体データに加えて、歯のX線フィルムの画像が一致したというのでは、請求人も信ぜざるを得ない。この時点で請求人は、佐藤が少なくとも変死体として発見された昭和55年8月以前に死亡していたものと信じ込まされてしまったのである。
 従って、この日以降に請求人の行った財産処分関連の行為は、仮に以前から佐藤の委任を受けていたものであっても、佐藤の死亡により委任契約はすべて失効している、というのがその時の取調官の説明であった。
 請求人もその言葉を信じてしまったので、もともと5年前のぼんやりした記憶に頼って弁解を続けていた状態を維持できなくなってしまい、過去の記憶の確証を持てなくなってしまったものである。
 以後の取調べにおいては、取調官のシナリオに反論することも出来ず、言われるままに認めることになってしまった。
 3.参考人の供述
   請求人の財産処分に関する参考人供述は、検察官が予め作成していたシナリオ通りに誘導して作文されたものに、署名を求められたものである。5年以上遡って、ありふれた日常的な行動を正確に記憶していること自体があり得ないことであって、細部にわたるまで記憶を供述している事実は、強く検察官の誘導があったことを表している。
 4.罪状認否も錯覚のもとに行われた
   本件死体は佐藤であると信じ込んだ状態のまま初公判の罪状認否に臨み、請求人は財産関連の事案について認める陳述をしてしまった。そのため、以後の公判では事実上、財産処分関連事件についての事実調べが行われていない。
 公判が始まって検察官から開示された証拠資料を見ることが出来るようになって初めて、請求人は過去の記憶と照らし合わせ、本件死体が本当に佐藤であるのかと疑問を抱き始めたのである。
 5.弁護人も錯覚していた
   請求人は疑いを持つと直ちに、弁護団に対して、財産処分関連事案の認否を変更して、全面的に否認に転ずる旨を相談した。
 しかし、歯のX線写真が一致しているという事実の前では、弁護人たちも本件死体が佐藤である可能性が高いという錯覚から逃れられなかった。
 今になってから請求人が全面否認に転ずれば弁護人は裁判所の信用を失うことになり、今後の弁護に支障をきたす。一斉に辞任するしかない、と厳しく弁護人と対立した。公判が始まっても、完全な接見禁止状態にあった請求人は、他に助けを求める手段もなく、やむなく罪状認否をそのまま維持したものである。
 6.以上の通り、請求人も弁護人も本件死体が佐藤であると錯覚したままで事実認否を維持してきたのであるから、死体と佐藤との異同に疑いが生じた以上、財産処分関連の事案についても、再審を開始すべきである。

第7 佐藤松雄の失踪の原因について
 請求人は佐藤の失踪の理由が本件殺人事件以外にも存在していた可能性について、次のように主張する。
 1.佐藤松雄は躁うつ病だった
 佐藤松雄が躁うつ病にかかっていた事実に関しては、公判での争点になっていなかったので、以下の通りに補充する。佐藤が失踪当時躁病状態にあったということは、本件殺人以外の何らかのトラブルに巻き込まれたという可能性が高まるのである。
   (1)佐藤の妻の証言
 佐藤が昭和47年ごろから自宅を出て、それ以降、居所を定めずに、あちこちと放浪状態といっても良い生活を続けていたことについては、原審各証拠でも各所に見られる事実である。加えて、以下に、当時佐藤の妻であった佐藤キヨヱの証言速記録から転載する。
「原告代理人
ご主人が病気になったのは、いつ頃からですか。
   49年頃でございます。
49年と言うと、2~3年前ですよ。
   失礼しました。39年頃です。
最初はどんなだったんですか、ご主人は。
   睡眠不足です。夜、眠れないのです。
不眠症ですか。
   はい、不眠症です。
39年ごろから不眠症になったというわけですか。
   その前から、そういう状態は幾分ずつ見えておりました。
それで、ここに診断書があるのですが、不眠症から躁うつ病になったと、こういうことなんですね。
   はい。
甲第2号証を示す
この診断書はご存知ですね。
   はい。確かに私の頂戴したものです。
これは晴和病院の診断書ですが、この晴和病院へ行く前に、どこかの病院にかかっていませんでしたか。入院するほどであるなしに関わらず。
   一番最初、聖路加病院。その次が渋谷の福田病院。それから慶応病院に入院いたしました。
慶応病院には入院したことがあるのですか。
   はい。
甲2号証の晴和病院に入院する前ですか、慶応病院というのは。
   前です。
どのくらい入院されていました?
   まる1ヶ月で検査できるはずでしたが、検査で分からなかったので、何も無かったことになりました。
1ヶ月ぐらい入院した?
   しました。
どこが悪いのか分からないと言うのですか。
   分からないままに出てまいりました。
で、退院した。
   はい。
それで不眠症、治りました?
   いいえ、ぜんぜん治りません。もっとひどくなりました。
それで甲2号証にあるように、入院とか退院とかいうことを繰り返していたわけですね。
   はい。
         (中略)
あなたのご主人は、病気が重くなった頃、自殺を図ったことがありますか。
   はい。
何回ぐらい、自殺しようとしましたか。
   合計4回ぐらいですけれども、一番最初は39年ですか。
39年は、あなたが家庭に入った年ですよ。まだ、不眠症の頃じゃないですか。甲2号証見ますと、43年4月2日入院したとありますね。
   はい。その前です。
それと関係ありますか。
   はい、あります。その前。
どのくらい前ですか。
   そうですね、4~5日前だと思います。
それが一番最初ですか。
   はい。
そうすると43年4月2日の5日か1週間ぐらい前のところで、自殺を図ったことがあると、こういうことになるわけですね。
   はい。
で、合計4回ぐらいだと、こういうことですか。
   48年・・・47年までで合計4回です。
それはいずれも自宅で自殺を図られたのですか。
   はい。
どのようなときに自殺をしようなんということになるんですか。
   うつ病のときに自殺を図ります。
じゃ、病気の状態から先ず聞きましょう。躁うつ病というのは、どういう状態になるんですか。躁とうつと別々の状態になるんですか。
   全く違ったものです。
その説明をしてください。現実に看病していて、どうなるんですか。
   うつ病といいますと、他人と会うことを怖がります。そして、食事もしたくない。寝ただけでございます。人がいないとき、また暗くなった時分をはかって自殺を図ります。それから、躁病というのは、ちょうど普通の人がお酒を飲んだとき、酔ったような感じで、感情を全部出します。それと1年の季節に左右されるようです。
そうすると、うつ状態というのは、文字通り憂うつな状態なんですね。
   大体秋に出ます。
全然、はたから見てもはっきりその病気だと・・・
   人が見て分かりません。
分かりませんって、食事もしないで寝ていれば分かるじゃない。
   うつの場合はよく分かりますが、躁の場合は一寸分かりません。
ほがらかになっちゃうのですか。
   長く話してますと、話が飛びますので、だんだん分かってきます。
それで、うつ状態のときは、とにかく自宅療養ということになるんですか。
   自宅におりまして、ひどくなりましたら直ぐに医者に連絡しまして、入院さす、という状態でございます。
躁状態というのは、家出なんかするんですか。
   はい。家出をしたり、遊び歩いたり、先ず、女性遊びを派手にやりたいというのが、自然に出てくるのです。
それは何月から何月まではどうなる、とかという決まった状態があるのですか。
   大体は決まっています。
どのようにですか。
   やはり陽気ですから、春から夏にかけると、躁病にかかります。
ほがらかに元気が出る。
   はい。家に落ち着いていなくて、秋口になりますと、それが今度、憂うつになってきまして、他人と会うことも嫌うのです。
そういう時は布団被って寝てるわけですか。
   はい。
暴れるようなことがあるんですか。
   それは、躁病のときに人の意見を全然聞こうともしませんし、話の食い違いから止めようとしますと暴れます。暴力を振るうのです。
そうすると、先ほど酒に酔ったような状態というから、感情がむき出しになるわけですね。
   はい、そうです。
         (中略)
で、自殺を図るなんというのはうつ状態のときですね。
   はい、そうです。
それはあなたがいるときに自殺を図られたわけですか。
   はい。私が発見して初めて助かったようなもので、全く自分ではわかっておりません。それは惨めなものでした。うごめいて、這っているだけでございます。当時病院へ連れて行くのにも困難でございました。なかなか言うことを聞いてくれませんし・・・
自殺を図るにもいろいろあるんですが、ガスもあるし、首吊りも・・・
   首吊りでございます。二重三重に自分の首に巻いて、とても階段なんかで死ねるものじゃないのですが、階段の一番上のところに柱が立っております。そこへ繋ぎまして、階段にぶら下がるのですから、とても死ぬような場所じゃないのに、なぜそういうことになるのか、というくらいです。
垂直にぶら下がるわけじゃないのね。
   垂直にぶら下がったのは、45年ですか・・・
そんな時もあったんですか。
   一番ひどい時でございました。で、病院では、奥さん、このままにしておくと全く馬鹿になるかどっちかわかりませんので、電気治療してよろしいですか、と言われました。で、どちらにしても助けなければならないのですから、できるだけ助けてくださいと・・・。電気治療は奥さんの意見を聞いてからでなければできませんから、じゃ、よろしいんですね、といって電気治療をいたしました。
それで助かったというわけですね。
   はい、そうです。
それで、その後も何回か、入院したり退院したりしているわけですね。
   はい。
大体治ったと、普通そんなに暴れもしないし、というようになったのは何年ごろでございますか。
   そんなことは私が覚えている限り、その後はなかったですね。それから出て行ったきり探すのに苦労いたしましたから。
それから47年の3月に入院して、5月に退院というのが書き加えてありますが、これも晴和病院なんですか。
   そうです。
それからうつ状態はその後は少なくなるの。
   私、その後は分かりません。
47年に退院してからは、家出して出歩くわけですか。
   出歩いてお金は使います。女道楽はします。家のほうにさんざん、女性から電話がかかってきます。その都度探しに、その場所へ行きました。
          (中略)
そこでご主人は37年に5月退院してからよく家出するようになったという先ほどの話でしたね。
   はい、そうです。
家出してずっと帰ってこないことがあるんですか。
   47年のときは、大体東京に居りました。東京のバー、キャバレー、そういうところを遊び歩いておりました。
帰っては来るんですか。
   そのじぶんには、3日ぐらい泊まったり、その日によって違います。
だから月にして・・・
   47年には平均7日、8日帰ってきました。
そうすると家出というほどじゃない。
   7年には完全な家出ではございません。
その後ひどくなったんですか。
   そうです。
今度47年から48年になるんだけれども、この頃になるともっとひどいんですか。
   8年は、もうほとんど行き先が分からないで警察に頼んだことがありました。
警察に頼んで、あなた一度、迎えに行ったことがありますね。
   はい。
それは48年のいつごろ家出したんですか、ご主人が。
   ちょっと・・・。
迎えに行ったのは年の暮れでしょう。
   そうです。
そうなると、いつごろ・・・。
   あれは年の真ん中辺りです。
と、6月ごろということ。
   はい。
48年の中ごろ。
   はい。
で、家出して、行方、分からなくなっちゃったんですか。
   そうです。」
<本請求書添付の「御庁昭和51年(タ)第228号離婚等請求事件 原告佐藤キヨヱ本人調書」>
  (2)そのほかにも失踪当時の佐藤が躁状態にあった事に関しては、次のような各証言がある。
   ①佐藤が請求人との取引に際し、あまりにも簡単にこちらに妥協して好条件を提示してくるのにかえって不安になった請求人は、今後とも、佐藤をまともな商売相手と考えて信用して良いのかどうかの判断に困り、友人の岩田修一に人物評価を頼んだことがある。岩田の証言によれば、初めて見たときの佐藤は奇抜な行動で、街中でも目立っていた。
  「(昭和54年6月頃、折山が)岩田さんに紹介したい人がいる。僕はその人と、これから一緒に事業をやっていこうと思っているので、会って、人物を確認してもらいたい、と言ったのです。このように頼まれたのは、私がいろいろな商売をやっていた経験があるので折山さんが意見を聞きたいと思ったのだろうと思ったのです。
 この時、折山さんからその日の午後1時ごろ、渋谷の東急本店通りにある「くじら屋」の前でその人と会うことになっているので、折山さんの車をそこへ持っていって、待っていてくれないかと言われました。折山さんは、何か別の用事をしてから、そこへ来ることになったのです。
 私が折山さんから言われたとおりの場所で車を停めて待っていると、爪楊枝をくわえて、アロハシャツを着た小太りの60歳ぐらいの男が近くへ来て立っていました。私は、まだ夏でもないのにアロハシャツなんか着て、変なおやじだなと思って、その男をつい見てしまったのですが、相手も私のほうをちらちら見ていました。
 するとそこへ折山さんが来て、そのアロハシャツの人に遅れてすみません、と言って、私をその人に友人の岩田さんですと紹介し、また私にこの人は佐藤という社長だよ、と紹介してくれました。   (中略)   草取りをさせるような人と折山さんは合わないと思う、やめた方がいいよ、と言いました。折山さんは、うーん、と言って、それ以上何もいいませんでした。」
                                              <甲211岩田修一供述調書>
   ②昭和55年4月末に隣家に転居してきた新戸もとわによれば、佐藤は夜中の1時、2時までベランダを下駄で歩き回り、カランコロンと言う音を響かせていたので、ずいぶん近所迷惑を考えない人だと思っていた、という。                                                       <甲45新戸もとわ供述調書16丁>
   ③佐藤は他人の迷惑をお構いなしに、誰彼と無く真夜中まで電話をしてきて、意味の通じない自分だけの世界を陽気にしゃべりまくっていた。請求人の元妻の証言によれば、、
 「主人が銀座の水商売の店をやるようになってから真夜中に帰宅するようになりましたが、佐藤さんから主人の帰宅前に時々電話がかかってきておりました。銀座の水商売の店は午後11時に終わると言うことで、佐藤さんはその後の時間に主人が当然家に帰っているものと思い、電話をかけてきていたようです。
 佐藤さんは主人が居ないことが判っても、私には意味の分からないようなことをくどくどと話をしておりました。その内容は仕事の話ではなく、空想的な、佐藤さんでしか判らないようなことでした。そして、奥さんは良い声をしていますね、などと言うものですから私は佐藤さんがすっかり嫌いになりました。」                                                                                        <甲265折山恵子供述調書3391、3392丁>
   ④佐藤の身近にいて、佐藤の性格や状況を良く知っていたはずの、元妻木村キヨヱは、当時の佐藤がおかしな行動をするので何らかのトラブルに会う可能性が高い人物であったことを示唆している。
  「昭和54年初め頃、私が佐藤に無断で敷地に建物を建てて賃貸していたところ、佐藤が怒ってその建物を壊したということがありました。その家を壊しに来た人たちの指図をしていたのが、この折山敏夫だったのです。佐藤と折山の関係はよく分かりませんが、二人が話をしているときの様子を見ていると、佐藤は折山に、オイこれやってくれ、アレやってくれ、と言いつけ、それに対して折山は、社長、こうしたらどうですか、と言った言い方をしており、そばから見ておりますと、ごく親しい兄弟のような感じを受けました。私は佐藤が精神病でおかしな行動を取りますので、折山という男にうまく騙されて、財産を巻き上げられなければ良いな、と感じました」                                   <甲第182木村キヨヱ 供述調書2026、2027丁> 
 2.佐藤の激しい性格
 原審各証拠上、佐藤と交流のあった者のほとんどが、佐藤の性格が激しかったと証言している。実際に暴力を振るわれた者もいた。他人と穏やかに交流できないという性格は、自ら事件に巻き込まれる危険性を高める。
   ①当時、住友銀行田園調布支店の預金課長芳澤智三郎によれば、主要取引銀行ですら、佐藤に関して要注意人物のブラックリストに載せていたのである。
  「昭和51年2月、私が田園調布支店に転勤したとき、前任者から佐藤さんに関しての申し送り事項があったのです。その内容は、佐藤さんは店内で騒いだことがあり、性格が激しい、とか、当座預金が少なくなった場合の連絡先は、佐藤さんの自宅、渋谷区宇田川町の佐藤企画・喫茶店、桜商興の事務所、などでした」
                                         <甲81芳澤智三郎供述調書1121丁>
   ②佐藤の協調性のない激しい性格は、田園調布の自宅隣人たちからも評判が悪く、近所付き合いは皆無であった。前述の新戸もとわの証言によれば、次のようである。
  「引っ越してから近所の人には引越しの挨拶に行きましたが、近所の人の話や、あるいは御用聞きの話によると、佐藤さんは土地の境界のことや、壁のことなどで、近所の人と揉め事を起こしている、あるいは、お米の代金を支払っていないなどと
言う悪い評判を聞きましたので、佐藤さんとは近所づきあいもせずに、できるだけ顔を合わせないようにしようと考え、引越しの挨拶にも初めは行きませんでした」 
                                         <甲第45新戸もとわ供述調書14丁> 
   ③当時、和光証券渋谷支店課長だった上田輝夫は、顧客である佐藤の気分を害したというだけで、突然に暴力を振るわれている。
  「佐藤さんは私が忙しいときに電話をかけて来て、すぐ来いなどと呼び出すことがありました。一度、忙しかったので行かなかったことがあったのですが、大分経ってから、「モンブラン」へ行ったところ、店の前にいつもは髪をきれいに上げている佐藤さんが、バサッと髪を前に垂らして、真っ青な顔で立っていて、いきなり右脇腹をげんこつで殴られてしまったこともありました」                                                                               <甲210上田輝夫供述調書2532~2534丁>

   ④佐藤の喧嘩早く、激しい性格は、肉親からも批判されている。
  「金があっても、人から金を借りて使うような人でした」
  「口がとても達者で、よくペラペラしゃべってました。また年に似合わずけんか早く、強引なところがあった」                                                          <甲188大金正二供述調書> 
 3.特異な金銭感覚
 佐藤の金銭感覚については全員がケチだと評しているが、その中でも特筆すべきなのは、常に多額の現金を持ち歩き、これを公衆の面前で他人に見せびらかして、得意になっていたことである。請求人をはじめ大勢の者から、そんなことをしていると危険だと忠告されたにも拘らず、止めようとはしなかった。
   ①佐藤の長男の証言。
  「鞄の中を見たことが無いので正確なことは判りません。ただ、父が喫茶店で手持ちの現金をテーブルの上にドンと出したことがあったのですが、そのときには1万円札の札束が10センチメートル位の厚さになる位ありました。そのお金は、たまたまその時だけ多めに持っていたと言う感じではなく、むしろ、いつもそのくらいの現金を持ち歩いていたように思います」 
                                                                              <甲184佐藤文高供述調書>
   ②異母兄の大金正二の証言。
  「いつも持っている鞄の中身を整理しているところを見たことがありますが、沢山の書類を風呂敷に包んだもの、厚み12、3センチもあるような1万円札の束を新聞紙に包んだもの、母の位牌などが入っており」
                                         <甲188大金正二供述調書>
   ③佐藤から銀座の店を賃借していた佐藤稔の証言。
  「(佐藤は)性格的には高慢で、金銭的には汚く、短気、人を信用するような人ではなく、権利金の半金も約3年間も返さないくらいですから、相当なものです。佐藤さんは、私と会ったときはいつも、大きなボストンバッグを持っており、私に、この中には現金が1000万円入っているんだ、などと言っており、私が見たところ、相当重そうに感じました」   
                                                                 <甲206佐藤稔供述調書>
   ④当時、和光証券渋谷支店課長の証言。
  「あるとき佐藤さんが「モンブラン」の店の中で、鞄の中から7、8千万円くらいの札束を出して私の前に積み上げ、それで割引債を買ってやるから、普通の利回りでなく特別に50万円とか30万円とかのリベートをくれ、と要求されたことがありました。」
  「今お話したカマボコ型の鞄のほうは私が一度持ってあげたことがあり、そのとき、えらく重いので驚いて佐藤さんに、えらく重いですな、社長、何が入っているんですか、と聞いたところ、佐藤さんは、金や、と言いながら鞄を少し開けてチラッと中の現金を見せてくれました」
                                       <甲210上田輝夫供述調書2532~2534丁>
   ⑤佐藤から借金をしていた矢ケ崎喜一も、酒食の席で突然に佐藤が現金を積み上げた姿を目撃している。
  「(銀座のスナック・メイという)この店のことで記憶があるのは、佐藤さんが背広の内ポケットなどから1万円札の束を次々と出して見せ、全部で1千万円以上持っているところを見せました。私はびっくりしたのですが佐藤さんは、俺はいつも1千万以上は現金を持って歩くんだ、というので私が、ぶっそうですね、とびっくりして言ったのです。
 このとき佐藤さんは、床屋でただで行ける所を知っているか?というので私が、知りません、と答えると佐藤さんは、帝国ホテルの床屋へ行って顔を剃ったりして貰って、すっかり出来たときに、あいててて、と大声を出せば支配人が飛んできて、ケーキを持ってきたりして、ただにしてくれるよ、というので、私が折山さんに、本当?と聞くと折山さんは、冗談だろう、と言ってました。
 この日、帰りに佐藤さんがすしをご馳走してやると言ったので、私は、いつも1千万以上ものお金を持ち歩くという佐藤さんなので、どんな素晴らしい店でご馳走してくれるのだろうと思ってました。
(中略)     この日確か折山の運転する車で連れて行かれた先が、渋谷駅近くの元禄(回転)寿司だったのです。私は、何だこんな店かと思いました。そこで2、3皿ご馳走になったところで、佐藤さんが、ストップ、と大声で、それ以上食べてはいけないと合図をしたのです。それで私は、金持ちと言うのはなんてケチなんだろうと思いました」  
                                                <甲99矢ケ崎喜一供述調書>
 4.行き当たりばったりの無計画な行動
 佐藤はほとんど家に居つかず、日本中を旅していたが、その行動には全く計画性が無く、行き当たりばったりであった。行き先も駅についてからの時刻表の都合で決める有様で、宿泊の予約をすることはほとんどなく、飛び込みで宿を決めるのが普通である。翌日の予定もその場の気分次第、風任せだった。
 佐藤のように派手な服装で金ぴか装身具を身に着けた、一見して金持ちに見える者にとって、これが如何に危険な行動であるかは言うまでもない。 
 例えば、嬉野温泉在住の愛人高田笑子との九州旅行の顛末はこうである。
  「ある日、佐藤が突然に電話してきて、熊本に居るから迎えに来いと言われたので、車で熊本駅裏の旅館へ向かった。佐藤とそのまま鹿児島へ行って、その日は市内のビジネスホテルに泊まり、翌日、大根占に行った。佐藤が何をしに大根占に行ったのかはよく分からないが、会いたい人がいるということだった。佐藤はその人物の住所を持っていて、途中尋ね尋ね行き、その場所にたどり着いたが、目的の人は居なくて会えなかった。その晩遅くに嬉野温泉の自分の家に帰って来て1泊した。
翌日、東京へ帰るというので、博多まで送った。佐藤が近くの大村空港から飛行機に乗らず、福岡へ向かった理由は分からない。佐藤に言われて、博多に車を置き普段着のままで、東京に一緒についてきた。
帰っても帰らんでも良いし、新幹線があったら乗るかな、という感じだったが、博多からは5時ぐらいに京都か名古屋止まりの列車に乗り、京都駅では在来線の寝台車か何かに乗り換えて東京へ来た。佐藤の行動は、行き当たりばったりだったと思う。
それまでも嬉野へ何度か来ているが、それも計画的ではなく、はずみで動いていたと思う。」                                                                 <高田笑子速記録の概要 1660~1666丁>
 5.台湾女性を連れ歩いていた
 失踪する頃の佐藤は、旅へ行くのにも常に2名の台湾女性トキとフミをお伴にしていた。昭和55年7月半ば、1千万円を融資してくれる礼にと、矢ケ崎喜一から招待された赤坂にあった台湾パブのホステスである。
 滞在期限が切れて強制送還されそうで困っているというトキ、フミに佐藤は「自分に特別の偽造パスポートの入手ルートがあるから任せておけ」といって、台湾クラブから連れ出したのである。
 佐藤は二人の女性に月の20万円の手当てを払う約束をしていたのに支払わず、彼女たちはしばしば請求人あてに支払ってくれと言ってきた。請求人も二人が、放浪中の佐藤と連絡をつける唯一の手がかりとして便利なので、彼女たちとの交流を欠かさなかった。
 佐藤はこの頃、彼女たちと一緒に自分も台湾へ行くつもりだと言っていた。このため請求人は、佐藤が不在になった後しばらくは台湾へ行ったためだと、ずっと信じていたのである。
 もしも佐藤が本当に台湾へ行ったのだとすれば、言葉も分からぬ不慣れな土地で事件に巻き込まれる危険は大きくなる。行ってなかったとしても、この台湾女性の正体が不明で、その後の佐藤の消息をある程度知っている可能性が高い。
 6.何らかのトラブルにあった可能性が高い
 佐藤に関しては、強制捜査に入った警察によって、北陸銀行の佐藤名義の貸金庫から大量のおもちゃの金貨が押収されている。おもちゃを貸金庫に保管するものはいないので、この点なども佐藤の行動がすでに正常ではなくなっていたことを示唆している。
 精神病者であるため他人との正常な距離をとりにくかった上、喧嘩早く、激しい性格の佐藤が、見知らぬ土地を目的もなくほっつき歩き、行き当たりばったりで入った酒場で、ホステスに札束を見せて自慢している姿をイメージして欲しい。これが佐藤の日常生活だったのである。
 請求人以外にも佐藤を知る多くの者が、彼がいずれなんらかのトラブルに巻き込まれるのではないかと噂していた。
 佐藤松雄の失踪は請求人と無関係で行われた可能性がある。  
 7.財産処分行為との関連
  (1)請求人は佐藤と知り会った後、佐藤の所有不動産がほとんど遊休化しているだけで無く、毎月の赤字が累積し続けて、佐藤を悩ませていることを知った。
 佐藤の破滅的な性格や浪費するだけの生活態度から見て、いずれ不動産資産のすべてを売却せざるを得なくなるだろうと予想し、その処分手続きに参画することでかなりの利益が見込めると確信した。
 いざとなれば自宅を売却することで十分に回収できるという目算が立ったので、佐藤の希望に応じるままに、離婚の慰謝料を貸し付けたり、不動産取引の仲介手数料相当額を貸し付けたり、銀座の店舗を賃借したり、共同事業名目で出資したりして、徐々に佐藤の懐深く入り込んでいった。請求人が金銭的な負担を負い実際に現金を出すことで、目先の損得を重大視する特異な金銭感覚を持つ佐藤の信頼を得られたのである。
  (2)請求人としては、あくまでもビジネス本位で交流していたので、佐藤に対する請求人の行動原理の基本は打算である。従って、請求人が債権を持つたびに、佐藤から委任状や必要書類を受け取り、保全措置を講じていた。
 佐藤がすでに仕事上の処理能力を失っていると見た請求人は、いずれ佐藤が約束を破ることが明らかだと判断していた。その時期が来て、約束不履行が起きたときには佐藤の所有不動産を差し押さえるのに必要な書類である。
 最終的には、田園調布の自宅を売却する際に一括して十分な利益を回収できるという計算だったから、それまでの間、請求人が金銭的な負担を負い続けることに何の不安もなかった。
  (3)佐藤と請求人の折半出資による(株)ハウジングヤザキに対する2千万円の融資に関し、昭和55年7月15日に返済日のきた請求人の出資金1千万円の借り換えを認める代わりに、佐藤が同額を立て替えて請求人に代位弁済するという約束があった。
 佐藤が約束日に現れず、この約束を反故にしたために、同年7月21日、請求人は予定していた資金繰りが狂い、額面1千万円の小切手の不渡り事故を起こすことになった。しかし佐藤の性格上、こういった約束違反があり得ることは予測がついていたことだったので、請求人は特にあわてて金策などしていない。
 むしろ約束不履行を起こした佐藤の不誠実さを責め、この際一挙に債権回収をはかって佐藤との関係を清算するか、あるいは佐藤が望めば、共同事業における請求人の立場を有利にする好機会だと考えた。
 同月23日と24日の2日間、佐藤と話し合った結果、請求人が渋谷で経営していた桜商興株式会社の事業を閉鎖するのと引き換えにして、請求人が株式会社佐藤企画の専任となり、経営の実権を掌握することに決まった。
 放浪を繰り返して所在不明状態が多い佐藤が今後も共同事業を継続するつもりなら、資金の管理を請求人が行うしかないので、その事業資金名目で佐藤から預金通帳と銀行印を預かったのはこの時点である。
 それと引き換えにして請求人は24日に回ってきた額面5万余円の小切手をわざわざ佐藤に確認させた上で決済せず、2度目の不渡り事故で桜商興を廃業にした。
 その当時は精神障害者だという認識を持っていたわけではないが、現実に躁病状態にある佐藤をおだてたり、持ち上げたりしながら気分を良くし、請求人の意図通りに有利な条件を飲ませることはそんなに難しいことではなかった。
 もっとも佐藤がこのときに請求人の条件を拒否すれば、田園調布の自宅を代物弁済で取り上げるだけのことだが、請求人としてはできれば強硬手段をとらずに穏やかな方法で済ませたかった。
 佐藤の失踪後に請求人が預金通帳と銀行印を所持していたことが、本件殺人事実認定の重要な情況証拠とされている。しかしながら、請求人が通帳や印鑑を所持していたのは、このような事情があったのであり、佐藤を殺害して入手したものではない。
 常識的に見て佐藤がそれらを他人に預けるはずが無いというが、債務不履行を起こした佐藤としては、すぐに自宅を取られるよりは、この条件がまだしも自分に有利だと判断できたのである。さらに、精神に異常をきたしている躁病患者の行動だと考えることもできるし、常識人の行動として判断するのは誤っている。
  (4)昭和55年8月以降の請求人による佐藤の財産処分行為が、本事案の情況証拠とされている。
 ところが実際には、請求人の行為は佐藤との共同事業を遂行するために、従前からやってきたことを継続していたに過ぎない。取引先や銀行から連絡があって、佐藤が不在の場合には、請求人が処理することになっていた。
 それまでも、銀座のスナックの営業や、賃料、貸し金の取立てを始め、銀行から入金請求があったときなどに処理するのは請求人の役割だった。仮に一見すると、請求人の越権行為に思われる行動があったとしても、佐藤の日ごろの所在不明が多い生活を勘案すれば奇異とはいえないのである。
 また、請求人は佐藤に対して多額の債権を持っていたので、この程度の越権行為も許されるだろうと言う、甘さも見られたかもしれない。いずれにせよ、共同事業遂行の約束を履行するために、期日が到来するたびに、佐藤が不在でも実行せざるを得なかったものである。
 共同事業の範囲を超えた佐藤個人の財産に関することも、緊急に事務処理する必要に迫られて止むを得ずにやったことや、財産を他の債権者の差押えから守るためのものであった。
 むしろ、請求人と佐藤とは共同事業を遂行するに当たり、重要場面で佐藤が不在になり得ることを想定して、計画を作っていた。特に、佐藤の譲渡所得税を脱税してそれを事業資金に当てようという計画は、佐藤が今まで通りの所在不明状態でいる事情を前提にして組み立てている。
 請求人が財産処分に当たり使用した委任状などは、佐藤の不在を想定して、共同事業遂行や請求人の債権保全のために予め佐藤から受領していたものである。
 確かに所在不明期間が数ヶ月と長くなった頃には、佐藤が何らかの事故に巻き込まれたのではないかと想像して、その不在に乗じて自分が有利に立ち回り、できるだけ儲けてやろうと考え、請求人がそのように行動した点があったことは否めない。
 しかし、佐藤との共同事業の合意を超えるこれらの行為は、仮に違法だとしてもあくまで財産犯であって、殺人事件とは直接に関係ない。殺人事件の最大の情況証拠と位置づけるのは、評価を間違っている。

第8 結語
 1.以上述べてきたごとく、本件証拠物フィルムが複数枚偽造されていたことは明らかで、刑訴法第435条1号および第437条の再審理由である「証拠物が偽造又は変造であったことが証明されたとき」に該当する。
 2.また、一審公判開始時点と現在とでは証拠物フィルムが別物になっていることが歴然としており、検察官が虚偽公文書を作成の上、裁判所で保管中の公文書とすり替えたことが明らかである。
 これは前同条7号および第437条の再審理由である「検察官、検察事務官若しくは司法警察職員が被告事件について職務に関する罪を犯したことが証明されたとき」に該当する。
 3.捜査当局の証拠物偽造、および検察官の虚偽公文書作成・行使の事実が明らかとなった今、歯のパノラマX線写真を根拠として本件変死体が佐藤松雄であるとした検察側の立証は完全に崩れたことになる。
 4.本件裁判の当時に比べ、現在では例えばDNA鑑定などの、人の異同識別技術は格段に進歩していて、偽造したフィルムに頼らずとも他の方法で立証することが十分可能になっている。検察側は改めて本件変死体が佐藤松雄であるかどうかの証明をやり直すべきである。
 5.さらに敷衍すれば、捜査当局は、自らの組織防衛のため、あるいは個人的な保身のためになら、平気で証拠の隠滅を図ることが明らかにされたことになる。
 前述したように、本事案はほとんど捜査検事の証言だけで成り立っている事件である。請求人が検事の言うような供述をしていないと否定しているのだから、検事の伝聞証言そのものが果たして実際に存在したのかどうかについて、再度慎重に検討する機会を与えて欲しい。 
 6.その立証の機会を作るためにも、御庁はできるだけ速やかに再審開始の決定をしていただきたい。
                                                                     以上

 

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